2018年5月13日日曜日

人生は1度きりではない



良く会話の中で「1度きりの人生だから思いっきり楽しみましょう」という言葉を聞きます。

好きなことをしたり、いろいろな場所に行ったり、おいしいもの食べたりして、人生を楽しむのはとても大切だと思います。

ただ1度きりの人生」というフレーズに、私はどうしても引っかかってしまいます。

なぜなら、人生は1度きりでは終わらないと考えているからです。



客観的な証拠は提示できませんが、私たちは何回もこの世に生まれて来ています。

人生が1度きりに思えてしまうのは、過去の人生(過去生)の記憶が完全に消され、先にある世界は窺い知れないようになっているからと考えています。

その理由は定かではありませんが、過去や未来に捉われずに、今生を精一杯生きるための神の配慮だと考えています。



この世に生まれて来る目的は、自分(魂)を成長させるためです。

しかし、1度の人生では神が望むところまで、人は成長しないと考えられます。

では、この世の人生が1度きりで終わる人はいないのでしょうか?

イエス・キリストのように、自分の成長のためではなく、世の中を大きく変える使命を持って生まれて来る人は、この世の人生は1度きりなのかもしれません。

そうではない、ほとんどの人は、この世に何回も生まれて来ると考えられます。



目に見えない魂を、ダイヤモンドに例えてみます。(シルバーバーチは「類魂」の説明のためにダイヤモンドに例えています)

