2014年8月10日日曜日

この世の先にある世界



死んだ後、どうなるのだろうか?

昔、漠然と考えたことがあります。

死ぬことは、遠い先にある出来事であり、そんなことを考えるより、今をいかに楽しく、充実させる方が、よっぽど大切に思えました。

死んだ後どうなるのかは、死ななければ分からないという結論に至り、深くは考えませんでした。

もし、無になってしまうと考えると、心も意識もなくなってしまって、何だか怖く感じます。

無になってしまうのであれば、生きている意味はあまりないように思え、とても虚しくなってしまいます。

幸いにして、死ぬ前に、確かな知識を手にすることができました。


無になることはありません。

生命は魂であり、生き続けます。


肉体の死とともに、この世から次の世界に移行します。

空想でも、夢物語でもありません。

神の摂理に従って、その現象が起こるだけです。

そんなことは信じられないと、言っている人も、その現象に直面します。

知らないよりも、知っていた方が、混乱することなく、次の世界にすんなりと順応して行けます。


死んだらお終いであれば、この世を生きる意味を、説明するのは困難です。

ただ、生まれて、生きて、死ぬということになります。

人生は、そんな浅はかなものではありません。

終わることのない物語を、自らが綴っています。

物語の主人公は、自らの魂です。

物語のテーマは、愛です。

死とは、1つの章の終わりであり、新たな章の始まりです。

物語の終わりではありません。

この世と次の世界は、それぞれが乖離(かいり)した世界ではなく、お互いがつながっていて、密接に関係をしています。

この世をどう生きたかで、次の世界での展開は変わっていきます。

死ねばお終いと思えば、好きななことをして、人生を長く楽しむことが、最も大切と考えてしまうかもしれません。

お金をたくさん得て、欲しい物を手に入れ、贅沢な暮らしをするのが、幸せな人生だと思ってしまいます。

私も恥ずかしながら、仕事で成功して、高い評価と、収入を得ることが、人生の目的と考えていた時期がありました。

真実を知ることができて、心から良かったと思っています。

次の世界は間違いなく存在しますが、地位や名誉や財産は持っていけません。

次の世界に持っていけるのは、自分の魂だけです。

愛に根ざした行いは、魂を美しく光り輝かせる、永遠の財産となります。

魂には、この世での想い、行いのすべてが、刻み込まれています。

次の世界での生活に慣れてくると、そのひとつひとつを、自らが検証する時がきます。

自分の行いが、人を幸せにしたり、社会を良くしたのを知り、喜びに満たされます。

喜びとともに、魂は一歩向上します。

自分の行いが、人を不幸にしたり、社会に迷惑をかけたのを知り、後悔します。

後悔とともに、魂に負債(カルマ)が生じます。

すべての想いや行いが、細大もらさず勘案されます。

大事なのは、生まれる前の魂に比べて、死んで向こうに行った時の魂が、少しでも向上していることです。

少しでも向上していれば、この世を生きた意味があったことになります。

家族や社会のために、自分を犠牲にしながら、一所懸命に生きてきた人は、何の苦労もなく、楽しく気ままに生きてきた人より、幸せです。

なぜなら、自己犠牲は愛の表現に他ならず、その努力により、魂の向上が得られているからです。

この世に生まれてきた目的を、より成就したことになるからです。


人はどうして、つらい試練を乗り越えようとするのでしょうか?

そのことに、どんな意味があるのでしょうか?

