2016年12月24日土曜日

クリスマスに思うこと



今日は、クリスマス・イブです。

明日は、言わずと知れた、イエス・キリストの誕生日です。

これほどまで、一人の人間の誕生を、世界中で祝う日はないのでしょうが、祝っていると言うよりも、プレゼントを交換したり、ケーキやご馳走を食べたりして、にぎやかに楽しく過ごす日という印象が強いと思います。



多くの人にとって、1年で最も幸せな気分に浸れる時かもしれませんが、世界中でお祭りのような日になっているのを、イエス・キリストは本当に喜んでいるのかと、ふと思ってしまいます。

浮かれている様子を見て、嘆いているのではないかと思う時があります。



キリスト教の信者でない私は、イエス・キリストに全く興味がありませんでした。

昔、ホテルの机の引き出しに聖書が置いてあるのを見つけて読んでみましたが、何のことが書いてあるのか、さっぱり判りませんでした。

宗教は弱い者がすがるものであり、神は人が作り上げた概念だとばかり思っていました。

ところが、霊的な力の出現と、挫折的な出来事をきっかけにして、霊的真理に親しんでいくうちに、イエス・キリストに対する考えは、大きく変わって行きました。

これほどまで霊性が高く、大きな愛を持って生まれてきた人はいないと思っています。



イエスは、さまざまな奇跡を起こしたことで知られています。

奇跡は、教えを信じ込ませるための作り話であり、科学万能の時代にあって、まともに信じる人の気が知れませんでしたが、さまざまな経験を経て現在は、霊力は間違いなく存在し、作り話などではなく、実際に起きていたと確信しています。



有名な奇跡としてイエスの「復活」があります。

イエスが生前予告した通りに、死後に弟子たちの前に姿を現して、それを見た弟子たちは仰天し、その後の人生を伝道に捧げたと言われていますが、オカルト的な話であり、にわかには信じられない人も多いと思います。

生命は、死と共に終わるものではありません。

復活とは、肉体から解放された魂(霊体)が、次の世界で生活を始めることです。

イエスが特別なのではなく、全ての人は死の後に、次の世界で「復活」しています。

イエスは心霊的法則に極めて精通していたと言われ、この世の人の目に映るところまで、幽体の波動を下げる、特殊な能力を発揮していたと思われます。



また、病気の癒しも有名です。

てんかんや、生まれつきの盲人、らい病、足が萎えてしまった人などに、イエスが手をかざしたら、癒やされたとされています。

盲目の人が見えるようになり、足が萎えてしまった人が歩けるようになったのならば、周りで見ていた人は、とても驚いたことでしょう。

一見すると、イエスが病気を癒したように見えますが、イエスを通して流れた霊的な力が、病人の魂に届いて、肉体や精神の病気が癒やされたと思われます。

時期が来ていた人が、イエスの元に導かれ、一瞬のうちに病気が完治した人も多かったと思います。



奇跡は、超自然現象と言われていますが、霊的な法則に則った自然現象に変わりはありません。

目に見えない世界から届く、目に見えない力の働きによって、目に見える形となって現れたのが、奇跡と呼ばれるものです。

目的は、霊力の存在を知らしめて、眠っている魂を目覚めさせるためです。

奇跡を目の当たりにした人たちは驚愕して、イエスの語る言葉を信じるようになったと考えられます。

イエスは、人類史上最高の霊能力者であったと思います。



約2000年前の地上で、神のごとく生きた人が、今、霊界でどれほど進化した存在となっているのか想像もつきません。

シルバーバーチの霊訓には、現在のイエス・キリストは、唯物的な考えに支配された地球に、キリスト教の教祖としてではなく、あらゆる宗教を超越した、人類の霊的覚醒を目的に組織された集団の中で、最高指揮官をしていると書かれています。

過去の人ではなく、今も、この世界と深く関わっているようです。



世界にはさまざまな宗教がありますが、その根底にあるものは実は同じです。

しかし、宗教にはドグマ(教義)があり、その相違により、大きな混乱が生じているようです。

宗教の名の下に、分断され、戦争が行われているのは、神が最も望まない、嘆かわしい行為だと思います。

現在のキリスト教ですが、残念なことに教義と儀式に縛られ、霊的な力が人々に届いてはいないようです。

イエスを神の子として奉ることに重きを置いてしまい、伝えようとしていた肝心の真理が埋もれてしまっているようです。



イエス・キリストは、いくつものシンプルな真理を遺しています。

昔は、何のことやら判りませんでしたが、霊的真理を学ぶうちに、少しですが理解が進みましたので、稚拙ですが、自分なりに解釈してみました。


「神は愛なり」

神の心は愛であり、その心は法則として顕現していて、私たちを究極の悦びの世界へ導こうとしている、という意味に捉えています。


「右の頬をうたれたら、左の頬を差し出しなさい」

初めて聞いた時は、それでは相手への服従になってしまうと思ってしまいましたが、頬をうち返したら、相手はさらにうち返してくるので、相手の行為を許し、左の頬を差し出して親愛の情を示せば、(自然法則の働きにより)うち返してこれないので、賢明であると解釈しています。

霊的真理の根幹をなす、「因果律」の働きを表現していると思います。


「人はパンによって生きるものにあらず」

人は食べて寝るだけの存在ではなく、もっと有意義な人生を送らなければいけないと、解釈していましたが、その先に「神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる」と続きがあるようです。

神の口から出るひとつひとつのの言葉とは、法則(摂理)を指していて、食べ物で養われるのは肉体だけであって、人の本質である魂は、神の力(生命力)と自然法則の働きによって生かされていると言う意味にとっています。


「豚に真珠」

真珠とは霊的真理で、豚とは真理の価値を理解できない人たちのことを指すと思います。

真理を受け入れる時期が来ていなければ、何をしても無駄であると、弟子たちに伝えていたのかもしれません。

きつい喩えだと感じましたが、イエスが生きた時代は、真理を嘲笑う人たちが多くいたのかもしれません。


「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える 」

結婚式で牧師さんが言っているのを良く聞きますが、愛は人の成長を妨げるあらゆる感情や欲望から解放させ、人生を正しい方向に導き、あらゆる苦難を乗り越えさせてくれる、と解釈しています。

もっと簡単に言えば、愛はすべてを超越した神の力である、なのかもしれません。


「受けるより与えるほうが幸福である」

人から愛をもらうと、誰でも幸せな気分になりますが、より幸せになれるのは愛を与えた人である。

なぜなら愛を与えることで魂は成長し、この世を生きる意味が成就され、神の国に入れるからである、と言いたいのだと思います。


「愛は摂理の成就なり」

いろいろな解釈があると思いますが、命あるものは摂理(法則)の働きによって、お互いを愛し合うようになり、最後には1つになる、と考えています。



イエスが生きた時代のイスラエルは、人を導き、救うべき宗教が、時の権力(ローマ帝国)と癒着し、堕落してしまい、民衆の不平、不満は、とても大きかったと考えられます。

殺伐とした世の中で、神の御心は愛であり、やさしく、思いやりの心を持って生活していれば、貧しくても天国に行けると言うイエスの教えは新鮮であり、多くの人の心を捉えたと思います。



