2014年10月19日日曜日

病気の意味 



夏の暑い季節が過ぎると、さわやかな秋になり、そして寒い冬になりますが、地球温暖化が進んだため、1番好きな創造的な季節である秋が、とても短くなったと実感しています。

西アフリカで猛威を振るう、エボラ出血熱は致死率の高い、恐るべき病です。感染者は増加の一途をたどり、今となっては、拡大を止める手段はないようにも思えます。

もし、最貧国である西アフリカの国々に、欧米や日本などの富める国々が、医療施設、そして知識や技術を提供していたなら、水際で感染拡大は防げたかもしれません。

自己の利益や利便性を追求するあまりに、地球環境への配慮や、人類の同胞意識を忘れてしまった結果を見ているような気がしてなりません。

人、国家、地球、スケールは違いますが、神の摂理である「因果律」はすべてに働き、正確無比に結果をもたらしていると感じます。



忌まわしい病気も、因果律の働きにより生じています。

すべての病気に、何らかの原因があるはずです。

残念なことに、医学の進歩にもかかわらず、原因不明の病気は数多く存在します。



膠原病(自己免疫疾患)は、免疫機能に何らかの異常が生じて、正常組織を攻撃してしまう病気です。

ガンは、遺伝子に変異が生じ、細胞が無秩序な増殖を繰り返していく病気です。

どちらも、多くの人を苦しめている難病であり、未だ原因不明は明らかにされておらず、治療は対症療法となります。

従来の科学的手法では見つけ出せない、未知の領域に原因が存在していると考えています。



人は心身の調和が損なわれると、病気になります。

心身の調和を損なわせる、大きな要因としてストレスがあります。

ストレスは、仕事や、日々の出来事、人間関係などから生じる、心の重圧であり、負担であり、軋轢です。

ストレスを感じると、人は発散しようとします。

うまく発散できないと、ストレスが溜まり病気になることもあります。

ストレスが溜まると発散しようとしますが、発散させているのはストレスによって生じた「想い」であると考えられます。

想いが発散されることなく溜まっていくと、病気になると思われます。

その想いとは、怒りであり、悲しみであり、言葉では言い表せないものもあります。

怒りが高じて、憎しみや恨みの想いに変化してしまうと、発散するのは難しくなるのかもしれません。



肉体は魂の表現媒体です。

魂から生まれる想い(思念)が、肉体により具現化されます。

怒りの想いが生まれれば、顔は紅潮し、心臓の鼓動は高ぶり、大声を出したりして、怒りの想いをぶつけることもあります。

悲しみの想いが生まれれば、目から涙が流れ、嗚咽の声を出すこともあるでしょう。

唄うのも、楽器を演奏するのも、絵を描くのも、自らの想いの表現に他ならないと思います。

もし、肉体が魂を表現する媒体であるならば、魂のありさまの変化が、肉体が変化する病気として表現されていると、考えてもおかしくはありません。

肉体上の病気のありさま(病態)から、魂のありさまをうかがい知ることができると思われます。



膠原病は、自分を守る機能が、自分を攻撃している病気と考えられます。

言い換えると、肉体を守る機能が、肉体を攻撃しています。

肉体が魂の表現媒体であると考えると、魂(心)を守るものが、魂(心)を攻撃していることになります。

「魂(心)を攻撃している」とは、何を指すのでしょうか?

