2014年6月26日木曜日

かわいい動物たち




シルバーバーチの霊訓を読んで、意外に思ったことがあります。

それは、動物についてです。

地球上で最も進化した動物は人間です。

2番目に進化した動物は何でしょう?

答えは、犬ということです。

猿ではないのかと思いましたが、人間のそばにいて愛情を受けた犬が、猿を抜き去ったそうです。

3番目に進化しているのは、猫だそうです。

私は、進化というのは知性の発達だと思っていましたが、そうではないみたいです。

進化とは、知性ではなく、霊性の向上ということになります。

犬や猫が進化したのは、人間のそばにいて愛情をもらい、霊性が向上したためだと思われます。



霊界に行くと、肉体である頭脳はなくなり魂(霊)のみの存在となります。

従って、頭脳による思考はなくなり、魂から生まれる想いがすべてとなります。

この世では、知性が高いか低いかが重要視される傾向にありますが、向こうの世界では霊性がすべてを決定します。

頭の良し悪しよりも、やさしさや思いやりがあるかないかが、はるかに重要と言うことになります。

学歴、肩書きなどは、すべて剥ぎ取られてしまい、全く意味を持ちません。

人や社会のために、何をしてきたかが問われます。

魂を隠す肉体はなくなっていますので、魂はあらわとなり、どんな想いでいるのか、誰が見ても分かるようになります。

本音と建前はこの世だけであり、本音だけとなります。

表と裏のある人は、裏だけになります。

魂がむき出しになり、隠し立ては一切出来なくなります。

この世を去った後のことを考えると、今のうちから、正直に、ありのままに、誰から見られても恥ずかしくないような生き方をしていきたいです。



ところで、私は動物と一緒にいっしょにいるのが、とても好きです。

家には、しろという雑種の4才のメス犬がいます。

2回も保健所に収容されました。1回目は生まれてすぐに飼い主に捨てられて、2回目は新しい飼い主となった家から出て、1ヶ月の放浪の末に捕獲されて、いずれもぎりぎりのところで見つけ出しました。身ごもっていました。

