2015年1月12日月曜日

亡くなった愛する人とつながる


亡くなった人の姿を、この世の人は2度と見ることは出来ません。

声を聞くことも、出来ません。

からだに触れることも、出来ません。

目の前から、跡形もなく消えてなくなりました。




亡くなった人は、記憶の中に生きていると、よく言われます。

思い出の中で、生き続けているとも言われます。

それは、慰めに過ぎないのかもしれません。




記憶や思い出の中に、生きているのではありません。

自己表現のために、肉体を必要としなくなった世界で、生きています。

証拠もないのに、良くそんなことを断言できるなと、お叱りを受けてしまうかもしれません。

ガリレオ・ガリレイではありませんが、「それでも、肉体のない魂として生きている」としか、言いようがありません。




死んで無になってしまうのか?

それとも、生き続けるのか?

科学的な検証実験によって白黒の決着を付けるとすれば、魂の存在を証明する術がないために、死んで無になってしまうと結論付けられそうです。

生命の本質を、科学的に突き止めた人は、未だにいません。

それにもかかわらず、生命の存在を否定する人はいません。

科学的に立証されていない生命は否定せずに、魂の存在を否定するのは、いつもどうしてだろうと思ってしまいます。

あらゆる生命体は、変化したり、活動しているのを、目で確認できるため、存在を実感できます。

しかし、実感があるのは、あくまで生命体であり、生命ではありません。

生命は、生命体から体(肉体)を差し引いた、未知なるものです。

その未知なるものこそ、魂です。

生命は肉体に宿った魂であり、肉体は死んで消滅したとしても、魂は変わることなく生きています。

偏見を持たずに、素直に、できるだけ多くの人に、肉体は消滅しても魂として生き続けているという、厳粛な事実を受け入れて欲しいと願っています。

そして、この世をいかに生きてきたかによって、あの世の自分が変わってくる「因果律」という自然法則が、常に働いていることをも、併せて知ってもらいたいと願っています。

知識はないよりも、あった方が良く、遅いよりも、早く知っておいて損はありません。





死とは、肉体と魂の分離であり、故人は次の世界で生き続けているのは、少なくても私にとって、動かしがたい事実です。

私にとって事実であるのに、多くの人にとっては客観的にはっきりと示されないために、事実とならないのは、どうしてなのか考えてしまいます。

愛する人を亡くして、打ちのめされた経験のない私が事実を受け入れて、最愛の人を亡くされて、悲嘆にくれる毎日を送っている、事実を最も必要としている人が受け入れられないのには、きっと理由があると思います。

魂として生き続けているという事実を、一目瞭然の現象として示されないのは、なぜなのか考えてみました。




もし、死んだ人の魂(霊体)が、薄明かりのように肉眼で見えたとしたら、確かに生きて存在していることを、誰もが納得します。

愛する人が亡くなっても、そばにいてくれるのが分かるので、大きな安心をもたらすでしょう。

しかし、肉体はもうありませんので、会話は出来ません。

笑い声も、聞くことは出来ません。

肌のぬくもりも、感じることは出来ません。

近くにいるのは分っているのに、意思の疎通は全く出来ずに、肌と肌で触れ合うこともできないとしたら、どう思うのでしょうか。

私でしたら、愛する人が何を考え、何が言いたいのか、どうしても知りたくなります。

現状に苛立ちを感じ、一刻も早く自分も同じ所に行って、生前と同じように意志の疎通を図りたいという、衝動に駆られてしまうかもしれません。



愛する人を亡くしていない人でも、考えが変わってしまうかもしれません。

「こんな大変で、つらい思いをするのならば、次の世界に行って、新しく生き直した方がいい」と、思ってしまう人がいるかもしれません。

「(肉体は)死んでも、生きているなら、面倒なことは死んだ後にすればいい」と、考える人がいるかもしれません。

「この世よりも、あの世の方が、すばらしい人生かもしれない」と、希望を持つ人がいるかもしれません。

この世の全ての人に、確定的な事実となってしまえば、自然法則の働きを知らずに、この世から逃避をしてしまう人がいるのではないかと考えられます。




生きている意味は、自分(魂)を成長させるためです。

自分を成長させるために、人生で降りかかる出来事を乗り越えていかなければいけません。

苦難や障害は不幸にさせるものではなく、自分に与えられた試練です。

人生最大の試練で、とても耐えられそうにない出来事ほど、必死に、懸命に生きることを迫られ、そんな時ほど自分(魂)は成長しています。

険しい山道が続く人生よりも、できれば平坦な道が続く人生を、多くの人は望みます。

険しい山道が続くほど、到達する頂は高いように、苦難や障害が大きいほど、自分(魂)をより高みに導いているのですが、最中にあっては、ただ苦しく、つらく、悲しく、そこから一刻も早く抜け出したいと思うばかりです。