それは、自分で自分を責めたり、傷つけてしまったりすることと思われます。

強い後悔の念もそうでしょうし、好ましくない感情を抱いたことに対して強い自責の念を持つこともそうだと思われます。

何かにつけ、自分を責めてしまうのを、やめなければいけません。

高い目標を掲げて、それが達成できないと、過度に自分を責めてしまうような人が、この病にかかりやすいのではないかと思います。

こうしなければいけない、そうすべきだ、そうした方がもっと良いなど、自分により高いもの、完璧さを求めている人ではないかと思います。

慢性関節リウマチの知人は、とても活力に溢れているにもかかわらず、それを活かせていない生活を強いられて、大きな不満を抱いていたように、私には見えました。

他の膠原病の人は、どうなのでしょうか?知りたいところです。

肉体を通して表現できなかった想いが、自分の肉体を攻撃してしまうという、誤った表現がされてしまった結果なのかもしれません。

想いを適切な方法で表現できないと、肉体上に誤った形で表現されてしまうのだと思います。



ガンは、変異した自分(細胞)が、増殖していく病気だと考えられます。

表現されない変異した想いが、際限なく増殖していく様が、肉体上に表現されているのだと思います。

変異した想いとは、摂理(愛)に反する想いであり、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などです。

摂理に反した想いが蓄積して、魂のありさまを変えてしまい、さらに摂理に反した想いを抱いてしまうという悪循環が生まれていると思われます。

摂理に反した想いが際限なく増殖して、自分では歯止めが効かなくなってしまっている状態と考えられます。



つまり、医学的に難病と言われる原因不明の病の多くは、魂から生まれる想いを適切に表現できていなかったり、摂理(愛)に反した想いが魂に滞ってしまっていることが、根本原因と考えられます。