「目から鱗が落ちる」ということわざを、良く耳にします。

語源はイエスを迫害していたサウロという人が、ある日、目が見えなくなってしまい、イエスの使者が赴いて、手を置いたところ、目から鱗のようなものが落ちてきて、見えるようになったことから来ているそうです。

遠隔ヒーリングを行って、見えるようになったと思われますが、このようにイエス自らが、敵をも愛する行為を実践している様子を見て、周りの人は次第に信用していったと思います。



イエスはお金や財産などについて、この様に語っています。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

物質的な財産は、時と共に価値が失われたり、人に奪われたりする上に、結局は手放さなければならないので、蓄えても意味がない。

真の財産とは、やさしさや思いやりや奉仕により、あなたの魂に蓄えられ、成長させるものであり、永遠に失われない。

もっと手短に言ってしまえば、あの世で豊かに暮らすために、この世で徳積みに励みなさい、と言いたいのではないでしょうか。


そして、イエスはこんなことも言っています。

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。 」

金持ちは、お金に執着するあまりに利己的な人生を送ってしまうため、利他的な神の国(天国)に入るのは限りなく難しくなってしまう。

お金の存在は、人の理性を狂わせ、魂を貶めてしまうような生き方に変えてしまい易いので、強く戒めていると思います。



昔も今も、お金が何よりも大切と思っている人は、とても多いと思います。

やさしさや思いやりは大切だと判っていても、自分にとって何の得にもならないと思っている人も、少なくありません。

目に見えないものよりも、目に見えるものを、どうしても頼りにしてしまいます。

もし、この世で終わってしまうであれば、価値観の相違として許されるのかもしれません。

しかし、死の後も、私たちは生き続けるのは、厳然とした事実です。

あの世は思念(想い)の世界であり、想像するのが難しいかもしれませんが、この世で目に見えたものが見えなくなり、見えなかったものが実在していることに気付きます。

地上の財産は跡形もなく消滅してしまい、それまで五感に触れなかった愛が、ひしひしと実感されるようになります。



イエスが、一貫して伝えようとしていたのは愛の大切さです。

愛こそがすべてと、言い切ってしまっても良いのかもしれません。

イエスは十字架の上で、自分を磔にした人たちのことを、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしてるのか知らないのです」と、祈ったそうです。

もし、これが事実ならば、イエスは究極的な愛を実践しながら、死んで行ったと言えます。



そんなイエスが、地上で盛大に誕生日を祝ってもらっても、うれしいはずがありません。

助けを求めている人たち、忘れ去られている人たち、涙を流している人たちに目を向けて欲しいのに決まっています。

そして、世界中で起きている戦争に心を痛め、富めるものがますます富み、貧しいものがますます貧しくなる摂理に反した社会を憂い、病気や栄養不良で死んで行く地上の子供たちを見て涙を流しているような気がします。



「自分を愛するがごとく、隣人を愛せよ」

もし、全ての人がこの言葉を実践できたなら、地上から地獄のような光景は消え、直ちに地上天国が実現すると思います。
























2016年12月11日日曜日

人生の出来事の意味



現代社会を生きる人たちにとって、1番のストレスは仕事でしょう。

仕事自体よりも、職場での人間関係がストレスになっている人も多いのではないでしょうか。

私も、御多分に漏れず、昔から苦労を強いられています。

誰もが、良い雰囲気の中で働くこと望んでいるのですが、性格、価値観、考え方の違う人間が集まっているので、時に不協和音が生まれてしまい、そんなに上手くは行きません。

自分が思っていることを、他人が同じように思っていると勘違いすると、誤解や軋轢が生じてしまうことがあります。



思ったことが、相手に上手く伝わるとは限らず、関係が悪くなってしまうのを怖れるあまり、表現して伝えたい欲求を抑え込んでしまうと、ストレスとして感じるのかもしれません。

相手とのコミュニケーションは、自分の思ったことや概念を、言葉などの媒体に変換しているので、どうしても齟齬が生じてしまい、正確には伝えられません。

私たちは、自分の思いや考えを、五感を通して相手に伝えなければならない、非常に煩わしい世界に生きています。



しかし、人は霊的な存在なので、言葉を越えた想いを感じ取る能力が備わっていると考えられます。

この世では、当然のことながら想いは眼に見えませんが、無意識に感じ取っている時があると思います。

何となく傍に近寄りたくない人、何故だか引き付けられてしまう人がいますが、その人が出している想いに、魂が反応しているからだと思います。

また、親近感のある人が、今、何を想っているのかが、判る瞬間もあると思います。



あの世は、自分の想ったことが、肉体と言う媒体を介さずに、魂から魂に直接、伝わる世界です。

しかし、見方を変えれば、人に知られたくない想いまでも、知られてしまう世界と言えます。

この世では、はらわたが煮えくり返るほど怒っていても、つくり笑いで対応することは可能です。

本音を隠すのは、世の中を波風を立てずに生きていくために必要と言えますが、あの世ではそんなわけには行きません。

覆い隠す肉体はなくなってしまうために、怒りは光となって放たれ、直ちに周囲に知れ渡ってしまいます。



やさしさや思いやりと言った愛に根ざした想いは、美しい光輝となりますが、怒りや憎しみや恨みや嫉妬、そして貪欲な想いは、くすんだ色の光となり放たれます。

どんな想いを抱いているのか一目瞭然であり、憎しみや恨みの想いを抱く人に近づこうとするのは、同様の想いを抱いている人たちだけです。

あの世は、自分の本性(魂)がむき出しになってしまう世界です。



この世で培った自分の本性(魂)は、寸分たがわず、あの世に持ち越されます。

自分の本性を形作って行くのは、この世での1つ1つの言葉や態度や行動であり、そして動機となっている想いです。

想いは人に知られることはありませんが、自然法則に支配されているため、その責任は自分で取らなければいけません。

今、しようとしている言動に先立っている想いがどのようなものなのか、注意を払わなければいけません。

しかし、頭ばかりを働かせている生活をしていると、想いに気付きにくくなります。

自分の想いに気付きながら生活するためには、心穏やかに過ごすように努めなければいけません。



あの世に行けば、自分の想いの全てが知れてしまいます。

もし、人に知られたくないような想いが生じているのであれば、この世にいるうちから自分を変えていかなければいけません。



けれども、何もなしに、自分を変えて行くのは、とても難しいと思います。

この世でさまざまな出来事を経験する1つの目的は、自分を変えて行くためにあると考えられます。



人生は、楽しいことやうれしいことだけでなく、許せないことや、納得できないことなど、様々な出来事が起こります。

人からひどい仕打ちを受けたら、怒りが生まれ、それが高じていまうと憎しみになることがあります。

怒りや憎しみの想いを、言葉や行動にして表現してしまえば、気持ちは治まるのかもしれませんが、周囲との関係が悪くなり、往々にして痛みを伴う結果となって、自分に返ってきてしまいます。

