2015年10月24日土曜日

魂に目覚める意味

 
 
ホッキョクグマが氷の上で遊んでいるのではありません。

地球温暖化が進んで、北極海の氷が溶け出してしまい、餌を求めて氷上を移動しているクマが、行く手を阻まれています。

このまま地球温暖化が進んでいくと、近い将来、ホッキョクグマは絶滅してしまうかもしれません。

もちろん、ホッキョクグマに何の落ち度もなく、すべての責任は温室効果ガス(二酸化炭素)を出し続けた人間にあります。



人間の暮らしは、自動車やコンピュータを初めとした発明により、とても快適で便利になりました。

しかし、その恩恵は人間に限られていて、年々深刻さを増す環境破壊により、地球上の動物や植物は大きな損害を被っています。



動物たちには、環境を修復する知性や自由を与えられていません。

この先の運命は、全て人間に委ねられています。

このまま突き進んで、多くの生命を絶滅の危機に追いやるのか、生命を尊重して軌道修正を図るのか、重大な岐路に立たされていると思います。



人間同士の間でも、争いが絶えません。

人種や宗教、文化などの相違から争いは絶えることなく、多くの人が傷ついています。

一握りの権力のある者、富のある者が強者となり、多数の弱者が虐げられています。

十分な食べ物が行き渡らず、適切な医療が受けられないために、多くの子供たちが亡くなっています。







思うのですが、もし宇宙の彼方から知的生命体が訪ねて来て、環境が破壊され、強者が弱者を傷つけている地球の現状を見たならば、この美しい星に住む人間は、何て愚かで野蛮な生き物なのかと、思うに違いありません。




地球上には、人間だけでなく、多種多様の生命が存在しています。

人の身体は1つ1つの細胞が集まり組織を形成し、組織は何らかの役割があって、他の組織と密接に関係しながら存在しています。

身体に1つとして無駄な細胞はないように、地球を1つの共同体と考えると、無意味な生命は存在しないと思われます。

1つ1つの役割は私には判りませんが、どの生命も全体を構成する一部として欠かせない存在であり、その価値に上下はないと思っています。



価値に上下はありませんが、生命の進化の程度はさまざまです。

最も進化しているのは、もちろん人間です。

シルバーバーチの霊訓を読むまでは、進化とは知性の発達と思っていましたが、実は霊性の向上を指します。

生命の本質は、頭脳でなく魂(霊)なので、当然かもしれません。



霊性とは神性であり、愛を表現しようとする心と言えるのかもしれません。

そのため、自己を犠牲にして、他者のために尽くせる者ほど、霊性が高いと言えます。

そして、霊性が高くなると、ふさわしい高い知性と、より大きな自由が与えられると考えられます。



ふさわしい高い知性と、大きな自由が与えられるのは、全体のために尽くし、共に繁栄するためなのですが、人間は自分たちの利益のためにしか活用していない様に見えます。

罪のない動物たちを窮地に追いやっていて、人間は地球上で最も進化した生命とは言えないと思います。

同胞間で、いたずらに傷つけ合っている動物は人間以外に存在しません。



なぜ、このような事態になってしまったのでしょうか?