自分の想い(思念)にも、そして表現(行動)にも、因果律が働いていて、摂理に反しているならば、その償いをしなければいけません。



膠原病に対しては、自分を責めずに、想いを適切に表現する、自分にふさわしい表現をすることが、大切だと思われます。

自分を活かせていると、心から思える環境に、身を置く必要があると考えられます。

ガンに対しては、本体は(摂理に反した)想いであるため、感情に敏感に反応して、肉体上のガンに反映されてしまうため、平穏な心を保つことが何より大切だと思われます。

しかし、ガンで多くの人が亡くなっている現実を前にすると、死の恐怖や不安に襲われて、平穏な心を保つのは、決して容易ではありません。

また、日々の出来事で、ちょっとした感情の起伏がすぐ生まれ、心は波立ってしまいます。

ガンを勢いづかせる想いを封じ込めるのは、愛の想いしかありません。



ガンと闘うことは、自らを傷つけることであり、愛の想いに反していると思います。

ガンと闘おうとすると、因果律が働き、ガンも闘おうとするのかもしれません。

自らのからだを傷つけてしまう方法の中には、正解はないような気がします。

病気と闘うのではなく、病気になった意味を知り、考え方や生き方を変えていくのが、正解だと信じています。

ガンのような生命を脅かすような病気が存在するのは、最も大切なのは「生命」そして「愛」であることに気付くためと信じています。



「愛」とは、人を愛することだけではありません。

感謝も、ささやかな愛の表現だと思います。

相手の欠点を認め、言動を許すことも、愛の表現だと思います。

もちろん、人や動物にやさしくしたり、思いやりを持ったり、親切にしたり、社会に奉仕をするのも、愛の表現に他なりません。

素直に、愛の表現ができるように、魂のありさまを変えていくものとして、神は病気を用意したのだと思います。

病気を克服した人たちの中には、生き方や考え方が大きく変わった人が少なくありません。

魂のありさまが、病気を克服していく中で、本来の姿を取り戻したのだと思います。

魂が癒されて、肉体が癒されたのだと思います。



「生命」とは、活動するものであり、変化するものであり、常に何かを表現しているものです。

生命の正体は魂であり、肉体は魂を表現する媒体に過ぎません。

人(魂)は神により創造された、神の一部です。

神の心は愛です。

よって、神の一部である人は、神の心を表現しようとします。

本来、この世の人は、肉体で愛を表現するために、生きていると言うことになります。

人は魂を向上(成長)させるために生きていて、愛を表現することで成就されます。

魂を、さらに向上させるために、より高い、より強い愛を表現しようとすると思われます。



肉体的に病気をとらえると、苦痛や障害を伴い、時に命(肉体)を奪うものであり、恐怖や不安をもたらす、不幸以外の何者でもありません。

霊的に病気をとらえると、苦痛により肉体に埋もれて眠っていた魂を覚醒させ、滞っていた(摂理に反した)想いを、解放させるものです。

愛の大切さに目覚めさせて、想いを変えていくものです。

その人にとって、ふさわしい愛の表現ができるように、導くものです。

魂が本来の姿を取り戻して、愛を素直に表現できるようになり、この世を生きている意味が成就されていきます。



病気が生じるのは、偶然ではありません。

神の意図があり、その人にふさわしい愛の表現を、素直にさせるためにあると思います。

従って、ふさわしい愛の表現を、素直にしていけるようになれば、病気の役割は終わると考えられます。



自分にふさわしい愛の表現とは何かを、考えてみてはどうでしょうか。

それは、生きる目的を考えることでもあり、病気を癒やすことにも、きっとつながると思います。





参考ページ: 「霊的な病気の意味」



2014年10月13日月曜日

愛する人を亡くした人へ




もう、どれ位の涙を流したのでしょうか。

いくら涙を流しても、悲しみから解放されるはずもなく、現実は少しも変わることはありません。

ありふれた笑顔、何気ない会話、いつもの仕草、どれ1つとして忘れられるものではないと思います。

愛する人の存在の大きさに、圧倒されるばかりで、代わるものは、この世のどこにもないのかもしれません。



この世に生きている限り、別れは付き物です。

はっきりしていることは、愛する人が自分より早く死んだということです。

「何で自分より早く死んだんだ」と、思うかもしれませんが、あなたが代わりに早く死んだのであれば、愛する人がこの世で、今のあなたと同じように、悲しんでいたでしょう。

何かの理由があって、あなたがその役を引き受けたのです。



底がないと思われるほどの深い悲しみであれば、それだけ愛する想いも深かったということです。

この世で、それほどまでに、愛するものに出会えたのは、とても幸せなことなのですが、そんなのは慰めにもならないでしょう。

本当に大切なもの、かけがえのないものは、ありふれた存在となってしまうために、悲しいことに失って初めて気付くことが多いと思われます。



愛する人は、すでにこの世にいませんが、次の世界で間違いなく、生きています。

それは、また逢うことが出来るということを、意味します。



肉体を失っても、魂として生き続けています。

これは宗教でも何でも無く、自然現象です。