かと言って、内に溜めてしまうと、自分の中に不調和が生じてしまい、病気になったり、その想いに苦しんでしまうことになります。

どちらにせよ苦痛となって自分に返って来るのは、その想いが自然法則に反したものだからです。

怒りや憎しみ、嫉妬や貪欲などの想いを抱いてしまうと、因果律の働きにより苦痛が生じます。

そこから逃れるための唯一の方法は、自らの想いを自然法則に適ったものに、変えて行くことです。



怒りや憎しみなどの想いが、他者と反発し合い、苦痛を生じさせていることは、世界で起きている争いを見れば、はっきりと判ります。

争いを、恒久的に解決するために必要なのは武力ではなく、お互いを認め合い、許し合うことであり、怒りや憎しみが鎮められて、初めて争いは治まってきます。

人だけではなく、組織や国家も、苦痛を通して、想いを正していることに変わりはありません。



肉体的、精神的苦痛を通して、自らの想いを正しながら、無意識のうちに自然法則の働きに従っていると言えます。

この世の出来事は、自らの想いを自然法則に適ったものに正すためにあり、それは死の後に待ち受けている、あるがままの自分が表現される世界で、恥をかかないためにあると考えられます。

自然法則に適った想いとは、大きな意味での「愛」です。

この世で苦痛を伴う経験をしなければならないのは、あの世で愛の想いを放つ、美しい魂となるためです。



あの世は、協調や調和を基調とした世界です。

協調しながら、調和して生きるためには、まず、お互いを理解しなければいけません。

お互いを理解するのは、口で言うほど簡単ではありませんが、相手の立場になって考えられるようになれば、より深く理解できると考えられます。

相手と同じ立場になる以上に、より深く理解できる方法はありません。



悲しんでいる人がいると、そばに行って慰めの言葉をかける人がいます。

奥深いところまで伝わってくるのは、自らが同じような経験をした人の言葉だと思います。

裏切られて憤っている人に、同じような経験をした人がなだめたなら、気持ちが少し鎮まるかもしれません。

同じような出来事を経験をしたことにより、想いを共有できるからです。



今から5年前に、東日本大震災がありました。

起きた出来事は想像を絶するものであり、世の中全体が鎮まり返ったように思いました。

多くの日本人が、亡くなった人を悼み、被災された人を気遣い、同じ想いを共有していたような気がします。

普段ばらばらになっているものが、同じ想いを共有することにより、わずかな時間でも1つになったのを実感しました。

日本だけでなく、世界中の人も、同じ想いを共有出来たならば、差異を乗り越えて、1つになって行けると思います。



もし仮に、人生で何事も起こらないとしたら、何の想いも生まれません。

さまざまな出来事を経験をするのは、より多くの人と想いを共有するためにあり、差異を乗り越えて1つになって行くためと思います。

魂には、1つになりたいという根源的な欲求があり、いくつもの想いを共有することで、両者に強い結びつきが生まれ、成就して行くと思います。

想いを共有した人に、内にあった想いはにシェアされて、魂は癒されます。

どんな出来事であっても、想いを共有することで、人のために活かされます。



この世では、さまざまな目的があって集団が形成されますが、ほとんどが社会で生きていくために便宜的に作られたものであり、精神的なつながりは希薄です。

あの世で、共に生きているのは、魂と魂がつながった人たちです。

この世では、みせかけの同情や、言葉だけの慰めは成立します。

あの世では、想いを共有できない人との接点はなく、想いを共有している人たちだけが、お互いに愛を表現し合い、魂を成長させることが出来ます。

想いが共有されて、全てを分かち合っています。

人の悦びが、自分のことのように感じられます。

人の悲しみが、自分のことのように感じられます。

いろいろな想いを分かち合えるようになるには、自分自身も経験しなければいけません。



人生の出来事は、あるがままの自分が表現されても恥ずかしくないように魂を成長させ、いくつもの想いを共有し、強く結ばれて一つになるためにあると言えます。







※あまりにも酷い虐待が行われていましたが、動物を愛する人たちの力によって、現在は改善してきているようです。こんな動物たちがいることを知って下さい。
【山口県の2000匹の野犬】





2016年11月27日日曜日

人生の価値は成長にある



子供の頃は、目に映るものが、活き活きとして、輝いて見えていたように思えます。

先日、犬を散歩していたら、ようやく歩けるようになった子供が「わんわんだ!」と言って、うれしそうに近づいてきました。

物心がつく頃までは、魂の目で見ているので、人と動物の間に境目がなく、同じ生命として強い親近感を持っていると思いました。

子供の頃、捨てられた子猫を見ると放って置けずに、家に連れて帰った時がありますが、悲しいかな大人になると見て見ぬふりをしてしまいます。

自分(魂)に正直であったのに、大人になるに従い、自分に嘘をつく自分が作られて行くようです。

大人になるとは、この世界に順応していくことであり、もう一人の自分(自我)を発達させることかもしれません。

自我を発達させて行くのは、生きて行く上で必要なことですが、それに従い、それまで前面出ていた本当の自分(魂)が、後ろに隠れてしまうと考えられます。

打算とか遠慮がない子供の姿を見て、大人は無邪気に思いますが、魂から生じたありのままの想いが、自我に邪魔されずに、素直に表現されているからだと思います。

俗に言う「大人になる」とは、ありのままの想いを、隠して生きて行くことなのかもしれません。

周りと上手くやって行こうと思えば思うほど、自我が取り仕切るようになり、ありのままの想いは封じ込められてしまうと思います。



私の子供の頃は、本当の自分を出しながら生きて行けましたが、今は親や周囲の自我を押し付けられて、抑圧されている子供も、見受けられます。

子供は従順ですから、本当はしたくないことでもしますが、そんな中でも自分の想いは生じ続けていて、表現できなければ溜まって行きます。

抑えきれないところまで達してしまうと、溜まっていた想いが発露を求めて、一気に表現される時もあります。

溜まった想いが、怒りや、憤りであれば、暴力的な表現となり、取り返しのつかない事態に発展することもあると思います。

「私の子に限って」、「あの大人しい人がそんなことをするはずがない」と、ニュースで良く聞きますが、自我により封じ込められていた想いが、それだけ大きく強かったと思われます。

 想いは肉体により表現される力であるため、当然の結果と言えます。



自我により全てが決定されてしまうと、魂の発露がなくなってしまい、何で生きているのか判らなくなってしまいます。

私も大学に入ってしばらくすると、何で生きているのだろうと思う時がありましたが、自我が大学に入ることを要求し、それが達成されたので、一時的に目的を失ったのかもしれません。