人は霊的な存在であることを、すっかり忘れてしまったからだと思います。

目に見えるものだけを信じてしまい、魂の存在を無視し続けたためと思います。

さらに言えば、魂から生まれている想いに気付かなくなってしまったためだと思います。



多くの人は、目に見えて触れられる肉体が、自分と確信しています。

存在を実感できるので無理はありませんが、本当の自分とは、実感できない魂です。



10年前の私がそうだったように、実感できない魂の存在を、頭ごなしに信じろと言っても、それは無理な話です。

人間は、霊的な力(生命力)を魂が受け取って生かされているのですが、残念ながらこの世では感得できません。

しかし、霊的な力の働きにより、常識では考えられない現象が引き起こされる時があります。

長い間、病気で苦しんでいた人が、霊的な力により癒される現象は、聖書の中だけの話ではなく、現代においても起きています。

愛する人を喪い、深い悲しみの最中にいる人が、霊の働きにより、故人の想いを知らされ、癒される現象が現実に起きています。

そんな経験をした人の多くは、霊的な世界が実在していることを知り、魂の存在を信じるようになります。

魂の存在を信じる人たちが、まだ信じていない人たちに、真実を広めて行けば、世の中は確実に変わって行きます。



人間を含め、地上の生物は、次元の異なる魂と肉体から構成される、2元的な存在と言えます。

魂が上位に位置し、肉体は魂の表現媒体(道具)に過ぎません。

精神は魂と肉体の間に介在し、両者の橋渡しの役割を担っていると思われます。

次元が異なると言うと、全く別の隔絶された世界に思えてしまいますが、両者には連続性があるので、バイブレーションの違う世界と言った方が、適切なのかもしれません。

当たり前のことですが、AMラジオの受信機でFM放送は聴けません。

周波数と言うバイブレーションが違うからです。

紫外線や赤外線は、目に見えません。

目に見える光線のバイブレーションから、外れているからです。

同じく、バイブレーションの高い魂(霊)は、バイブレーションの低い肉体(物質)では感知できません。

魂は存在しないのではなく、肉体(眼)で認識されないだけです。


人と人は、言葉でコミュニケーションをしています。

物事を詳細に伝えるためには、言葉が介在しなければいけません。

言葉なしには、社会生活は成り立ちません。



伝えているのは、物事だけではありません。

自分の想い(感情)を周囲に伝えなければ、円滑に生活が出来なくなります。

赤ちゃんは一人では生きて行けないので、全身で想いを表現して、親に伝えています。

私の家の犬は、自分の想いを、しっぽや表情、鳴き声などで表現して、周囲に伝えています。

この世は、魂から生じた想いを、肉体を使って表現して伝える世界と言えます。

人間は成長するのに従い、身体ではなく言葉により、想いを表現するようになっていきます。

喜びを言葉で表現するのは、比較的簡単かもしれませんが、怒りを相手の気分を害さずに、上手に言葉で伝えるのは至難の技です。

嫉妬の想いを、表現して伝える言葉はあるのでしょうか?

深い悲しみを表現する妥当な言葉は、見つけられるのでしょうか?

この世は、自分の想いを、正確に相手に伝たえるのが困難な世界と言えます。



相手に正確な想い(気持ち)が伝わらなければ、お互いの認識にズレが生じます。

ズレが大きくなると、誤解が生じ易くなります。

誤解が積み重なっていくと、苛立ちが生まれ、怒りとなってしまうかもしれません。

怒りが大きくなり、限界を超えると、争いとなってしまう可能性があります。

私たちは、お互いの想いを理解するのが難しい世界に生きて、争いを回避するには、お互いの想いを理解しようとする姿勢が必要なのかもしれません。



さらに人間は、大脳を働かせた生活を強いられています。

私の1日の行動を振り返ってみても、朝から晩まで、頭(大脳)を使った生活をしています。

パソコンに向かって事務的な作業をしたり、スマホでメールをしたり、文字や数字を追いかけながら書類を書いたり、何気なく毎日している仕事でも、常に頭が働いています。

大脳が活発に働いている時は、人の想いを感受している魂は、ほぼ休眠状態となっています。

現代に生きる人は、1日中、大脳ばかりを働かせている生活をしているために、人の想いに気付けなくなっていると思います。



日常生活において、習慣となっている動作や、事務的な思考などは、精神と肉体の活動で行われていると考えられます。

しかし、深刻な出来事が身に起きると、魂にまで響いて、何かしらの想いが生まれているはずです。

そんな時、人は頭を働かせて対処しようとするために、生じている想いになかなか気付きません。



さらに、科学は目に見えない、非物質である魂の存在を、否定し続けています。

ところで、目に見える物質とは何なのでしょうか?