発想の転換が必要です。

生命の本質、本当の自分は、肉体ではなく魂です。

今の深い悲しみも、魂から生み出されます。

悲しみの想いも、目に見えないように、魂も目に見えるものではありません。

悲しみが確かに存在するように、魂も確かに存在しています。

たとえ、魂が存在したとしても、愛する人の肉体はすでに骨になり、この目で愛する人の姿を見たり、声を耳で聞いたり、手で触れられるわけではありません。

それは、悲しい現実です。

しかし、愛する者同士の魂と魂はつながっているため、双方の想いは伝えられるはずです。

厄介なのは、この世の人には肉体があるために、愛する人の想いが伝わりにくくなってしまっていることです。

この世に残してきた愛する人へ、想いを伝えようと、必死で頑張っているのに、どうしてもうまく伝えることができない、そのもどかしさは、想像を絶するものと思います。

海の中にいる人に、海上の人がいくら大声で叫んでみても、水に阻まれて伝わらないのと、似ているのかもしれません。

ただ、海の中にいる、この世の私達が、海上に出られる時があります。

眠っている時です。

眠っている時に、本当の自分である魂は、からだから離れて、愛する人と同じ世界に行っています。

いわゆる、体外離脱と言われる現象です。

眠っている時に、愛する人と、実際に逢っています。

夢に出てきたという話は、良く耳にしますが、そのほとんどが、愛する人がいる世界で、実際に逢っていると思われます。

お互いの想いを伝え合っているはずです。

そのことを、もっとはっきりと覚えていれば、違う世界で生きていると確証が持てるのにと、考えてしまいます。

愛する人がいる世界は、想いの世界であり、言葉は必要としない世界です。

あなたに伝えたのは、言葉ではなく、あなたへの想いです。

従って、朝起きた時に、言葉を思い出そうとしても無理かもしれません。

この世を生きている人は、頭で考えてしまっていることが多いので、魂に伝わった愛する人の想いを、言葉で思い出そうとするために、無理が生じているのだと思います。

けれども、交わし合った想いは、微かかもしれませんが、残っているはずです。



眠っている間に逢って、想いを確認し合っているはずですが、朝になって目が醒めると、愛する人の姿は目に映らなくなります。

姿が見えないという現実が襲い、すぐに悲しみに包まれてしまいます。

愛する人は、その様子を見ていて、「今まで逢っていたのに、なぜすぐ忘れてしまうの」と、あきれているかもしれません。



愛する人と夢で逢ったのは、紛れも無い事実であり、逢いたいと思う願望が作り出す、幻影ではありません。

愛する人は生きていて、次の世界に移り、元気にしているのです。

そのことを、あなたにどうしても、どうしても伝えたいのです。

なぜなら、悲しんで、涙を流している姿を見るのが、あなたを愛しているので、とてもつらいのです。

生きているという真実を、しっかりと伝えたいのです。



もし仮に、あなたがちゃんと生きているのにもかかわらず、いなくなってしまったと勘違いをして、愛する人達がとても悲しんでいるとしたら、どう思うでしょう。

きっと 「元気でいるから、心配しないで」と、伝えたくなるのではないでしょうか。

向こうに行った愛する人も、それと全く同じ想いです。

元気に暮らしています。

そして、見守っています。

迷った時、悩んだ時、困った時には、向こうから想いを伝えて、導いてくれるはずです。

心を穏やかにして、つながっているという確信を持っていれば、愛する人の想いは、魂に伝わってくると思います。



愛する人が生きていることは、時が来ればはっきりするのですが、なるべく早いうちに、その事実を知っておいた方が、お互いに安心し、悲しみも少なくて済みます。

この世からいなくなってしまったこと、次の世界で生きていることは、ともに現実です。

愛する人のために、どうぞ現実を受け入れて下さい。



もう1つ、はっきりしていることは、あなたもいつか死ぬということです。

その時には、今か今かと待っていた愛する人が、両手を広げて、満面の笑顔で迎えてくれるでしょう。

今の悲しみからは、信じられないほどの喜びに満たされるでしょう。

その歓喜の時が来るまで、衝動を抑えて、生き抜いて下さい。



神は愛です。

神が愛ならば、なぜ、最愛の人と、死によって離れ離れにさせて、ここまで悲しみを与えるのかと思ってしまいます。

もし、愛する人が今も生きているとしたら、ここまで愛していたこと、愛されていたことに、気付いたでしょうか?

愛すること、愛されること以上に、大切なことは、この世にあるのでしょうか?

深い悲しみには、魂を目覚めさせ、愛より大切なものはないことに気付かせるという、深甚な意味があります。

それが、神の摂理であり、神の心だと考えられます。



最も大切なのは愛だと気付き、この先の人生で表現していけたなら、愛する人の死はとても大きな意味を持ちます。

それは、愛する人が最も喜ぶことでもあると思います。





参考ページ: 「亡くなった愛する人とつながる」




2014年10月11日土曜日

日々の仕事を精一杯する

人は、なぜ生きているのか?

何となく生きているのではなく、明確な目的があります。

それは、「魂を成長させるため」です。

魂を成長させるために、どうすればいいのか?