しろは、自分の立場が良く分かっています。

自分が出戻ってきたこと、新しい飼い主が見つかれば、この家を出て行かなければならないことを、承知していると思います。

夜、仕事から帰ってきて部屋のドアを開けると、しろはソファに座っていて、いつもあたたかい穏やかな眼差しで迎えてくれます。

「おかえりなさい。ご機嫌はどうですか?」と語りかけているように感じます。

やさしい犬なのですが、疲れて帰った時には、背中を向けて撫でてくれと、私に訴えます。

何で疲れている時に限って、なぜ撫でてもらいたがるのか、しばらくは分かりませんでした。

しょうがないなと思いつつ、やや大きな背中を撫でてやります。

しばらく撫でているうちに、仕事で波だっていた気持ち、疲れて沈滞していた気持ちがほぐされて、穏やかな気持ちに変わっていくのが分かります。

しろの背中を、無心に撫でているうちに、1日のいやなことが忘れられて、代って愛おしむ気持ちが自然に湧いてきます。

犬や猫は、想像する以上に賢く、愛情深い動物だと思っています。

人の想いを瞬時に読み取り、どうすればいいのかがわかるようです。

しろは、撫でてもらいたいのではなく、疲れているのを見てとって、撫でさせることで、私の気持が良い方向に変わってくるのを知っていると思いました。

しろにしかできない、愛情表現だと思い、いつも感謝しています。

自分が受け取った愛情を忘れずにいて、自分なりに返そうとしているのだと思います。飼い主のために、役に立ちたいのかもしれません。

しろの背中を撫でてやるのは、神の摂理に適った愛情を表現する行為であり、そのため、神からの生命力が流れ込み、私が癒やされているのだと思います。

癒やすことで、癒される。

施すものが、施される。

神の摂理を、ささいな日常の出来事の中に、見つけたような気がしました。



犬や猫などの動物は、言葉や論理的な思考はありませんが、魂から生まれる想いはあります。

人間みたいに、想いと表現の不一致はありません。

建前はなく、いつも本音です。

想いを、素直に正直に表現しているので、気が許せて、かわいいのでしょう。

私は動物たちのように、過去を振り返らず、将来を心配せず、今を精一杯生きたいと思っています。

しかし、できそうで、なかなかできません。過ぎたことを後悔し、先のことを考えて悩み、それに縛られると、今を精一杯生きられなくなってしまいます。

少しずつ、克服していきたいと思います。



動物も人と同じ様に、喜びや悲しみ、怒り、怖れ、嫉妬の感情があります。

そのことに、全く気付かずに、あるいは気付いていても無視して、人間は信じられない行為をしています。

毎年、数十万匹の罪のない犬猫たちが、悲しみ、恐怖、絶望の果てに、ガス室で息絶えています。

向こうの世界で、傷ついた動物たちの魂は介抱され、徐々に落ち着きを取り戻していくのは、せめてもの救いです。

しかし、神の摂理に反した弱者を虐げる行為は許されるはずもなく、かかわったすべての人たちは罪を償わなければいけません。

犬や猫を飼いたいと思った時は、保健所や動物愛護センターに行って、生命を救って下さい。

その行為は、神の摂理と完全に一致しているために、動物たちとの幸せな日々が、きっと待っていると思います。

人間と動物を結びつけているのは、種を超えた愛であり、動物を守り、愛することは、進化の上に立つ人間の義務であり、その結果として動物から愛されます。

そして、動物を愛することで、神からも愛されるのではないでしょうか。
新しい飼い主が現れないので、親子3匹私の家族になりました。



参考ページ: 「人は動物を食べる生き物ではない」



              
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ホープ・雄・7ヶ月(写真は4ヶ月当時)

 