数十年前、私の学生時代には、物質は原子と電子から成り立っていると教えられました。

物理学に詳しいわけではありませんが、物質は素粒子という、これ以上細分化できない粒子が振動して、形態として認識されるという、難解な理論が、今では定説となっているようです。

どうやら物質は、私たちがイメージしているものとは大きく異なり、振動しているエネルギーの一種のようです。

難しいことを書くつもりはありませんが、科学的な常識は、時と共に覆されているのは確かなようです。

もしかしたら、目に見える物質と、目に見えない魂の間には、大きな隔たりはないのかもしれません。



生命とは何なのでしょうか?

活動し、個を維持し、種を後世に残していくものには違いありませんが、最先端の科学をもってしても、生命の実体は見出されていません。

多くの優秀な科学者が、日々研究しているにもかかわらず、糸口さえも掴めていません。

その理由は、科学の対象となる肉体(物質)の中には、生命の本質は存在していないからだと思います。



魂(霊)こそが、生命です。

この事実を認めない限り、人を悩まし続けている死や病気を、理解するのは不可能です。

多くの人は、死後の世界を夢物語のように感じています。

しかし、この世から消えてなくなってしまった人が、次の世界で生きているのは、明白な事実です。

現代医学で原因不明とされる病気は、このままでは解明されないと思っています。

なぜならば、多くの病気の原因は霊的次元にあり、研究対象である物質(肉体)を調べても、無意味と思われるからです。

物質の概念が時代と共に大きく変化してきたように、どれ位先になるかは分りませんが、生命の概念も大きく変化する日が必ず来ます。

物質という枠が取り払われ、魂の存在が公然の事実となり、死も病気も怖れるものではなくなる日が来ると思います。


科学は、心や感情を、全て大脳の働きで説明しようとして、頓挫しています。

魂が投影され認識されたものが心(精神)であり、想いが表在化したものが感情と、私は思っています。

もしそうであれば、魂の存在を否定すれば、そこから生まれている言葉にならない想いを無視してしまうことにつながるのではないかと思います。

この世は、元々想いが伝わりにくい世界であるのに、現代の生活は頭を使った生活を強いられ、科学は魂の存在を否定しているために、他者の想いに極めて鈍感になってしまったと思います。



動物も、当然ですが魂があり、想いは生じています。

動物は、進化の程度に応じた想い(感情)を持っていると思います。

人と共に生活している動物には、悲しみ、寂しさ、恐れ、喜び、同情、嫉妬と言った、人間のような想いが芽生えていると考えています。
ぼくはどうなるの?

動物たちは、魂に従って生きていますが、人間は頭でいろいろと考え、そこから多くの選択肢が生まれ、直観として魂が指し示す方向に進むとは限りません。

魂が指し示す方向に従って生きれば、他の生命と協調し、調和を保ちながら、平和な生活ができるのですが、自分たちのことだけを考えて生きれば、それは自然法則に反しているために、周囲との間に不調和が生じてしまいます。

環境破壊も、戦争も、自分たちのことばかりを考えて行動してしまったことが根本原因であり、他者や動物たちのことを考えて行動していれば、このような結果は生まれなかったでしょう。