そんな時に、次の世界があることが、はっきりと分っていたら、この世の苦しみから逃れようとする人は、きっと多くなると思います。

どんなに苦しく、つらく、悲しくても、途中で放棄して、自らの意志により次の世界に逃避するのは、大きな過ちであることを知らないままに。




自然法則は、厳格に働きます。

相等の償いをしなければいけなくなります。

愛する人に逢いたくても、絶対に逢えません。

次の世界で待っているのは、解放された歓びではなく、限りなく深い後悔の想いです。

後悔の想いから解放されるために、今よりもさらに過酷な苦難や障害が待ち受ける人生を選んで、この世に再び生まれて、やり直すことになると思われます。




以上より、全ての人にとって明白な事実とならないのは、この世を真剣に生きるため、逃避する過ちを犯さないためと、私は考えます。




それでも、亡くなった人の魂は存在しているという確証を持ちたい人はいます。

いくら文字の上で、魂として生きていると書かれていても、信じられない人がほとんどです。

しかるべき霊能者から、亡くなった人のメッセージを受け取り、それが自分にしか知り得ないことであれば、生きているという確かな証となるでしょう。

そんな信頼に値する霊能者に巡り合える人は、少ないのかもしれません。

大きなアンテナが付いている受信機は、微弱な電波をキャッチすることができるのと同じで、霊能者は、霊界からのメッセージを受け取る感度が、特に優れている人です。

しかし、それは特別な能力ではなく、すべて人の魂に、想い(思念)の受信機能が備わっていて、亡くなった人の想いは受け取れるはずです。

少しずつ感度を良くして、条件を整えていけば、想いを受け取ることが出来る日がきっと来ると、私は思っています。

しかし、魂の存在など信じられず、そんなことはありえないと思っているのであれば、受信機の電源は切られています。

とりあえず、先入観や疑いの念は脇に置き、亡くなった人は生きていると、心から信じるようにしましょう。




多くの優れた芸術は、次の世界からのインスピレーションにより生まれています。

その瞬間を、小説家は言葉が降りてくる、美術家は映像的イメージが浮かんできた、音楽家はメロディーが降ってきたと表現しています。

モーツァルトもダビンチも、インスピレーションを正確に受けとる感度と、それを忠実に表現できる才能に恵まれていた人です。

インスピレーションの送り主は、同じ想いを持つ霊界の人たちです。

偉大な芸術ほど、霊界の実相を忠実に表現しているため、生命と愛の本質を的確に捉えています。

生命と愛の本質を捉えているので、観る人、聴く人の魂に深く響きます。



芸術家に限らず、頭をよぎった、突然ひらめいた、ふと思いついたインスピレーションは、大脳による思考の産物ではなく、魂が受け取った次の世界からの思念(想い)であることが、多いのではないかと思われます。