この世の欲に流されずに生きる。

人や社会のために奉仕する。

訪れる大小の困難や障害を乗り越える。


シルバーバーチの霊訓にも繰り返し書かれていますが、この3つを、忘れずに生きていけば、魂は成長していき、生きがいのある人生が送れます。


口で言うのは簡単ですが、その1つ1つに、痛みや、苦しみ、葛藤などが伴い、不断の努力を強いられます。

人それぞれ、この世で果たすべきこと、学ぶことは違います。

この世で果たすべきことを果たすため、そして大切なことを学ぶために、その人にとって、最適な時に、最適な形で、人生の出来事が、因果律によりもたらされると、信じています。

その出来事は、時に、困難、挫折、障害、病気と言った、不幸と言われるような形を取り、魂にまで響いて呼び醒まします。

しかし、その苦難の経験があって、真の喜び、真の自由、真の愛、そして生きる目的を知ることができたとしたら、決して不幸な出来事ではないはずです。


世の中には、自らの障害を克服しながら、懸命に生きている人がいます。

休みの日に行っている、障害者施設に、私より少し年上の男性の職員さんがいます。

その方は、極度の弱視で、目の数センチ前まで近づけなければ、文字を読むことはできません。

書類に目を通すのも、顔に触れるほど近づけて1文字1文字を追いかけるようにして、見ています。

目が不自由なため、声や音などの聴覚と、長年の経験を頼りに、状況を把握して、とても器用に仕事をされています。

その方が障害者であるのは、誰の目にもはっきりしています。

何をするにも、障害が立ちはだかりますが、健常者の職員さんに比べて、仕事の質や量に遜色があるかと言えば、違います。

むしろ、他の職員さんよりも、活き活きと、てきぱきと介護の仕事をされているように見えます。

何よりも、うれしくなるのは、施設にいる障害者の人たちに、とてもやさしく接しているからです。

障害者の大変さを、誰よりも理解されているように感じます。

時々、叱るときもありますが、言葉の端々に、愛情がこもっています。

オカリナを独学でマスターし、皆さんの前で吹いて、楽しませています。

十八番(おはこ)は、テレビの水戸黄門のテーマ曲で、その音色に、何とも言えないあたたかさや、やさしさを感じます。

やさしい言葉、あたたかな表情、そしてオカリナの音色にも、魂の様子が表れていると思います。

その職員さんは、自分の障害を乗り越えながら、障害者の介護という大変な仕事を、数十年に渡って、愛情を込めてしてきているため、魂が格段に成長されていると思います。

笑顔を絶やさず、障害のある人を介護されている姿を見ていると、「与えられた仕事を一生懸命することが、魂の大きな成長につながる」と、思えてなりません。


私もそうですが、大部分の人は、仕事をしなければ、食べていけません。

報酬(お金)を得るために、仕事をしています。

生きていくために、働くのは大原則です。

この世では、魂の道具である肉体を、養っていくためには、お金を手に入れなければならず、人や社会のために働く仕事をしなければ手に入りません。

仕事は多種多様ですが、どれも人や社会のための労働であり、奉仕です。

よって、この世では、肉体があるがゆえに、何らかの奉仕をしないと、生きていけません。

進化(霊性)の最も低い段階にあると言われる地上では、神の摂理として仕事が生まれて、生涯に渡って奉仕をせざるを得ないのかもしれません。

しかし、人は働くことに、生きがいや喜びを感じるのも事実です。

仕事を通して、誰かのために役に立つのは、神の摂理に一致し、魂の成長につながっているために、喜びや生きがいをを感じるのだと思います。

死んだ後に行く霊界は、肉体がすでにないため、食べるために仕事をする必要はなく、お互いがお互いのために働く、純粋な奉仕の世界です。

この世の仕事は、霊界に順応するための予行練習であり、奉仕の精神に目覚めるためにあるのかもしれません。

食べていくため、生活していくために働いているのは間違いありませんが、実像は、人や社会のために、何らかの形で奉仕し、自分(魂)を成長させているのであり、同時に、全体のために寄与して、進化につながっているのだと思います。