世の中で起きる全てのことは、自然法則の働きによるものです。

自然法則に逆らうと、苦痛を伴う出来事が生じて、その過ちを償わなければなりません。

問題なのは、原因を作った当事者が苦痛を感じているのではなく、何の罪もない人や動物が、苦痛を味わっていることです。

他人事のように感じてしまいますが、本来は当事者たちが味わなければならいものです。

私も車に乗り、パソコンを使い、恩恵を享受している当事者側にいるので、大きなことは言えません。

少なくても、人や動物の想いには、敏感でいたいと思っています。



人や動物を不幸にしてまで、自分が幸せになりたいとは思いません。

自分だけの幸せは、ありえません。

本当の幸せは、他者の喜びの中にあります。

今の私に出来る事は限られていて、ささやかなものですが、継続していきたいと思っています。



魂が存在するか、しないのか論争する時間はありません。

疑う余地のない事実です。

魂に目覚めるとは、本当の自分に目覚めることです。

そして、人や動物たちの想いに気付くことです。

喜びだけでなく、悲しみや痛みも共有することです。

悲しみや痛みを共有することにより、そこから思いやる心が生まれ、言葉や行動を通して愛が伝わっていき、傷ついた者が癒されます。



より多くの人が、魂の存在、自分の霊性に気付けば、世の中は明るい方向に進んで行きます。

見えるものだけが全てだと思えば、悲惨な方向に進んでしまいます。



魂が目覚めれば、神とのつながりが深まり、地上に愛が行き渡ります。

地上から地獄のような風景は消え、笑顔と安らぎに満ちた天国のような風景に変わって行きます。





 



















  
 

2015年10月11日日曜日

この世の出来事には意味がある




遠い昔の話ですが、小学生の頃、1度だけ父親に連れられて、映画を観に行った覚えがあります。

確かショーン・コネリー主演の007シリーズの映画だと思いますが、映画館に着くと、本編はとっくに始まっていて、半分以上過ぎていました。

私の父親は、じっと待っているのが嫌いな性分なので、途中にもかかわらず、私を連れて中に入って行きました。

中に入ってスクリーンを見ると、迫力のあるカーチェイスのシーンであり、子供ながらに映画はクライマックスに差し掛かっていると感じました。

しかし、それまでのストーリーを知らないので、今、展開されているシーンの意味はさっぱり分かりません。

しばらくして映画が終わり、ほとんどの観客は外に出ましたが、私たち親子はそのまま残って、見逃した前半のストーリーを観ました。

今度は、最初から見たので、内に入った時のシーンの意味や、そこまでのストーリーは分りましたが、結末はすでに知っているので、後半は面白くありませんでした。



人生も同じような気がします。

この世に生まれてきた時には、すでに物語は始まっています。

しかし、私たちの記憶は、物心付いた時から、現在までしかありません。

そのためでしょうか、すべては誕生と共に始まるものと、多くの人は錯覚しています。

途中から映画を見始めると、スクリーンで展開されているシーンの意味が分からないのと同じで、自分に起きている出来事の原因が、この世に存在しなければ、その意味や目的が分からなってしまうのは当然です。



私が休日に訪問している施設では、さまざまな程度の心身に障がいを持つ人たちが、共同生活をしています。

重度の身体障がいを伴った、先天性の病気の人も少なくなく、中には生まれてから死ぬまで、ベッドの上で過ごす人がいます。

医学では、病気には必ず原因があると考えています。

慢性肝炎になった人が、毎日浴びるほど酒を飲んでいたのなら、原因はアルコールにあると判断できます。

しかし、病気が生まれつき(先天性)のものであれば、原因を説明できなくなり、突発的あるいは原因不明として片付けるしかありません。



この人生が、全てではありません。

肉体が消滅した後も、生命は存続しています。

人はどう思おうとも、確証がありますので、少なくても私にとっては事実です。

魂とは生命の本質であり、自分そのものと言って、差し支えないと考えています。

死後にも生があるように、過去にも生があり、この世の生と密接に関り合いながら、つながっています。



生まれつきの病気であれば、原因は生まれる前にあります。

先天性の病気の原因は、過去世にあることになりますが、生まれる前の記憶は、魂の奥に封印されているので判りません。

過去世を知ることができたなら、この世で起きた出来事の原因が明らかになり、多くの人は悩まずに済むかもしれません。

しかし、知らされた過去世が、正しいと立証するものは何もなく、自分が納得できるものでなければ、信じようとしないのかもしれません。

そして、霊的な成長が伴わないうちに、過去世が明かされたとしたら、恩恵よりも弊害が多く生まれてしまうと思いますので、魂の存在を、ようやく意識し始めた現時点では、特別な場合を除いて、明かされることはないと考えています。