インスピレーションをただ受け取れるかといえばそうではなく、ラジオと同じように、次の世界にいる魂と同調が成立していなければいけません。

同調とは、想いを合わせる、想いを共有すると言うのが、近い表現だと思います。

気心が知れた人と一緒に何かを夢中にしていると、一体感や、相手が何を感じたり、思ったりしているのかが分かる瞬間があると思います。

一卵性双生児の中には、お互いの考えていることや、想いが分かる人たちがいるようです。

一緒に暮らしている動物の想いを飼い主が、逆に、飼い主の想いを動物は分かっていると感じます。

五感を超えて分かり合えるのは、魂と魂が同調していて、想いが伝わってきているからと考えられます。

想い(思念)は目に見えませんが、魂から生まれて、内から外に向かって放散されています。

魂から生じた想いは、同調している魂に届き、共鳴して、同じ想いを生じさせます。

もらい涙は、涙する人と同調し、悲しみの想いを受け取った結果だと思われます。

となりの人が大笑いをしていると、おかしくもないのにつられて笑ってしまう時がありますが、想いが伝わってきたからだと思います。

一言も言葉をかわさなくても、分かり合えるのは、想いにより同調しているからだと思います。



たとえ、肉体はなくなってしまっても、魂と魂は同次元にあり、同調することができれば、想いは伝わってくるはずです。

もし、残された人が次の世界に行った人を愛していて、次の世界に行った人が残してきた人を愛しているのであれば、「愛」という想いで、同調できるはずです。

しかし、悲しいことに、この世は雑音に満ちています。

物理的な音の雑音だけではなく、心を惑わす情報に溢れ、必要のない想い(思念)まで受け取ってしまい、それに振り回されています。

最も妨げているは、実は(愛以外の)自分の想いかもしれません。

悲しみや後悔の想いは雑音となり、想いを受け取りにくくさせます。

愛する想いにより同調が成立しても、悲しみの想いに変わってしまえば、瞬時に崩れてしまいます。




一番落ち着く、静かな場所に行きましょう。

そして、心静かにして、日常の雑念が沈殿するのを待ちましょう。

何にもとらわれない、何も考えていない、心を上澄みの状態にしましょう。

しばらくその状態が維持できたら、そっと愛する亡くなった人を心に思い浮かべて下さい。

楽しそうな姿、大好きな姿を思い浮かべて下さい。

そこで、悲しみにとらわれてはいけません。




大好きな姿に、あなたの今の想いを投げかけてみて下さい。

言葉にすると、想いがさらにはっきりします。

「逢いたい」と思うのは当然ですが、叶わぬ願いであり、お互いが悲しみの想いに包まれてしまい、同調できなくしてしまうのでやめておきましょう。

「あの時は楽しかったね」

「出会えて、本当に良かったね」

など、お互いが笑顔になる想いを、愛する人に伝えましょう。

今まで1番楽しかった時、うれしかった時のことを思い出し、その時に伝えたかったことを言葉にしても結構です。

難しいのですが、思い出して、悲しくなってはいけません。

今、置かれている自分を切り離し、その時の自分になりきって下さい。

亡くなった人も、その時のことをはっきりと覚えていて、あなたの言葉をとてもうれしく、心地よく感じているはずです。

そして、受け取ったあなたの想いに応えて、想いを返してくれるはずです。




かすかかもしれませんが、浮かんできた言葉や、ひらめいたイメージはなかったでしょうか?

もし、あったのであれば、気のせいではなく、愛する人からのメッセージかもしれません。




想いが言葉では言い表せず、イメージにもできないのであれば、あなたの魂に直接、想いを投げかけて来るかもしれません。

心臓でも、頭でもなく、自分の中心が響いているような、振動するような、今までになかった感覚を感じないでしょうか?

内からこみ上げて来る、あたたかさ、やさしさ、言葉に出来ない懐かしい想いを、感じないでしょうか?




感情はないはずなのに、涙が出てきてしまい、抑えることができなくなるかもしれません。

それは、愛する人の想いが、あなたの魂に伝わって、同じ想いで共鳴しているからだと思われます。

その涙は、悲しみの涙ではないはずです。

歓びの涙です。

その歓びを生み出しているのは、あなたへの想いです。

前と同じように、歓びを共有し合えた、証の涙です。

愛し合えた、歓びの涙です。

愛する人の想いが、あなたの肉体によって表現されています。

悲しい顔ではないはずです。

涙を流していても、笑っているはずです。

うれしくて、うれしくて仕方がないはずです。

いつまでも、この喜悦の感覚、呼応する一体感に浸っていたくなるかもしれません。

信じる心と、愛する心があれば、自然法則の働きにより、きっとつながることが許されると思います。




愛する人は見えなくなりましたが、魂は存在し、お互いの想いを伝え合うことが出来ます。

お互いの魂が、愛する想いで、つながっています。

一人ではありません。

そばにいて、見守っていてくれています。




もし、幸運にも、愛する人と想いで共鳴することが出来たのなら、今までのように悲しむのはやめましょう。

いつでも一緒にいるのが分かったのですから。

生きている時よりも、近くにいることが分かったのですから。

深いところでつながっていることが分かったのですから。

いつでも想いを伝え合うことができるのですから。

そばにいてくれている幸せを、噛みしめて生きていけます。

悲しみの想いを振り払い、さらに魂と魂のつがりを深めていきましょう。

新たなページをめくる時が、来たのだと思います。




あなたの悲しみは、愛する人の悲しみです。

愛する人の悲しみは、あなたの悲しみです。


あなたの歓びは、愛する人の歓びです。

愛する人の歓びは、あなたの歓びです。




この世にいた時と、何も変わってはいません。

目には見えないけれども、今も、想いを共有して生きています。

目に見えることよりも、想いを共有し合える方が、心は安らぐはずです。

なぜなら、愛する人の実在は、目に見える肉体ではなく魂であり、そこから生まれる想いだからです。




この世にいた時と同じ様に、歓びを共有して、生きていきましょう。

それは、愛する人のあなたへの、伝えにくかった願いかもしれません。






こちらの想いは、愛する人に、自然に伝わります。

しかし、愛する人の想いを受け取るためには、双方の努力が必要と思われます。

そして、受け取る側の感度には、大きな個人差があると思われます。

すぐに受け取れなくても、焦らずに、愛する人に、想いを投げかけ続けていて下さい。

つらい日々は、決して無駄なものではなく、少しずつ霊的感性は研ぎ澄まされていき、愛する人の想いが、魂に伝わってくるのを実感できる日が、きっと来ると信じています。






参考ページ: 「先に逝った理由」

         「向こうにいる人の想い」
  
                       「向こうにいる人を愛する」











3 件のコメント:

めい さんのコメント...