2014年6月20日金曜日

神の摂理に合わせて病気を治す



世の中には、病気で大変つらい思いをされている方がたくさんいます。

医療に携わる人は、患者さんの健康を回復するために、日々研鑽、努力しています。

その努力にもかかわらず、日本において、30万人以上がガンにより亡くなられています。

根本的な治療を確立するためには、ガンの原因について解明されなければいけません。

ガン発症のリスク要因(喫煙、飲酒、肥満等)についての研究データは豊富にありますが、残念ながら、主因については、未だ解っていません。

主因が解らないまま、目に見えるガンを消滅させようとする治療が、多くの人に不利益をもたらしているように思えます。

ガンの主因を見つけられないのは、医学が対象としているものの中には、ないからだと思います。

人は、肉体と精神から成り立っていると考えられています。

しかし、精神(心)はどこから生まれるのか、解っていません。

大脳皮質における化学伝達物質の反応により生じるという説明では、とても納得することはできません。

膨大な脳の研究によっても、人の性格や考え方の多様性を説明することは不可能です。

生命とは何か?という根源的な問いに対しても、科学は答えを見出せずにいます。

生命、心の正体を突き止められないのは、科学が対象としているものの中には、ないからだと思います。

未知の領域である、魂(霊)に踏み込んでいけば、説明は簡単となります。

生命とは肉体を超えた魂であり、心は大脳からではなく、魂から生じるものであり、そのために多様性を持ちます。

そう考える方が自然だと思いますが、残念ながら、医者や科学者は、霊(魂)の存在を、認めていません。

触れてはいけない、入ってはいけない領域だと思っています。

しかし、霊と肉体は不可分であり、健康と密接に関わっていることは、明白な事実です。

その(霊的な)知識なしに、病気の本質を理解することは、不可能だと断言します。


人は肉体を超えた存在であり、生命力で生かされています。

肉体は土に還っても、生命は存続します。

その厳粛な事実を、謙虚に認めることから、すべてが始まります。

私はシルバーバーチの霊訓から、崇高な霊的真理を学びました。

多くの病気の根本原因は魂にあり、神から生命力が流れ込むことにより、病気が癒やされることを知りました。

途切れることなく、神から生命力が流れ込んでいます。

しかし、その実感はありません。

そのため、生命力の存在を信じるのは容易ではありません。

約7年前に、思いもよらず、治癒力が出現しました。

病気の人に、私の左手を置くとエネルギーらしきものが上腕から前腕、そして指先に伝導していき、患者さんに流れていくのを、はっきりと感じます。

そのエネルギーらしきものは生命力であり、患者さんに治癒力として働いていることを、経験を通して確信するに至りました。



過去のブログにもある内容ですが、ガンで苦しんでいる患者さんが、少しでも良くなることを願って、あらためて書きます。

目には見えませんが、魂は間違いなく存在します。

生命の本体であり、意識の本体です。

魂は、神の一部であり、神とつながっています。

魂は、神からに流れ込む(生命)力により生かされています。

生命力は神の力であり、神の心である愛を表現しようとする力です。

魂は生命力により、愛を表現しようとしますが、表現するには媒体が必要となります。

肉体は、地上の人が魂を表現をするための媒体です。

間断なく、魂から想いは生じています。

想いは精神を経由して、肉体で表現されます。

人は、肉体を使い、言葉、表情、行動により、想いを表現します。

この世を生きている人の魂は、さまざまな進化の過程にあります。

進化した魂は、神の力である愛を忠実に表現しようとしますが、進化が足りなければ愛が歪められてしまう時もあります。

怒り、憎しみ、恨み、妬みなどの想いは、神の力である愛が歪められてしまった結果です。

人は生きていると、思いもよらぬ、つらい出来事に遭うことがあります。

その出来事により、魂から様々な想いが生まれます。

想いは精神を経由し、感情となり、肉体(言葉や行動)で表現されますが、強い抑制がかかると、想いを表現できないことがあります。

つらい出来事から生じた、怒り、恨み、憎しみ、妬みなどの摂理に反する想いが、表現されずに留まると、やがて魂のありさまを変えていきます。

愛が歪められ、怒り、恨み、憎しみ、妬みを帯びた想いが、魂から生じるようになっていきます。

そのため、怒りやすくなったり、許せなくなったり、認めようとしなくなったり、協調しなくなったり、欲深くなったり、摂理に反した行いとして、表現されてしまいます。

摂理に反した想いを抱き、それを表現するのが習慣になってしまうと、過ちに気付き、自らの力で改めるのは困難になっていきます。

そして、神の摂理である因果律が作動します。

その結果として、病気が生じることがあります。

病気になれば、苦痛を経験しなければいけません。

苦痛の経験は、摂理に反した想いを抱き、表現した、相応の償いです。

償いであるとともに、魂を向上させていきます。

魂が向上すると、他者の想いを理解できるようになります。

愛の大切さに気付き、愛を表現するようになります。

神の愛を表現することは、魂を向上させることであり、生きている意味そのものです。

従って、病気は、生きている意味を取り戻すためにある、神の摂理と言うことになります。

ガンは、不運でも偶然でもなく、神の摂理によって生じます。

死に至らせるため、苦痛を与えるだけの病では、決してありません。

原因は魂にあり、肉体の病変はその結果を見ているに過ぎません。

魂のありさまの変化が、肉体のありさまの変化として表現されています。

もしかしたら、魂にありさまを変えてしまうような、とてもつらい出来事があったのではないでしょうか。

その記憶は薄れても、魂にはしっかりと刻まれています。

つらい出来事によって生じている想いは、固く、深く根を張り、魂にしこりとなっています。

想いを表現するのに、大きな障害となっています。

愛を素直に表現することが、どうしてもできなくなっています。

その人にふさわしい愛の表現ができるようになるために、魂にまで響く、深刻な事態が、神の摂理である因果律により生じます。

とてもつらいことですが、絶望の淵に立ち、耐え難い苦痛を味わい、頼るものは何もなくなり、観念しかけた時に、それまで眠っていた魂が、ようやく目を覚まします。

魂が目覚めると、生命が輝きだし、しきりに愛を表現しようとします。

愛を表現することで、神とのつながりがさらに深まり、より多くの生命力(神の愛)が魂に流れ込み、その力により、想いのしこりは徐々に消えていきます。

想いのしこりが消えていくととも、魂のありさまが変わり、やがて肉体のしこりも消えていきます。