私たちが生きている目的は、魂を成長させるためです。

さまざまな人生経験を通して、大切なことを学び、自分に足りないところを補い、成長していくために生きています。



以前の私は、自分の仕事や生活にしか、関心はありませんでした。

障がいのために、一生寝たきりの人を見ても、ただ哀れに思うだけでした。

しかし、現在は見方は一変し、明確な目的があって、障がいがある身体を選んで生まれてきていると思っています。



この世を生きている人は、いずれ死にます。

死んだ後に、地上の人生を振り返る時が来ます。

想ったこと、言ったこと、行ったことが、スクリーンのようなものに映し出され、この世の全人生を検証します。

その時に、自分のした行為が、どのような結果をもたらしたかを、知ることになります。

もし、自分の言動で、誰かが傷つき、つらい思いをしたのであれば、それを知って、後悔や自責の念を持ちます。

今までに、ひどいことを言ったり、ひどいことをしてしまった経験はあるかもしれませんが、良いこともしているので、それほど悔やむ必要はないと思います。

ただ、人生を大きく変えてしまうほど、ひどい仕打ちをしてしまったのなら、その罪を償わなければいけなくなるかもしれません。

償わない限り、良心の呵責から逃れることは出来ず、魂の成長は許されないからです。



ベットの上で、身じろぎもせず、一点を見つめたままの人であっても、自分の置かれている状況を承知しています。

さまざまな想いが生じていますが、身体を動かして表現することはできません。

どんなにつらくても、痛くても、言葉で伝えられません。

何が起きようとも、自分で逃げ出すことはできません。

想像も出来ないほど、過酷な状況に置かれていると思います。



周りにいる人たちは、さまざまです。

やさしい人たちばかりとは、限りません。

意地が悪かったり、残酷な人もいるでしょう。

そんな人たちから、動けないことを良いことに、ひどい仕打ちや侮辱的な行為を受けるかもしれません。

障がい者となって味わう苦しみは、過去に他者に与えた苦しみの償いである可能性があります。

過去に蒔いた種を、今生で刈り取るために、この人生を選んだのかもしれません。



過去の過ちの償いばかりではありません。

障がいと共に生きて、魂をより大きく成長させて、その貴重な体験から、多くのことを学んでいる人も、たくさんいると思います。



自分が病気になって、動けなくなった日のことを、思い出してみました。

身の回りの世話をしてもらうと、とても有難く、うれしかった覚えがあります。

気遣ってくれるやさしさを、身にしみて感じます。

たった数日間、病気で寝込んでいても、自分を助けてくれる人に恩を感じます。



身動きが出来ない人たちが生きていくためには、すべてに渡って人の助けが必要です。

助けがなければ、数日も生きていけないと思われます。

毎日、たくさんの助けを受けながら生活を送っています。



障がいにより、身体は動かず、五感からの情報は受け取りにくくなっているかもしれませんが、魂は活発に働いていて、さまざまな想いを受け取っていると思います。

長い間、助けてもらう立場にいるなら、他者の行為に込められた想いに、とても敏感になっていると考えられます。

助ける行為を事務的に行っているのか、想いが込められているのか、受ける人たちに伝わっていると思います。

何よりもうれしいのは、やさしさや、労わりや、思いやりの想いが、伝わってきた時です。

身体を動かせない人にとって、その想いが喜びであり、生きていく力となっているのかもしれません。



この世では、身体を動かせないのであれば、何も学ぶことはできないと思う人がいるかもしれません。

しかし、人を喜ばすものは何か、人を悲しませるものは何か、健常者が気付かないことを、動かせない身体を通して、日々学んでいるのかもしれません。



身動きの出来ない人にとって、助けてくれる人は、たとえそれが仕事であっても、自分を生かしてくれている、命の恩人のように思えるのかもしれません。

人によって生かされていると、思わずにはいられません。

感謝の想いを、いつも伝えたいと思っているのでしょうが、それも叶いません。

そんな日々が、一生続いたのならば、その想いは想像もつかない位、大きくなっていると思います。



身動きが出来なかった人が、死によって、肉体から解放された時、どんな心境になっているのか、私なりに想像してみました。

鉛のように重たく、動かなかった肉体から解放されて、何でも自由にできる素晴らしさや悦びを、そして表現できなかった感謝の想いを、誰かに伝えずにはいられなくなるのかもしれません。