誰かに言われたから、そうしているのではありません。

苦しい経験、つらい経験、悲しい経験の中で、悪戦苦闘し、奮闘努力することで、魂が向上することを、真の自分が知っているからだと考えられます。

この世では、魂を表現するために肉体をまといます。

想いを、肉体を使って、言葉や行動で表現しなければいけない、とてもわずらわしい世界です。

自分の想いを、言葉や行動で、完璧に伝えることはできません。

肉体は、魂の想いを表現するのに、あまりにも不完全な道具です。

言葉を駆使しても、どんなにうれしいのか、どんなにつらいのか、どんなに悲しいのかを、人には伝え切れません。

しかし、相手が何も言わなくても、喜びや悲しみに共鳴して、笑ったり、泣いたりすることがあります。

それは、言葉を介さず、相手の想いが自らの魂へ、直接伝わったためと考えられます。

言葉よりも、はるかに鮮明で、強烈です。

次の世界は、魂の世界であるため、このような想いのやりとりが常に行われていると考えられます。

言わなくても分かり合える、想いを共有できる世界です。

この世では、権力のある者、地位のある者、あるいは富のある者が、強者とみなされることが多いと思われます。

次の世界では、より愛を表現できる人が、真の強者であり、上に立ちます。

恵まれない人に、手を差し伸べて、やさしくできる人が、真に偉い人であり、上に立ちます。

より愛を表現できる人、やさしい人が上に立つのですから、神の愛が上から下へと、満遍なく行き渡り、世界は平和そのものとなります。

争いなど、起こるはずはありません。

お互いがお互いのために奉仕をして、悦びを感じる世界です。

それを天国と言うのかもしれません。

この世と、次の世界は、どちらが素晴らしい世界なのでしょうか?

答えは、はっきりしていると思います。


肉体は魂を表現する道具(媒体)です。

魂は、肉体を超えた次元で存在しています。

自分を犠牲にしてまで、相手を思いやるのは、肉体を超えた愛が存在するからです。

肉体を超えた愛の想いは、肉体を超えた魂から生まれます。

愛の存在を確信できる人は、魂の存在も確信できるはずです。

生命は、肉体とともに消滅してしまう、はかないものではありません。

炎により肉体は焼かれて骨に変わっても、生命である魂は、何も変わりません。

死んだら、自分の意識はどうなってしまうのか?

意識は頭脳からではなく、魂から生まれます。

頭脳は意識を表現するためにある、司令塔です。

したがって、肉体(頭脳)がなくなっても、意識はそのままあり続けます。

無になってしまう心配は無用です。


この世では表現媒体である肉体が、あまりにも重すぎるために、どうしても意識が肉体に向いてしまいます。

魂は肉体の奥に埋もれてしまい、意識しなくなります。

魂から生じた想いは、頭脳から生まれた思考により、掻き消されてしまうことが多くなります。

魂は神の一部であるため、しきりに愛を表現しようとしますが、肉体や自己の要求が強くなると、それに負けてしまうことが多くなります。

この世を生きているのは、肉体で愛を表現して、魂を向上させるためです。

大切なことを忘れてしまったのでは、この世を生きる目的が果たせなくなってしまいます。

大切なことを忘れかけると、神の摂理である因果律の働き、不幸と言われる、苦難が生じます。

苦難には相応の苦痛が伴いますが、その苦痛が忘れかけていた、最も大切なことである生命(魂)や愛を呼び覚まします。

苦難が、魂を目覚めさせ、本来の姿に戻し、向上させるためにあるとしたら、それは不幸なことであるはずがありません。

苦難の最中では、そう思う余裕はとてもありませんが、次の世界に行けば、苦難の真の意味を知ることになります。

摂理の完璧さに驚嘆するとともに、神の愛に感謝するようです。


すべての人に、肉体の死は訪れますが、死ぬ間際は外からは見るより、本人は苦痛ではないようです。

死を迎えて、穏やかな顔になる人が多いそうですが、それは疲弊した肉体から解放され、自由になった喜びの顔ではないでしょうか。

死は別れであるとともに、再会です。

一足先に向こうに行き、今か今かと待ち構えていた、愛する人との再会があります。

愛で結ばれた者同士に、別れがなかったことが証明されます。

神を信じていなかったとしても、その歓びを、きっと神に感謝すると思います。

そして、この世に残してきた愛する人を、次の世界から見守ります。

言葉でなくても、魂から魂へと、想いがうまく伝えられれば、愛する人を導くことができます。

肉体に包まれて良く分からなかった生命の真の姿を、目の当たりにします。

そして、愛がすべてを動かしている、崇高な神の力であることを知ります。

この世の先に待ちうけているのは、ありのままが表現される世界です。

死は、大きな変化には違いありませんが、怖れるものではないのは確かです。





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