生きる意味が明確にならずに生きているのは、目的地もないまま旅をするようなものであり、無駄な時間を過ごしているように思える時もありましたが、そんな時に自我は、見せかけの生きる目的を示していたと思います。



周りに流されたり、自我に縛られて生きていると、「こんなので良いのか?」、「何か間違っているのではないか?」と、囁いている自分がいました。

それが本当の自分である魂の声であり、一時的に前面に出て来たと考えられます。

しかし、その声も自我により、もみ消されてしまいます。



ほとんどの人は、本当の自分(魂)と自我のせめぎあいの中で、生きているように思えます。

本当の自分を前面に出して生きたいけれど、周りに合わせて、より安全に生きようとする、自我の考えに、つい流されてしまいます。

本当の自分は、一歩前に進もうとしているのですが、怖れや不安が生じてしまうと、危険を犯さずに、現状のままでいようとする自我に負けてしまいます。

本当の自分は、悔いがないように生きようとします。

しかし、自我は傷つけられることを極端に嫌い、一歩前に進んで行く決断の足かせになっている時があります。

「どちらを選択しても、それほど大きな差はない」、「迷惑をかけているわけでもないし、そちらが安全」、「失敗したら恥をかく」と、考えてしまうのは、自我によるものと思います。



生きる目的は、自分(魂)を成長させるためです。

魂は、障害や困難を乗り越える中で、成長して行きます。

一歩前に進んで行くと、そこには障害や困難が待ち構えていますが、それを乗り越えようとする中で、魂は成長して行きます。

迷わず一歩進んで行くべきなのですが、その1番の障害となっているのは、思いとどまらせようとする自我です。

進んで行って失敗したとしても、それは魂の選択であり、後悔はしません。

けれども、自我は失敗をして後悔をする姿を、想像させます。

自我が出している結論は、本当の自分の想いと異なることが多く、そこに葛藤が生まれます。

成長は人に科せられた宿命ですが、自我に流されたままになると、予期した成長が得られなくなります。

敵は外にいるのではなく、自分の中にいる自我と思われます。



一歩進んで行くのを選択して、悪戦苦闘しながら乗り越えて、成長した魂には、さらに障害や困難が待っているのかもしれません。

それでも、また一歩進んで行く選択をするのが正解であり、そんなことを繰り返しながら、魂は大きく成長して行きます。



目の前にある困難を受け入れるかどうかは、自分自身にかかっています。

その時に助けとなるのが、「乗り越えられない困難は与えられない」という真理であり、自我の誘惑に負けてしまわないように、強く信じ続けなければいけません。

今、振り返ってみても、当初は、とても乗り越えられない思ったことでも、持てる力を尽くして行けば、少しずつ障害が取り払われて行き、結局は乗り越えていたことが判ります。

乗り越えて行けると言う信念が足りないと、自我の言うがままになり、妥協と言う脇道に逸れて行ってしまいます。

妥協が妥協を生み、それが自分の本性になってしまうのは、恐いことです。

恐れや不安を振り払い、少しでも前に進んで行かなければならないと思います。



人生には、およそのシナリオがあります。

それに沿って起きる出来事で、どちらの方向に進んで行くかは、自分の意思に任されています。

どちらを選択するのかで、人生は変わってきますが、これまでした選択の結果として、現在の自分があります。

無限の知性は、正しい選択をしないことも織り込み済みですが、それでも、正しい選択はどちらかは、知っていなければいけません。

自分を成長させる方向が、進むべき方向です。

それが正しい選択であり、後悔はしません。



1つ1つの決断が、自分を形作って行き、死によって人生は終焉を迎えます。

しかし、生命は死とは関係なく続いています。

しばらくすると、生まれてから死ぬまでの人生が映し出され、客観的に眺める時が訪れます。

この世の自分を眺めながら、うれしくなったり、悔しがったりします。

うれしくなるのは、人や社会や動物のために役に立っている自分の姿が、映し出された時です。

反対に、傷つけたり、苦しませたり、悲しませている自分の姿を見るのは、耐えがたいものになります。

そして、誘惑に負けずに、成長する方向に進む選択をした自分の姿を見て、ホッと胸をなでおろします。

何よりも悔しくなるのは、成長する機会を逃す選択をした自分の姿が映し出された時です。

この世に生まれた意味の1つを、成就できなかった後悔は、想像以上のものになると考えられます。

一歩進んで、たとえ失敗したとしても、待っているのは学びですが、留まることを続けていると、後に待っているのは後悔です。



この世で言われている幸、不幸と、人生の価値は一切関係ありません。

人生の価値とは成長です。

困難な道を選択した人、苦難を耐え忍んでいる人の魂は、より大きく成長しているので、価値のある人生を送っていることになります。



人生では、とても歓迎できないような出来事が起こります。

それは不幸な出来事ではなく、自分を成長させるために起きていることを忘れないで下さい。

どちらに進んで行くか迷う時がありますが、自分をより成長させる選択をして下さい。

しばらくは苦しみが続くかもしれませんが、その後に悦びが待っています。










2016年11月13日日曜日

不治の病について その3



病気の治療は、原因を突き止めることから始まります。

もし、原因を見つけられなければ、病気を根本的に治すのは不可能と思われます。

残念ながら、現代医学で原因が突き止められずに、根本的に治せない病気がたくさんあります。



人間は、肉体、精神、霊(魂)から成り立っていて、それぞれの次元に病気の原因は存在します。

しかしながら、医学は霊(魂)の存在を認めていません。

従って、霊的次元に原因がある病気は、原因不明とされてしまい、医学は有効な治療手段を持ち合わせていません。

原因不明の病気を根本的に治すためには、霊的な原因を見つけ出さなければいけないと思われます。



霊的次元の原因は、大きく2つに分けられると考えられます。

1つは生まれる前からあった原因と、もう1つは今生で生じた原因です。

生まれる前からあった原因に関しては、この世を生きている私たちには知りようもなく、また予め病気になることが決まっていたので、対応は難しいと考えられます。

今生で生じた原因については、しかるべき対応をすれば、病気は軽快してくる可能性があります。



今生で生じた主な霊的な原因として、私は過去の出来事から生じていた、表現できずに内に溜まっている「想い」と考えています。

もし、溜まっている想いが解放できたなら、肉体上の病気は癒されてくると思います。



想いを解放するとは、どのようなことなのでしょうか?