想いを表すのに、さえぎるものは消えてなくなり、魂は本来の姿を取り戻し、その人にふさわしい愛を、素直に表現できるようになります。



病巣が消退していき、健康になり、前の生活を取り戻したいと望むのは当然です。

痛みとの闘い、恐怖と不安との闘いを、早く終わりにしたいと願うのは当然です。

愛の想いを抱き、愛の表現を出来るだけしていきましょう。

やさしくすること、思いやること、いたわること、慰めること、励ますことは、立派な愛の表現です。

許すこと、認めることも、自己を忘れた愛の表現です。

感謝の気持ちを表すのは、相手に喜びや満足を与えるので、大切な表現だと思います。しかし、慣れてしまうと忘れがちになりますので、注意して下さい。

笑顔も、人だけに許された、ささやかな愛の表現です。

しかし、病気になると、したくてもできないことが多くなってしまいます。

マザー・テレサは、こう言っています。

「私たちは、この世で大きいことはできません。小さなことを、大きな愛をもって行うだけです」と

感謝の想いを込めて、笑顔で「ありがとう」と言いましょう。もし、言えなければ感謝の想いを送りましょう。

自分なりに、自然に、素直に、愛を表現をしていきましょう。

神の摂理である愛を表現することで、より多くの生命力が魂に流れ込み、ありがたい自然治癒力となり働きます。

病気を治すために、からだを養生することは大切です。

それ以上に、神の摂理に合わせることは大切だと思います。













2014年6月12日木曜日

想いを表現する



今日は仕事が休みなので、いつもの障害者施設にボランティアに行ってきました。

ボランティアと言っても、話をしたり、一緒に遊んだりするだけです。

それでも、行くと皆さん喜んでくれます。中でも20代の男性であるH君は障害のない片手を上げて、満面の笑顔で迎えてくれますので、こちらが恥ずかしくなります。

彼は、小学6年生の時に、交通事故に会い、生死の境目をさまよいました。

向こうの世界には行かず、こちらに戻ってきました。

ご両親とご家族は、さぞ喜んだことでしょう。

しかし、肉体は大きく傷つき、半身不随、片眼失明、言葉を失い、車いすの生活となりました。知能の発達は止まってしまっている可能性が高く、会話をすることはできません。

脳は損傷を受けて、たとえ言葉を失っても、魂から湧き上がる想いは、健常者と変わりありません。

子供のような瞳を見ていると、その奥に彼の魂をしっかりと感じることができます。

目に見える肉体に障害があっても、目に見えない魂はいたって健全であることが、心やさしい彼と一緒にいると分かります。

そして、想いをうまく表現できないことが、いかにつらいことなのか、伺い知る時があります。

「嫌だ」、「やめて欲しい」、こんな簡単な表現ができないために、どれほどつらい思いをしてきたのか、想像もできません。

そんな彼には、大好きなお父さんがいて、時々週末には家に連れて帰ってくれます。それを何よりの楽しみにしています。

ある日、部屋で二人っきりになる時があり、日頃、感じていることを、思い切って彼に尋ねてみました。

「どうしても伝えたいことがあるでしょう?」

「分かるかもしれないから、良かったら伝えてごらん」と言いました。

想いは言葉を介さずに、魂から魂に伝わるものだと知っていましたので、大きな瞳を見つめながら、彼の想いが伝わってくるのを、静かに待ちました。

すると、「ありがとう」という感謝の想いを感じ取ることができました。そして、お父さんの面影が頭に浮かび上がり、結びつきました。

ためらうことなく「お父さんに、ありがとうと伝えたいの?」と聞いてみたところ、目から大きな涙が溢れてきて、大きくうなずきました。

受け取ったやさしいさや思いやりを、「ありがとう」という言葉で返すのは、礼儀を超えた、魂の素直な表現です。

日々、多くの恩恵を受けているのもかかわらず、感謝の気持ちを言葉にするのを、ついためらってしまう私は、この「ありがとう」の一言がどれほどの重みを持つのかが、あらためて分かりました。

周りから、いろいろな想いや行いを受けるばかりで、表現して返すことができない、彼のくやしさ、もどかしさは、計り知れません。

残念なことに、彼の身体は元には戻りません。言葉で表現するのは、これから先も無理でしょう。

しかし、肉体のない次の世界に行けば、想いのすべてを思う存分、お父さんに伝えることができます。

言葉という、もどかしい、あいまいな媒体は必要とせず、魂から魂に、想いを直接伝えることができます。

肉体が障害となり、伝えられなかった想いは、肉体がなくなることで、間違いなく伝えられるようになります。そんな事も、H君に話をしました。

表現の自由が限られたH君は、これから先も試練が続いていきます。

彼にとってどんな意味を持つのだろうと考えてみましたが、自由に表現できるありがたさを知るためとしか、思いつきません。

失うことでしかわからない大切なことが、あるのだと思います。

大切なものであればあるほど、試練は長く、こんなに厳しくなるのでしょうか。

何十年かして、一足先に向こうに行き、待っているであろう、お父さんと再会して何を伝えるのでしょうか。

言葉にすれば「お父さんがいたから、つらいけど乗り越えられたよ。本当にありがとう」でしょうか。

しかし、ずっと伝えられなかった想いは、「ありがとう」という言葉では表現し尽くせるものではない、強烈な愛の想いであり、魂と魂でしか伝わらないものだと思います。

今日のH君ですが、活動時間にしたボウリングで優勝しました。喜びは、しっかりと満面の笑顔で表現していました。

この世では肉体という、鈍重な媒体が使われているため、想いのすべてを表現することは、到底できません。

しかし、この世を生きているうちは、神から与えられた肉体と言葉で、想いを表現していかなければいけません。

さまざまな経験をするのは、魂を向上させるために避けらませんが、出来事がとてもつらく感じられてしまうと、人は早く忘れようとします。

しかし、頭では忘れたとしても、魂にはしっかりと刻まれていて、想いは生じています。

そして想いが滞ってくると、魂に流れてくる神の愛が堰き止められてしまい、肉体で素直に表現できなくなります。

魂は神の一部であり、神の心である愛を表現するために存在していますので、滞った想いは早く開放してやらなければなりません。

H君のように障害があり、つらい経験をしても想いをうまく表現できない人は、想いが滞り、病気になってしまうのではないかと思いました。

しかし、現実には感染症以外の病気にかかる人は、あまりいないようです。

想いを表現することができない人は病気にはならないで、想いを表現しようとしなかった人が病気になるのかもしれません。

人に伝えにくい想いは、いくらでもありますが、自分なりに精一杯、言葉や表情、あるいは行いで表現していくしかありません。

素直に、ありのままを、正直に。

とても難しいことですが、愛の想いに変えて。

H君を見ていて、そう思いました。