生活をするためだけに、日々の仕事があると考えると、とても虚しくなります。

肉体が死んだ後の世界でも、次の世界で、人(魂)と人(魂)の係わり合いは続きます。

人のために自分を役に立てる機会が与えられ、それにより魂が成長していくさまが、はっきりと分かるのが霊界だと思います。

奉仕は、愛の表現に他ならず、神の摂理に一致しているために、魂は大きな喜びを感じます。

この世は、肉体を持つがゆえに、奉仕だけの生活はままなりません。

生きていくため仕事をして、金銭的報酬を受け取りますが、同時に、人や社会への奉仕活動として、目に見えない霊的報酬も受け取っていると思われます。

毎日、会社のため、家族のため、自分の欲求を抑え、汗をかきながら一生懸命働いている人は、正道を歩んでいると思います。

家庭での、家事あるいは介護は、金銭的な報酬がないばかりか、休みの日もありません。

人知れず、繰り返される、その行為の1つ1つは奉仕活動であり、霊的報酬を受け取り、魂を着実に成長させていると思います。


自分に与えられた仕事を、精一杯やり遂げるのは、この世で魂を成長させるための、大切な手段になっていると思います。

仕事をやり遂げた時には、満足感があり、途中で投げ出すと、とても嫌な気持ちになるのは、魂の成長にかかわっているからではないでしょうか。

肉体を超えた存在である魂が、働く喜びを感じているのだと思います。


霊的真理を伝えるのは、最も大切なことであり、すべてに優先されなければいけないと思っています。

知識には責任が伴い、義務が生まれます。

恐いほどの、重責を感じます。

必要としている人、受け入れる時期が来た人に、霊的真理を確実に手渡したいと、常に願っています。

しかし、日々の修養を怠ると、霊的真理の崇高さや、使命の重大さを忘れてしまいがちになります。

1番の大敵は、謙虚さを失い、傲慢になってしまうことです。

常に、気を付けなければいけません。


私にとって仕事は、代えがたい日々の修養になっていると思います。

仕事を円滑にするためには、感情を抑えて、寛容にならなければ務まらないからです。

謙虚さを失えば、仕事の上達が止まるからです。

困難や障害は付きものであり、それ乗り越えなければ、完成されないからです。


日々の仕事を、精一杯して、喜ばれるのが、人生の貴重な喜びとなっています。

そして、少しずつですが、魂の成長につながっていると考えています。



















2014年10月5日日曜日

苦しみの原因はどこにあるのか



いろいろなメディアで、「前世」という言葉を目にします。

前世を透視するという人も、多く目にします。

その可能性を全面的に否定するわけではありませんが、得られた情報の信憑性を疑わざるを得ません。

知りたがる人の中には、前(過去)世が歴史上有名な人物であることを、ひそかに望んでいるのかもしれません。

もし、私が前(過去)世がシーザーや、織田信長と言われたとしても、少しもうれしくはありません。

富と権力には恵まれましたが、多くの人を殺し、傷つけてしまった罪は限りなく大きく、繰り返し来世でその償いをしなければならないと考えられるからです。

インドのガンジーだと言われたら、うれしくなりますが、使命を持ってインドの地に生まれた人であり、すでに地上で学ぶことはないため、この世に生まれてこないと思います。

前世を知ることが許されるのは、魂を向上させる上で、有益と判断された場合に限られていて、興味本位で知ろうとするのは良くないと思われます。


ところで、ガンジーが生まれたインドでは、多くの人はヒンドゥー教を信じていて、厳格な身分制度であるカーストが存在します。

最上層はバラモン(ブラフミン)であり、司祭階級に就きます。最下層はシュードラと呼ばれ、バラモンの影さえ触れることはできないと言われています。

前世と業(カルマ)により階級が決まり、その環境(家庭)に生まれるとされています。

そして、カーストにも入れてもらえない、最々下層にアチュートと呼ばれる人たちがいて、常識では考えられない差別を受けています。

少し前に、いわれない理由で集団暴行を受けて女子学生が死んでしまったという、悲惨なニュースがありましたが、被害者はこのアチュートだと思われます。