想いは魂から生まれていて、精神を経由して指令となり、肉体で表現されて完結します。

想いは、肉体的表現の素となる力と言っても良いと思います。

何らかの理由で肉体的表現が出来なかった想いは、消えてなくなるものではなく、内に溜まっていくと考えられます。

そして、時を経て因果律の働きにより、肉体上に変化を起こす力になり得ると考えています。

肉体上に起きた変化が病気であり、自分の内面に変化が起きていることを、この世の人に認識させています。



肉体上に変化を起こす想いは、自分の身に起きた出来事を、理解できなかったり、認められなかったり、許せなかった時に生じていると考えられます。

その想いは、自然法則(神の摂理)に反するものであり、魂が未熟なために生じてしまいますが、病気には償いとしての一側面があると考えられます。

(今生で原因が生じた)霊的な病気は、想いが溜まったため、自然法則の働きにより生じるものですが、実は、その想いを解放するための手段にもなっていると思われます。



理解に苦しむところですが、説明して行きます。

魂とは生命そのものであり、本当の自分です。

生まれたての赤ちゃんは魂で生きていますが、この世を生きているうちに、もう一人の自分(自我)を築き上げて行きます。

その自我を、本当の自分だと錯覚している人は、この世に数限りなくいると思います。

自我は、この世でより良く生きるため、本当の自分(魂)を守るために存在していますが、自我が強くなってしまうほど、本当の自分から生まれた想いを遮ってしまい、外に表せなくなってしまいます。

従って、自我が大きく、強い人ほど、自分の想いを内に溜めてしまう傾向にあると考えられます。



病気には苦痛が伴います。

病気の苦痛には、身体の異常を知らせる以外に、魂を目覚めさせると言う大切な目的があります。

魂が目覚めると、自我が後退し、それまで隠されていた想いが外に現れてきます。



病気は苦難であり、魂を成長させています。

肉体上に変化を起こす想いは、過去の出来事を理解できなかったり、認められなかったり、許せなかったために生じていますが、その後、さまざまな人生経験により、魂は成長しています。

若い時に看過できなかった出来事が、年を取ると些細なことに思えてくるのは、魂が成長した証拠だと思います。

最大の試練とも言える病気は、さらに魂を成長させて、理解できなかったことが理解され、認められなかったことが認められ、許せなかったことが許せるようになる時が訪れます。

成長した魂と、溜まっていた想いとの間に親和性がなくなると、自然法則の働きにより、想いは解放されて行くと思います。



つまり、想いは因果律の働きで肉体上の病気になりますが、その病気が魂を目覚めさせ、成長させて、想いを解放して行くと考えられます。

肉体は魂(想い)を表現する媒体であるため、溜まっていた想いが解放されたのなら、肉体上の病気は癒されると考えられます。

病気には魂を浄化させる目的があり、自分の成長を妨げていた想いという不純物を取り除くためにある触媒と言えます。

何らかの原因があって、病気になったのは間違いがないのですが、多くの人は肉体上の変化という結果しか見ていません。

肉体上の変化を元に戻すことに全精力を傾けてしまい、霊的な原因があることに気付けません。



人生のどこかで、成長を妨げている強い想いが生じていた可能性があります。

子供の時に、魂にまで響くような深刻な出来事がなかったのか、まず検証して行く必要があります。

子供の時は精神が未熟なために、感情にならなかったり、上手く肉体的表現が出来ないからです。

徹底的に、追い詰められた出来事は、なかったでしょうか?

その時に、誰にも頼ることが出来なかったのではないでしょうか?

助けを求めて、泣き叫びたくても、それが出来なかったのではないでしょうか?

そんな経験があれば、強い想いが生じていて、表現できずに、滞った可能性があります。

自我に隠されたまま、潜伏していたのですが、大きな問題が生じていたと考えられます。

その想いがあるために、人生で遭遇する出来事から同様の想いが生まれていて、徐々に大きくなり、自由意志による決定に深刻な影響を与えていたと考えられます。



大きくなってからでも、生き方や考え方を変えてしまうほどの、衝撃的な出来事はなかったでしょうか?

強い想いが生じていたにもかかわらず、自我により封じ込めてしまったのではないでしょうか?

封じ込めた想いが、後の人生に深刻な影響を与えていたかもしれません。



人生には、およそのシナリオがあります。

この世で、魂を成長させるためのシナリオです。

想いが溜まっているために、自分を成長させる、シナリオに沿った決定を、妨げていた可能性があります。

人や社会のために役に立つ機会が巡ってきても、人や社会を忌み嫌うような想いが溜まっていれば、行いに移すのは容易ではありません。

予期した方向に進めずに、魂の成長が得られなければ、この世を生まれた意味を成就出来なくなります。

内にある想いを解放して、本来の自分を取り戻し、シナリオに沿った人生を歩むために、この時期に病気になる必要があったと思われます。



過去の出来事から生じていた、自分の想いに気付くことから始めなければなりませんが、多くの人は自分の頭脳(自我)が優先されているために、なかなか気付けません。

また、感情に捉われていても、気付くのは困難です。



思考が停止し、感情のさざ波が治まり、頭が空っぽになった時に、隠されていた想いは浮かび上がって来ると考えられます。

私は休みの日に、家の掃除をします。

無心になって廊下を拭いている時に、過去にあった出来事の情景と、その時に生じていた想いが浮かび上がって来るのを感じる時があります。

すっかり忘れていたのに、どうしてなのかと思いましたが、自我に隠されていた想いが表在化して来たと考えています。

運動している時にも、過去に生じていた想いが出てくるのを感じる時があります。

座禅を始めてしばらくすると、身体が揺れてピシャリと叩かれるのは、無心になり想いが表出してきたからなのかもしれません。



想いは本来、精神で指令となり、肉体により表現されるものですが、自我の働きが強くなっていると、それがスムーズに出来なくなると考えられます。

シルバーバーチの言う、肉体と精神と霊(魂)の不調和とは、そんな状態を指すのかもしれません。

想いが溜まったとしても、弱いものであれば、自然に解放されたり、スポーツや趣味、おしゃべり等の別の肉体的表現に伴って、外に出されることもあると考えられます。

しかし、強い想いであれば、ストレス解消と言われるようなことをしても、解放するのは困難と思われます。



その強い想いが、知らずに成長を妨げていたのかもしれません。

愛の表現を妨げる、怒り、憎しみ、恨み、妬みなど、神の摂理に反する想いなのかもしれません。

人生のシナリオに立ち向かっていく勇気を萎えさせてしまう、怯え、恐れ、不安の想いなのかもしれません。



そんな想いを解放するにはどうすれば良いのでしょうか?