この世で、一生涯に渡って助けてもらったので、今度は自分が誰かを助けてやりたいと、強く思う気がします。

人や社会のために奉仕をして、恩返しをしていく一生を、懇願してもおかしくありません。

弱者の想いを全人生をかけて深く学んでいるので、物言えぬ人たちのために、精力的に動き回り助けていくシナリオが、次に用意されるのかもしれません。

健全な肉体に宿って生まれ、願いを叶えて行くと思います。



全ての出来事に、意味があると良く言われます。

しかし、どこをどう探しても、意味を見つけられないことがあると思います。

そんな時は、その出来事から何かを学んで、未来で活かすために起きていていると考えられます。

今の苦しみや悲しみは、未来のためにあったとしても、全貌は明らかにされないため、失望感や絶望感に襲われてしまいます。

どんな出来事であっても、自分に必要なことが起きていると固く信じて、つらく、苦しくても、今を精一杯、生きるしかありません。

この経験は決して無駄なものではなく、未来に活かされるはずです。



ところで、一生涯、身動きができない今生のシナリオを、生まれる前に提示されたとしたら、どう思うでしょうか?

ほとんどの人は、自分にはとても耐えられないと思い、拒否してしまうかもしれません。



レベルの高いクライマーは、高く、険しい山を目指します。

低く、なだらかな山では物足りなく、レベルが向上しないからです。

無理に思えるくらい、大変だと思うくらいの山に挑戦して、初めてレベルは向上すると思います。



それと同じく、レベルの高い魂も、より高みを目指して、険しい人生を選択して、この世に生まれてくると考えられます。

平凡な人生では、魂に負荷がかからず、物足りません。

苦難のシナリオに挑戦するのは、その苦難に耐えられるだけの、進化をしている魂です。

目的は1つであり、さらに魂を成長させるためです。

大切な真実を手に入れて、より次元の高い奉仕をするためです。



反対に、苦労もなく、前世よりも楽な一生を送る人生を、生まれる前に提示されたとしても、ほとんどの人は拒否するでしょう。

意外に思うかも知れませんが、楽しいだけの人生からは、得るものはなく、成長しないことを、生まれる前の魂は分っているからです。



この世では、苦労もなく、毎日を楽しく過ごしている人たちは、幸せな勝利者のように見えます。

一方、苦難が降りかかり、悪戦苦闘している人たちは、不幸な敗者のように見えます。

この世だけが全てと思ってしまうと、大きな見誤りをしてしまいます。

死んだ後に待ち受けているのは、肉体や物質が取り払われた魂の世界であり、この世の真相が明らかになります。

楽しかった経験は、楽しかった思い出に過ぎず、魂の成長にはつながっていなかったのが判ります。

避けて通りたかった、苦難の経験や、悲しみの体験が、魂を大きく成長させていたのが判ります。

苦難が降りかかり悪戦苦闘している、不幸な敗者のように見えた人たちが、一転して勝利者となります。

全人生が苦難と思われるような人は、実はこの世で見違えるほどの成長を遂げた、大勝利者となります。



魂の成長している姿は、この世では見えません。

見えるのは、外を包んでいる肉体だけです。

しかし、私には、大きな苦しみや悲しみを乗り越えてきた人の表情は、とても晴れやかで、穏やかに見えます。

そう見えるのは、自らに課した苦難を乗り越えた自信と、魂の成長という目的を果たした悦びと安堵感が、外面に現れているためと思います。



本当に大切なものほど、手に入れるのは難しいようです。

苦難の経験をした者にしか、手にすることのできない真実があり、魂を輝かせる永遠の宝物となるようです。

その真実を手に入れるためには、魂の成長が必要であり、そのためにこの人生を選んでいるはずです。

手に入れた真実を携えて、さらに高みにある真実を手に入れていくのだと思います。

それを繰り返しながら、より魂は成長していき、完全に近づいていくのだと思います。





参考ページ: 「この世の出来事の意味を知る時」