暴行をした人たちは、自分たちよりも低い身分にある女子学生には、前世に業があり、暴行受けるのもやむをえないと、思い込んでいたと思われます。

アチュートの中にも、虐げられ、仕打ちを受けるのは、自らの業のせいであり、現世はつらくても、来世では良い人生が待っていると信じている人も多いと思われます。

いかに理由を付けようとも、自分の欲望を満足させるために、人に恐怖や苦痛を与えて、殺してしまったという行為は、神の摂理に反していて、大きな罪(業)であるのは間違いありません。

苦しみの中には、前世での過ちが原因となっている可能性はありますが、この事件のように、新たな罪を作ってしまうような形で、因果律が働く(事件が起きた)とは思えません。

もし仮に、霊的に高い人が上の階級に生まれ、低い人が低い階級に生まれるのであれば、インドが世界で最も貧富の差がある国であるはずはなく、この様な卑劣な犯罪が多発する社会であるはずもありません。

弱者をいたわり、富が分配され、差別が起こりにくい社会が構築されるはずだからです。

現実との間に、大きな矛盾があるように見えます。

前世は、都合の良い「物語」となり、弊害をもたらしているのかもしれません。


今の苦しみがとても大きければ、「何でこんな思いをしなければいけないのか」と思ってしまいます。

「私は今まで生きてきて、そんな悪いことはしていない」と思えば、前世の業が原因ではないかと考えてしまったり、不公平さを感じてしまい、神を恨んだりするかもしれません。


私も、過ちを犯したため、かつてない苦難が訪れ、その償いとして苦しみを味わいました。

始まりでは、「何で自分が、悪いことは何もしていないのに」と、思いました。

苦しみが増してくる中では、早く抜け出したい、楽になりたいと思うばかりでした。

そして頂点に達すると、霊的真理を受け入れて、すべての原因は私にあり、その結果として今の現状があり、この苦しみは自分が犯した過ちの償いと思うようになりました。

神の摂理である「因果律」を、身を持って知りました。

この経験が、苦しむ人に、少しでも役に立てばと思います。



その当時、私はその過ちを、それほど悪いことではないと、思い込んでいました。

1つ1つの過ちは、たとえ小さくても、それが積み重なっていくと、大きな過ちとなっていきます。



最初は良心が咎めましたが、習慣になると罪の意識が薄れていきました。

過ちを犯す前に、魂に内在する良心は、正しい方向を指し示します。

それを無視して摂理に反した行いを積み重ねていくと、良心の声は、次第に心に届かなくなっていきます。

自分(魂)が、変わってしまったためだと思われます。



他の人も同じようにやっていると、言い訳をしていました。

他の人が同じようにやっているか、いないかに関係なく、行いが過ちであれば、その罪を自分が償わなければいけません。

同じようにやっていると思うこと自体が、傲慢で身勝手な考えであり、過ちだと思います。



今、考えてみると、見守ってくれている守護霊からも、「こんなことをしていいのか」という、勧告があったと思います。

人生の局面で、ふと頭をよぎったり、咎めたりする、「内からの声」を無視してはいけないと思います。



人が経験する苦しみは、さまざまです。

苦しむということは、何か学ぶことがあるということです。

もし、学ぶことがないほど魂が向上していれば、苦しむこともないはずです。

自分の過ちに気付き、大切なことを学ぶために、因果律の働きにより、苦難が生じると思います。

苦難には、痛みや苦しみはつきものであり、そのつらい経験により、それまで眠っていた魂は呼び醒まされ、過ちに気付き、大切なことを学んでいきます。


苦難の原因はどこにも見当たらず、「何も悪いことをしていないのに」と思うと、苦しみはさらに大きくなります。

自分では悪いと思っていないことでも、神の摂理に反していることがあります。

犯罪と呼ばれるような大きな過ちではなくても、もしかしたら、私と同じように、「小さな過ち」が積み重なっているかもしれません。

当たり前になっている、考え方、生き方のどこかに、過ちがあるのかもしれません。

身勝手な理由を付けて「小さな過ち」が始まり、今も続けてしまっているのかもしれません。


小さな過ちとは、どんなことでしょう?