どれ位の効果があるのか未知数なのですが、一つの方法がありますので書いてみます。



まず、忘れてしまいたい出来事と、もう1度、正面から向き合います。

その時、自分がどう想ったのかを、心を鎮めて見つめ直します。

それは、自分の存在を揺るがすような、強烈な想いかもしれません。

怒りにも似た、何もかも壊したくなるような衝動を起こさせる、破壊的な想いかもしれません。

どこかに隠れてじっと身を潜めていたくなる、怯えるような想いかもしれません。

いずれにせよ、言葉で言い表すのが困難な、とても大きな、強い想いだと考えられます。

想いが現れると、絶対に嫌だと、叫びたくなるような気持ちが沸き上がるかもしれません。

自我が現れて、思い出そうとするのをやめるように囁き、隠そうとするかもしれません。

今の自分が、その時の自分に代わって、表に出て来た想いを肉体的表現をすれば外に出されるはずですが、それができるような想いではないと思われます。



今の自分が寄り添って、想いを共有してやりましょう。

出来事が起きた時に近い、自分の写真があれば用意して下さい。

写真の中にいる自分をじっと見つめながら、比較的最近の出来事であれば鏡の中に映る自分の瞳を見つめながら、次のような言葉を心を込めて投げかけて下さい。

「よく頑張ったね」

「苦しい思いをさせたけど、もう大丈夫。」

「誰よりも判っているから安心して」

「大好きだよ」

かける言葉は、決まっているわけではありません。

最も親しい人が苦しんでいる時にかけてやる、適切な言葉を自分で選んで下さい。

一番大切なことは、言葉に想いを込めることです。

大切な人を助けるつもりで、真剣に想いを伝えて下さい。



あの時の自分を、今の自分が心から慰めて下さい。

あの時の自分が、かけてもらいたかった言葉を、今の自分がかけて下さい。

あの時の自分を救えるのは、今の自分しかいません。

あの時の自分は、今の自分からの愛により救われます。



あの時の自分と想いを共有して、別のかたちにして、表現してやりましょう。

想いを共有できたのなら、涙が流れ出てくるでしょう。

あの時の自分に代わって、今の自分が、想いを表現しています。

あの時の自分が、どうしても理解できなかった、認められなかった、許せなかった出来事が、苦痛を経験して成長した自分が、理解し、認め、許すことが出来たのです。

許しの涙です。

想いが、愛により涙となり、表現されたのです。



嫌悪も、怒りも、憎しみも、怯えも、いかなる想いであっても、愛により解放できます。

肉体に変化を生じさせた想いは、あなた自身へ向けた愛により、神から人にだけ与えられた涙として、解放させることが出来ます。



人は愛を学ぶため、表現するために、この世に生きています。

病気も、別れも、争いも、痛みを通して、愛を学ぶためにあります。

この世で起きる全ての問題は、想いを共有し、愛を表現することで解決します。



愛を超える癒やしの力は、この宇宙に存在しません。

あなたの愛の力で、あなたの病気を癒すことができます。



自分を救うのは、結局は自分です。

自分の中にいる神(愛)に、救われます。







2016年10月30日日曜日

不治の病について その2



人は、肉体と精神から成り立っているのではなく、精神より高次に魂(霊)が存在しています。

肉体と精神と魂が、緊密に連携して、自己表現しながら人は生きています。



病気の原因は、肉体、精神、霊のそれぞれの次元に存在しますが、現代医学の対象となっているのは肉体です。

肉体的次元に原因がある病気は、現代医学でも治癒させることが可能です。

しかし、精神的、霊的次元に原因がある病気は、病変を切除しても、薬を飲んでも、それは対処療法に過ぎません。

精神的、霊的次元の原因が解消された時点で、根本的な治癒が望めます。

外科的処置や薬で治らない病気の多くは、霊的次元に原因があると思われます。



霊的次元に原因がある病気にも、いくつかの種類があると考えられます。

1つ目は、前世での過ちが原因で、その償いのために病気になる。

もしそうであれば、過ちに見合った苦痛を味わったのならば、病気は治癒すると考えられます。

2つ目は、魂の成長のため、大切なことを学ぶために、病気になる。

もしそうであれば、魂が成長し、大切なことに気付いた時点で、病気の苦しみから解放されると考えられます。

3つ目は、決められた時期に向こうの世界に行くために、病気になる。

もしそうであれば、いかなる手段をもってしても、この世に留まることは出来ないと考えられます。

以上の3つは、この世に生まれる前に、予め決められていたことであり、医学的処置を試みたとしても、無効と思われます。



それとは別に、この世に生まれてから(霊的な)原因が生じて、病気になることがあると思います。

その原因とは、過去の出来事から生じていた想いと、私は考えています。

生じた想いを上手く表現できなかったために、内に滞り、肉体上に病気を生じさせてしまったと考えられます。



社会に生きる私たちは、法律という決まりを守りながら生きています。

破ると罰せられますが、見つからなければ咎められることはありません。

宇宙全体を自然法則が支配して、秩序が保たれています。

法則は休みなく厳格に働いていて、万物はその支配から逃れることはできません。

万有引力の法則は、物質に働く自然法則の1つです。

同様に、目には見えない霊(魂)に働いている、自然法則が存在すると思います。



神は独立した存在ではなく、全てに宿り、法則として顕現しています。

魂(霊)は、神の一部であり、神とつながっています。

神の心は、無限の愛です。

人や社会のために生きようとする欲求が起きるのは、魂が神の心を表現しようとしているからです。

良心の呵責が起きるのは、神の心に反することを、魂が知っているからです。



人は食物から栄養を摂取して生きているように見えますが、それは肉体に限った話であり、人の本
質は目に見えない魂であり、神から生命力を受け取って活動しています。

その受け取った生命力により、魂は活動し、そこから想い(思念)が生まれています。



人の言動の全ては魂に刻まれていて、死後に全人生を振り返る時が訪れます。

言動の1つ1つに、自然法則が働いて、相応の結果がもたらされます。

言動の元になっているのは、魂から生まれている想い(思念)であり、その1つ1つにも、自然法則は働いて、相応の結果をもたらすことになります。



想いには、自然法則に適った想いと、反した想いがあります。

自然法則に適った想いとは、神の心を表現しようとする想いであり、一言で表現すれば愛です。

愛を表現することで、全体が進歩し、調和が生み出されます。

自然法則に反する想いとは、愛に反する想いです。

愛に反する想いを表現すると、進歩が停滞し、調和が乱されます。

愛に反する想いとは、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬などであり、人生で起こる出来事を認めたり、許したりすることが出来なかったために生じています。

しかし、表に出してしまうと外部との調和が乱されるので、精神(自我)の力で、その場で抑え込んでしまう時が多いと思われます。



抑え込んだ想いが溜まると、身体に良くないのを本能的に知っているので、早く外に出そうとします。

俗に言う、ストレス解消とは、内に溜まった想いを外に出す作業と考えられます。

運動したり、趣味に没頭したりすると、溜った想いが別の肉体的表現と共に、外に排出されると考えられます

何かを夢中になってしている時は、魂から精神そして肉体へと、間断なく(生命)力が流れているために、滞った想いが同時に外に出されると考えられます。

川に淀んだところがあっても、上流に雨が降り、水が勢いよく流れれば、一緒に押し流されてしまいますが、それと同じです。



肉体的表現をすることで、想いを外に出そうとする行為は日常的に見られます。

昼下がりのレストランに行くと女性の客が、途切れることなくしゃべり続けている光景を目にしますが、人に伝えたいことが、たくさんあると言うよりも、吐き出したい想いがたくさんあり、しゃべり続けていると思う時があります。