ダイヤモンドはいろいろなファセット(面)を持っています。

たくさんの面をきれいに磨いて行き、全体が磨かれた時に、美しく光り輝き出します。

私たちの魂はダイヤモンドの原石のようなものであり、そのままでは光り輝くことはありません。

たくさんの面を持ち合わせていて、それらを磨いて行くことによって、輝きを放つようになると考えられます。

自分の欠点や未熟な部分は、まだ磨かれていない面であり、輝きを放つためには磨かれなければいけません。

この人生でいくつかの面を磨き、また次の人生で別の面を磨いて、それを繰り返しながら、全体が磨かれて行くと考えられます。

そして、一定の輝きを放つようになったら、この世に生まれて来る必要はなくなると思われます。


ダイヤモンドを磨く物は、実はダイヤモンドです。

お互いが擦れ合って、強い摩擦力が働くことによって面の粗さが取れて磨かれ行きます。

当然ですが、魂も何もせずにいたら磨かれることはありません。

この世で、たくさんの人と出会い、幾多の経験をしながら磨かれて行きます。

ダイヤモンド同士が激しく擦れ合う中で磨かれるように、人は人によって揉まれ、困難や障害など抵抗や負荷を感じる経験を通して磨かれて行くと思います。

従って平穏無事に終わる人生などあり得ません。

失敗、挫折、喪失は人生においてきものであり、深刻な経験であるほど、魂は強く磨かれると考えられます。



大きな失敗や挫折を経験したり、大切なものを失ってしまうと絶望感に襲われ、これで自分の人生も終わりだと思ってしまうかもしれません。

もう1度強調しておきますが、この世で終わりになり、無になってしまうことは決してありません。

俗に言う死とは、肉体の死です。

生命の本質である魂は、変わりなく存続しています。

肉体の死を迎えた魂は、直ちに次の世界に移行し、そこで新しい活動が始まります。

これは夢物語や空想の世界の話ではなく、誰にでも訪れる現実であり、1つの自然現象に過ぎません。



次の世界に移行してしばらくすると、この世の人生を振り返る時が来ます。

この世で、想ったこと、言ったこと、行ったことは、細大漏らさず魂(オーラ)に刻み込まれていて、大きなスクリーンのようなものに映し出されると言われています。

この世の人生を客観的に振り返りながら、自分で自分を評価する、もっと厳しい言い方すれば自分を裁くことになります。

それと同時に、今まで経験した出来事の真の意味を知ると考えられます。



人生で最もつらい出来事を経験をして、打ちのめされ、涙を流し、生きる気力を失っているいる自分の姿が映し出されます。

霊的な眼で視ると、活動が鈍くなっている肉体や頭脳とは対称的に、それまで眠っていた深層の意識である魂が目を覚まし、想いを放ちながら活動を始めているのが判ります。

魂が意識しているのは、物質的なものではなく、霊的なものです。

この世を生きる意味を模索し、目に見えない大切なものを求めているかもしれません。



人は成長して行くように定められているので、同じ場所に留まっていることが出来ません。

いつまでも留まっていようとすると成長しないために、その停滞した状態に苦しみを感じてしまいます。

苦しみから逃れたくて、必死にもがいて何とか抜け出そうとする中で、魂は成長しています。

その様子を見ながら、つらかった出来事は、実は自分を磨き、成長させるためにあったことを知り、それまでの思いが一変します。



この世の人の人生を、見守り続けている存在(守護霊)がいます。

守護霊は、魂を磨き、大きく成長するために、どうしてもこの出来事を乗り越えなければならないこと、そして生まれる前の自分が承知していたのを知っていました。

そのことを告げられ、苦しくても逃げ出さずに生き抜いて、この世に生まれた目的を果たせたことに、深い安堵感を覚えるでしょう。



この世の人生の経験は、自分(魂)を成長させるためにあり、そこから大切なことを学んでいます。

学んだことは、新たに始まる人生で活かされます。

何1つ無駄になっていないことを知り、無限なる叡智の働き(自然法則)に感嘆すると共に、創案した存在に感謝するでしょう。




良心に逆らって、摂理に反した言動をしている自分の姿を見せられたならば、恥じるのは避けられません。

自分の行いで、人を傷つけたり、成長を妨げたりしてしまったならば、悔いてしまうのも避けられません。

もし、この世で大きな借り(罪)を作ってしまったのならば、後悔はとても大きなものになりますが、無限なる叡智の働きによって、その借りを返す(償う)機会が与えられると考えられます。

もう1度この世に生まれて、人生のどこかで償いの経験をして、神の摂理を深く魂に刻み込み、2度と同じ過ちを犯さないようになります。

この人生で予定していたことが、成し遂げられなかったのが判ったのなら、後悔や無念の思いを抱くのも避けられません。

自らが望むのなら、その思いを晴らすための人生が提示され、今度は成就して行くことになるでしょう。



過去は閉じられていて変えられません。

しかし、未来は開かれていて、想いのままに変えられます。

悔やみ切れない出来事があり、その事実は消せないとしても、また機会が与えられて、苦しみや痛みを伴いながらも乗り越えることで、その想いから完全に解放される時が来ます。

失敗をしても、過ちを犯しても、人生は1度きりでないので、やり直しが出来ます。

大切なものを失い、悔し涙を流すだけ流して、それで終わりになることは、決してありません。





人生が1度きりならば、世の中は不公平なものになってしまいます。

苦しい人生、厳しい人生を歩んだ人には、魂の成長という報奨が与えられ、公平性は完全に保たれています。

苦しく、つらかった人生は死と共に終わります。

肉体はなくなり、真の自分の姿(魂)を目の当たりにして、輝きが増していることに気付き、大きな悦びに包まれると共に、この世を生きてきた目的をようやく思い出すでしょう。



1度きりの人生で、消えてしまう運命であれば、生きている意味は見出せません。

喜び、悲しみ、苦しみなどが存在する意味も見出せません。

生命とは魂です

この世での喜び、悲しみ、苦しみの経験は、魂を成長させるためにあります。



長い長い生命の営みの中で、今、1つのピリオド(期間)を生きています。

全体を通して人生を見れるのならば、この世を生きている意味は明確になりますが、残念ながら判らないようになっています。

大切なのは、全体の中の1部であるのを承知しておくことです。

人生は1度きりなどではありません