例えば、悪口を言ったり、嘘をついたり、意地悪をするのはどうなのでしょうか?

法律で罰せられることはありません。

人に迷惑をかけたり、傷つけるほどのものでもありません。

日々の生活の中にあり、大したことではないと思ってしまいます。

しかし、その行動を起こさせるのは、怒りや恨みや憎しみ、虚栄心や妬みや貪欲な想いであったりします。

そして、その想いの1つ1つに、神の摂理が働きます。

ささいな行為であり、誰にも気付かれず、迷惑をかけていなくても、魂は神の一部であり、つながっているため、その動機(想い)は知られています。

その行為が、怒りや恨みや憎しみ、虚栄心や妬みや貪欲な想いからのものであれば、摂理に反しているので、結果として、相応の苦しみがもたらされます。


悪口が言いたくなった時に、悪口を言っている人たちの輪に入れば、つい言ってしまいます。

良心に従い、決して言わない人もいるでしょう。

全員が言っていれば、罪の意識を持たずに済みます。

想い(魂)は表情に表現されます。

悪口を言っている時の表情は、怒り、軽蔑、妬み、優越などの想いが表現されているので、決して美しいものではありません。

1つ1つは過ちは小さくても、習慣となり、長い年月、続けていれば、徐々に大きな罪となっていきます。

1つ1つの想いは小さくても、習慣となり、長い年月、抱き続けていれば、徐々に魂のありさまを変えていきます。

悪口を言ったり、嘘をついたり、意地悪をするのが習慣になっている人は、魂のありさまが変わってしまい、普段でもその想い(魂)が言動や表情に出ていると、感じます。

想いは目に見えず、人にも知れません。

どんな想いを抱いても自由ですが、霊的には実在であり、肉体に具現化していくので、常に注意を払わなければいけません。


苦難(苦しみ)の原因は、人により違います。

人に指摘されることもなく、当たり前となっている習慣(行い)や考え方(想い)の中に、過ちがあるのかもしれません。

ちりも積もれば、山となります。

良心の呵責も感じなくなるほど、習慣になってしまえば、それに気付いて改めていくのは、きわめて難しくなります。

行き着くところまで行くと、因果律の働きにより、苦難が生じることになります。

苦しみは、神の摂理に反した想いや行いの償いであるとともに、過ちに気付かせる触媒となります。

そして、摂理に反した習慣や考え方を、改めていくことになります。


苦しみの中で、過ちに気付き、さらに真実を見いだせたのなら、その苦しみは、魂にとって、大きな意味があったことになります。

過ちを正すため、真実を見出すために、神の摂理として、苦しみがあるのであれば、過ちを正し、真実を見出したのであれば、苦しみからも解放されるはずです。

苦しみが、神の摂理として、罪の償いであるならば、もがき苦しむほどの苦しみであっても、償えば、解放されるはずです。

いわれのない苦しみはありません。

終わりのない苦しみもありません。

今は暗闇の中にいて、さまよっているように思えても、魂は正しい方向に導かれ、解放される時がくるのは、間違いありません。


後ろを向けば、後悔の想いにとらわれてしまい、苦しみます。

後ろを向くと苦しむのは、閉じられていてるので向くなということなのかもしれません。

前を向いている時は、後ろを向かずにすみます。

つらくても、少しずつ、少しずつ、前を向くようにしましょう。