仕事帰りに同僚と酒を飲みに行く男性は多いのですが、職場で溜まった想いを、酒の力を借りて、吐き出し合っていると思います。

吐き出してすっきりするは、想いは内に溜めてはいけないからだと思います。

想いは、肉体的表現の元となる力であり、外に向かって表現され発散されるべきものと考えられます。



溜まった想いが弱いものであれば、自力で外に出すことは可能です。

しかし、強い想いであれば、ストレス解消と言われるようなもので、外に出すことは出来ません。

残念なことに、多くの人は精神(自我)が優位になり生きているので、溜まっている想いに気付くことが出来ません。



生きるための力(生命力)の源泉は神であり、それを魂が受け取っていて、精神で肉体を動かす指令に変換され、肉体が動いて、外に向かって表現されて完結していると考えられます。
(神→魂→精神→肉体の順に力が流れて、肉体により表現されることで外に放散される)

しかし、魂で生まれた想いが、精神(自我)でブロックされてしまうと、内部に想いが溜まってしまうと考えられます。
(神→魂→精神で止まってしまっていまい、想いと言う力が内部に蓄積されてしまう)

滞っている想いがあると、自分本来の想いを表現しようとする力の流れを、妨げてしまうと考えられます。
(神➡魂➡精神→肉体)
     想い

内部に溜まった想いにより、本来の自分の想いが外に表現されない状態が続くと、因果律の働きにより、溜まった想いが内部を変化させる力に変わると考えられます。
(神→魂→精神
      想い→肉体の変化(病気) )



自然法則に反した強い想いが溜まっていると、自分本来の想いを表現できなくなるために、予定されていた人生のシナリオに沿った、魂の成長が出来なくなると考えられます。

自分(魂)を成長させることが、この世に生まれてきた目的なので、どうにかして溜まった想いを解放させなければいけません。

自分で気付かず、自力で解放できないほどの想いであれば、因果律の働きにより、心身の病変や機能障害となって外部に現れ、五感で認識されるようになると考えられます。

つまり、不治の病とは霊的次元に原因がある病気で、肉体の変化(病態)は表現できなかった想いの反映と考えられます。



病気には苦痛が伴います。

苦痛は異変があることを自覚させるものであり、多くの人は医者の力を借りて、異変を見つけ出して、肉体上からなくそうとします。

しかし、医者は肉体上の異変を診断し、取り除き、身体的症状を緩和する治療に終始するだけであり、霊的な原因を解消しない限り、根本的な治癒は望めません。

霊的な病気は、意味もなく人を苦しめるためにあるのではありません。

内にある想い、魂のありさまの変化に気付くために生じていると考えられます。

病気の苦痛には、魂を目覚めさせるという大きな目的があり、目覚めるとそれまで自分を支配していた自我(エゴ)が自壊すると思われます。

そして、自我(エゴ)によって隠されていた、自分の想いに気付くことになると思います。



よって、霊的な病気は、自我(エゴ)に隠されていた自分の想いに気付くためにあり、自我(エゴ)と言う障壁がなくなり、心が鎮まった時に、外に現れてくると考えられます。

現れてきた想いは、言葉で表現できない、自分の成長を妨げていた想いです。

けれども、肉体のことばかりに目を向けていると、内面に意識が向かず、表に出てきた想いに気付けなくなってしまいます。

また、病気に怯えていると、不安や恐怖が想いを覆い隠してしまいます。



霊的な病気を治すための第一歩は、自分の内にある想いに気付くことだと思います。

ガンの患者さんであれば、怒りや憎しみや恨みなど、他者を攻撃して壊そうとする衝動を生み出す想いかもしれません。

膠原病の患者さんであれば、自分を責める、卑下してしまう想いかもしれません。

うつ病の患者さんであれば、不安や恐怖、萎縮させ行動を抑制させる想いかもしれません。

注意しなければいけないのは、内に隠されていた想いが表に出てきた時に、病気になって生じた想いと混同することです。

膠原病になれば、人に迷惑をかけてしまうので、自分を責めてしまいがちになりますが、過去に自分を責めてしまうような強い想いが生じていて、それが外に出て来ているだけかもしれないのです。



ヒーリングは、滞った想いを引きはがし、解放させる生命力です。

しかし、魂が成長していなければ、滞っている想いと親和性が強いために、ヒーリングをしても解放することができないと思われます。

病気を心から受け入れ、苦痛により魂が成長し、想いが親和性を失ったならば、内面的な異物となり解放されるはずです。

想いを生じさせた出来事を、許すことが出来るほど魂が成長したならば、解放されるはずです。

魂が成長して、愛で満たされているならば、想いは親和性を失い、解放されるはずです。

神の愛が円滑に流れて表現できるようになったのであれば、病気の存在意義はなくなり、肉体上の病変や機能異常は消失するはずです。

我を忘れて、愛を表現することを続けていたなら、滞っていた想いは解放され、それに伴って肉体上の病気も消失するはずです。



人や社会のために、何かを夢中にしていると、生命力がふんだんに魂に流れ込むと思います。

その時に、魂から生じる想いも、愛を帯びていると思います。

愛を帯びた生命力の大きな流れは、魂に癒着した想いを引きはがして、外に出すと考えられます。

愛の表現は魂を成長させ、想いは親和性を失って、解放されると考えられます。



過去にどうしても許せなかった、受け入れることが出来なかった出来事があり、そこから自分の成長を妨げる想いが生じていて、その想いに気付くために、病気になったのであれば、許せなかった出来事を許し、受け入れられなかった出来事を受け入れたなら、その想いは存在理由を失い、解放されるはずです。

解放するためには、魂の成長が必要であり、病気になり苦痛を経験する必要があったと思われます。

成長とは、より高く、大きい愛を表現できるようになることであり、神の摂理に反する想いが生まれなくなって行く過程のことです。

魂の成長の一過程として、病気が存在します。

霊的次元の想いを解放するための触媒が、(今生に原因がある)不治の病の正体であり、自分本来の想いを表現するためにあると考えられます。

医学では治せませんが、治らない病気ではありません。    《続く》









2016年10月16日日曜日

不治の病について その1


自分とは何でしょう?

鏡に映る肉体が、自分なのでしょうか?