私も心からそう思います。
1年半ほど前に40年連れ添った妻をクモ膜下であっという間になくしました
人は良く悲しみを乗り越えていこうと言いますがそういう気持ちはありません
今は肉体と精神を持った自分と精神だけの妻と一緒に生きていると言う気持ちでいます
夢の世界で妻のサインを受け取ったり、動物や植物を介してサインを受け取ったりしています
人は偶然や思い過ごしだと言うかもわかりませんが自分にとっては確信なのです
家族5人過ごしてきた家に一人で生活していますが、家に入った「ただいまから」仕事に出ていく
「行ってきます」までの間一人の時は何をするにも語り掛けながら生活しています
多分他人が見たらおかしいのではと思うでしょうね
勿論家を出たり他人の前ではそんなことはしませんが
起こったことは他人から見れば最も不幸な事象だったと思いますが、今はある面では幸です
死別と言うこれ以上ない中でそれでも尚、妻とつながっていると感じれることに感謝しています
法事や儀式はやらずに家に祭壇を設けていますが妻にいつも感謝の言葉をかけて生きています

イクミ さんのコメント...

はじめまして、イクミです。
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

コメントを読んで、お互いを想う気持ちの強さが、私にも伝わってきました。
40年間に渡り、奥様と築き上げたものが強固であり、死によってもびくともしていないことに驚いています。
本当に素晴らしいご夫婦であり、ご家族だと思います。

目に見えず、耳に聞こえず、触れられない現実があれば、全て失われてしまったと錯覚しても、おかしくありません。
奥様は、急に向こうに行くことになり、残してきためい様のことを案じたと思いますが、めい様の想いの強さに、逆に勇気付けられている気がします。
そして、めい様が生前と同じように接してくれるので、奥様はとても安心し、満足されていると思います。
その想いに応えるために、様々な手段により、向こうから想いを伝えようとしていますが、それを逃さずに受け止めているめい様の霊的感性に、感心されているのではないでしょうか。
向こうから想いを伝えるのは、想像するよりも大変であり、努力が必要と思われますが、いないと悲しんでいる姿ではなく、一緒にいると確信されている姿を見て、その努力は報われ、奥様がどれほどうれしく思い、めい様に感謝されているのか想像も付きません。

この世では、さまざまな出来事が身に起こります。
それは苦痛や悲しみを通して真実を手に入れて、自らが成長していくためにあると思います。
世の中には、最愛の人を亡くされて、悲しみに暮れる毎日を送っている人がたくさんいますが、生命とは魂であり不滅であるという真実を知らない人、確信を持てない人がほとんどです。
めい様は、最愛の人を亡くされて、悲しみで心が取り乱される日々を送られていないのは、肉体は見えなくても一緒に生きているという真実を、すでに手に入れられているからだと思います。
死という大きな障壁を、奥様とお二人で、乗り越えられているからだと思います。


一緒に暮らしているめい様にとって、やがて訪れる死は、再会の時というよりも、奥様の姿が見えるようになる、1つの通過点に過ぎないのかもしれません。
そこから始まるお二人の生活が、真の生活であり、愛を深く学ぶため、お互いの結びつきを強くするために、一時の別れがこの世で用意されたと、私は思います。

愛は死を乗り越えること、死は愛し合う者を裂くことはできないことを体現されている方と出会えて、ブログを書いていて本当に良かったと思います。
いただいたコメントを励みにして、また書いて行きたいと思います。

めい さんのコメント...

イクミさんへ

メッセージありがとうございました
これから生きていくうえでこれほど力強いメッセージはありません
心から感謝いたします

私は妻が倒れた時と数十年前に亡くなられた方から夢の中で感謝のメッセージを
受けたこともあり漠然とイクミさんの言われる世界観を持ってはいましたが
それでも尚、時に心の中に迷いや不安はありました

しかしイクミさんの今回のメッセージとブログで強く生きていける本当の確信が持てました
改めてお礼を申し上げます
このようなブログを長く続けることはとても大変なことだと思いますが
これからもイクミさんのブログで救われる方が出てくると思います
どうぞお身体に気を付けて頑張ってください