2017年12月10日日曜日

人間関係で悩むのがこの世



この世を生きていている多くの人にとって、悩みや苦しみにつながっているのが人間関係です。

気心の合う人ばかであれば良いのですが、この世には、自分と性格や考え方、価値観の違う人がたくさんいます。

この世は、一人では生きていけないようになっていて、いろいろな人たちと交わりながら生活しなければなりませんが、そのことに大きな意味があると考えられます。



誰しも、いつの日か死が訪れます。

その先に待っている世界は、この世と大きく違います。

自分が会いたいと想う人だけと会い、嫌いな人、苦手な人、親しみを感じない人たちと、会うことはなくなります。

人間関係の煩わしさから、完全に解放された世界があの世です。



では、何故、私たちはこの世で人間関係に、悩み、苦しまなければならないのでしょうか?

全ての次元を通して、私たちが生きている目的は、自分(魂)を成長させるためであり、苦しみを乗り越える中で自分(魂)が成長すると言う、自然法則の働きがあるためです。

人間関係に煩わされることのない快適なあの世よりも、性格や考え方、価値観の違う人と交わり、その中でもまれ、時に苦しい思いをするこの世の方が学ぶことが多く、魂はより大きく成長すると考えられます。

快適なあの世を離れ、この世に生まれて来たのは、より大きく成長し、大切なことを学ぶために自らが志願した結果であり、学び、成長するのに従って、この世の苦しみから解放されて行くと考えられます。



考え方や価値観の違う人と接すると、一種の軋轢が生じます。

激しい個性の持ち主同士であれば衝突が起きて、時に怒りのようなものが生じてしまうかもしれません。

軋轢が生じるのは、自分が理解されなかったり、自分の意見が通らなかったためと考えられます。

しかし、裏を返せば、相手を理解していなかったり、意見を尊重しないために生じているようにも思えます。

軋轢を避けるために、相手に考え方や価値観を自分に合わせてもらうのは、極めて困難です。

自分は変えようとせずに、相手に変わってもらおうとするのは利己的な考えであり、上手く行くはずはありません。

もし、軋轢を避けたいのであれば、相手に変わってもらうより、自分が相手を理解する、尊重するように変わるしかありません。



軋轢から争いに発展している世の中の状況は、自分はそのままで、相手に変わることばかりを求
めているからのように思えます。

相手に変わることを求めても、受け入れるはずはなく、反発を生んでしまうだけです。

自分のことを、ますます受け入れてもらえなくなり、両者の溝は深まって行くだけです。



相手が間違っていると決め付けてしまうのが、1番良くないのかもしれません。

決め付けてしまう人ほど自分の意見を譲ろうとせず、相手の意見にも耳を傾けないような気がします。

間違っていると決め付けると、因果律の働きにより、相手もこちらが間違っていると決め付けてしまい、両者に歩み寄りはありません。

間違っていると決め付けてしまうことから、まず解放されなければいけません。



正しい間違っているのかは、主観によるものではなく、神の摂理(自然法則)を基準に、判断しなければいけません。

個ではなく全体の利益をもたらす方、大きな悦びをもたらす方が、より正しい意見です。



自然法則(神の摂理)に適っている人は、自分の意見を通そうとする人ではなく、相手の意見を尊重する人です。

相手の意見を尊重すれば、因果律の働きにより、結局は自分の意見が尊重されることになります。



それでも、どうしても相手の意見が明らかに正しくなかったり、利己的で認められない時はどうすれば良いのでしょうか?

その意見は、長くは続かずに、いずれ淘汰されてしまうと考えられます。

自然法則に適った意見のみが、永続的に残ります。



相手の意見を無視して、頑なに自分の意見を通そうすると、後ろめたさや罪悪感を感じるかもしれません。

魂には良心が内在されています。

良心とは、自分の中に顕現している神の心です。

神の心は、あらゆる自然法則の中に現れていて、ばらばらになった違うものを一つにさせようとしています。

自然法則の働きに従えば悦びが、背けば苦痛がもたらされるのは、自らの過ちに気付いて、私たちが一つになるように導かれているからです。

相手と自分が歩み寄るのを妨げてしまう行いは、一つになろうとする良心の声に逆らうことになり、何かしらの苦痛を感じてしまうと考えられます。



シルバーバーチの霊訓を読んでいると、交霊会の参加者が、人を非難したり、咎めたりする発言をすると、途中で話を遮り、いさめる場面がありました。

咎めたり、非難するのは、対象が間違っていると決め付けているからであり、その言動自体が間違っているので、いさめられたのかもしれません。

間違っていると咎めたり、非難してしてしまうと、その事象はそれで完結してしまい、自らを省みることはなく、欠点に気付いたり、足りないところを補おうとする努力を放棄してしまうことになり、それでは成長が望めないような気がします。

また、相手を咎めたり、責めてしまうのは、自らの寛容性のなさを露呈しています。

自分の未熟さを承知している人ほど、相手の未熟さを咎めたりすることが出来なくなると思います。

たとえ過ちであっても、それが相手の未熟さから来るものであれば、より成長した人は認め、許さなければいけないのかもしれません。

さまざまな人(魂)が交わるこの世の人にとって、認め、許すことは極めて重要であり、咎めたり非難をすると、成長の機会を失っていることになるのかもしれません。



怒りや、拒絶からは、何も生まれず、何も得られません。

怒りや拒絶が生まれないような考え方や捉え方をするようになるのが、この世の学びであり、成長につながっていると思います。

意見が衝突して怒りや拒絶が生じる前に、相手の想いを探り、そこに隠された意図を見つけ出す必要があり、より成長した人がその努力をしなければいけないのかもしれません。

例えば、怒りや拒絶をあらわにしている人がいるとします。

怒りを前面に出して、攻撃的になっているのですが、その根底にあるのは恐怖なのかもしれません。

恐怖に支配されているために、信じることが出来ず、過剰に自分を守ろうとしてしまうことがあります。

過剰に自分を守ろうとする行為が、相手に恐怖を生じさせて自分を守ろうとする行為となり、それが新たな恐怖を生み出してしまいます。

その連鎖を断ち切るためには、相手に恐怖を感じさせないような十分な配慮が必要と思われます。



相手を知らないと、不安になります。

不安になるから、自分を守ろうとします。

自分を守ろうとすると、自我が強固になり、お互いが衝突してしまうことになります。

お互いを知らないことから始まっているので、こちらの方から知ろうとする努力が必要です。

そして、表面だけを見るのではなく、言動に込められた想い(真意)を知ることで、人々を悩まし、苦しめている多くの問題は解決されると思います。



あの世では、自分の想いが直接、相手に伝わります。

しかし、今いるこの世界では、言葉や行動で表現して伝えなければいけません。

お互いを知るために、コミュニケーションを取る必要があります。

意見が衝突してしまう相手とは、係わり合いになりたくないと避けるのではなく、そんな人ほど密なコミュニケーションを取って、お互いのことを知らなければいけません。

自分とは合わないと思っている人は、実はお互いに知らないだけなのかもしれません。

想い(真意)を知ろうとする努力は、この世での成長につながっていると考えられます。



お互いを知ることで、緊張が解けて、初めて信頼関係を築く土壌が出来上がります。

信じ合うことは神の摂理であり、心が通い合い、1つになれた悦びを感じます。