そうではない、目に見えない精神こそが自分だと言う人もいるでしょう。



実際は、精神よりも高次に魂(霊)が存在しています。

人は魂(霊)と精神と肉体から構成されています。

多くの人は死んで肉体を失ってから真実を知りますが、本当の自分とは精神と肉体を支配している魂です。



霊的真理では、すべての事象に偶然はなく、必ず原因があると言っています。

全ての病気にも、当然のことながら原因があるということになります。

もし、病気の原因が判らなければ、最先端の医学をもってしても根本的に治すことはできません。



魂(霊)、精神、肉体、それぞれの次元に、病気の原因があると考えられます。

例えば、感染症は細菌やウィルスなど肉体(物質)的次元に原因がある病気です。

肉体的次元の病気の原因は、医学的検査で確認できるので、それを取り除けさえすれな、治癒する可能性は高いと思われます。

精神的次元に原因がある病気として、うつ病やストレス性胃潰瘍などがあります。

うつ病に対して薬を飲んでも、精神ではなく肉体(脳)に作用するだけであり、症状は軽くなっても、治癒は望めません。

また胃潰瘍で病変を切除しても、原因がそのままであれば再発の可能性があります。

精神的次元に原因がある病気の多くのは、ストレスがなくなれば自然治癒力により快方に向かうと思われます。

現代医学により、肉体的次元の病気を根本的に治癒させることが可能ですが、精神的次元の病気は原因が同定されにくいので、治癒させるのが困難と思われます。



霊的次元に原因がある病気はどうでしょうか?

医学は、霊の存在を完全に否定しています。

世界中で人々を苦しめているガンや膠原病などの原因は、以前として不明のままであり、対処療法に終始しています。

その理由は、霊的次元に根本原因があり、現代医学の対象外だからです。



人の本質は不滅の魂であり、この世の前にも生があり、この世の後にも生は続きます。

霊的次元の病気には、この世で原因が生じたものと、生まれる前に原因が生じたものに分けられると考えられます。

生まれる前に原因が生じたものとして、過去世において神の摂理に反した想いを強く抱いたり、過ちとなる行いがあったと考えられます。

その償いとして、この世で病気になることを承知して、生まれてくることがあります。

過去世に原因があった場合は、罪の償いが終わった時点で、病気の役割は終わり、治癒に向かうと思われます。

また、さらなる魂の成長を望んで、あえて病気になる人生を選ぶ場合もあります。

そして、この世からあの世に移るために、決められていた時期に病気になる人もいると思います。

いづれにしても、生まれる前に自分自身で決めていたと思われます。

同じ病気でも、霊的次元の原因は人によって異なりますが、それぞれに明確な目的があるのは確かです。




この世で原因が生じた人には、過去に起きた出来事が深くかかわっていると思われます。

過去に起きた出来事から、さまざまな想いが生まれていて、それが根本原因になっていることが、多いと考えています。



人は悲しくなったら涙が出て、喜びを感じたら笑顔となります。

魂から生じた想いは、精神を経由して、肉体で表現されています。

それが無意識に繰り返され、日々を過ごしています。

しかし、この世ではいつでも自分の想いを表現できる訳ではなく、つらい出来事が起きても、想いを押し留めて、外に表さない時もあります。



子供の頃は、心(魂)が傷つきやすいと言われます。

それは、「自我」と言う自分(魂)を守っている精神の鎧が、まだ脆弱だからと考えられます。

幸いにして、子供は守られる立場にいるので、傷つけようとする人はあまりいません。



大人の場合は、自我が発達し、自分を守ろうとしているため、子供より深く傷つくことは少ないと思われます。

傷つけられ、魂から想いが生じたとしても、怒りや悲しみなどの感情となり、言葉や行動にして、外に表現することで解放していると思います。

しかし、子供は自分を守ろうとする自我が発達していないために、無防備であり、容易に傷ついてしまうと考えられます。

そして、幼なければ想いが生じても、上手く言葉や行動で表現して、外に解放することができません。

想いは表現されずに、心の中に滞ってしまいます。



もし、子供を守るためにいる親が、自我が形成されていない子供に対して、傷つける言動をしていたらどうでしょう?

その傷は、とても深いところまで達し、強い想いが生じていると考えられます。



この世では、想いは五感に触れるものではありません。

しかし、霊的次元では実在そのものです。

一種の力です。

その力が、肉体で表現する力に変換されています。

表現されて、外に出されない限り、想いはなくなりません。

肉体で表現されるべき力が、残っていることになります。



表現されない想いが徐々に溜まって、大きくなってしまうと、その人の生き方や考え方に、影響を与えいると考えられます。

本当はやりたいのに、ためらってしまうことがあれば、心の中に何らかの想いがあるためだと思います。

人に優しくしてやりたいのに、なぜか出来ないのは、それを妨げている想いがあるからだと思います。



この世に生まれて来たのは、魂(自分)を成長させるためです。

そして、人生にはおよそのシナリオがあり、それに沿って生きれば、予定通りの魂の成長が得られると考えられます。

魂の成長は、困難や障害を乗り越えて行くこと、人や社会に奉仕することで得られます。



しかし、魂を成長させる機会がシナリオに従って訪れても、妨げる想いが溜まっていると、自分の気持ちに反して、出来なくなってしまいます。

そうなると、予定されていた魂の成長が得られなくなってしまい、生まれて来た意味が成就されなくなってしまいます。

想いが溜まっているのは、霊的にとても大きな問題と考えられます。

しかし、そんな想いがあるなど、ほとんどの人は気付くことはありません。



肉体は魂を表現する媒体です。

表現できなかった過去の想いは、肉体上で別のかたちとなって表現される時があると思われます。

成長を妨げている想いに気付くために、神の摂理である因果律が働き、肉体上に病変や機能異常となって現れることがあります。



もし、憎しみや恨みの想いの沸き上がったなら、人はどう行動するでしょう?

相手を攻撃したりすることもあると思いますが、多くの人は、神の摂理に反するので、良心により思いとどまります。

もし実行してしまったら、因果律の働きにより、苦痛を伴う出来事になって自分に戻ってきてしまいます。

良心により思いとどまり、表現できなかった想いは、肉体を変化させる力になり得ると考えられます。

ガンは、周りの組織を破壊しながら増大していく病気です。

自己との協調や調和がなく、破壊的で、攻撃的な組織です。

表現できなかった想いは、肉体上の病態となり表現されていると思われます。

きっかけとなる出来事があって破壊的で攻撃的な言葉にならない想いが生じ、その後、それを想起させる出来事を経験しながら、その想いが次第に増大していったと思われます。



膠原病は、自己を守るためにある免疫機能が、自己を外敵と誤った認識して攻撃してしまう病気です。

自分(魂)を守るためにある自我が、自分を攻撃している、魂の様相を表現していると思われます。

自分で自分を責める想いが生じ続けているために、肉体上で自己を自己が責める病態となって表現されていると思われます。



霊的次元に原因がある病気の人の中には、子供の時に、魂にまで及ぶ深刻な出来事があった可能性があります。

そんな出来事が思い当たらないとしたら、日常的に想いを生じさせるような生活を送っていた可能性があります。



日々の関係の中で、抵抗する想い、自分を責める想い、生きるのを否定する想いが生じていたのに、幼いために表現できずに、押し殺して生きてきたのかもしれません。

伝えたいことが有り余るほどあったのに、伝えられなかったのかもしれません。

どうしても自分の想いを知ってもらいたかったのに、知ってもらえなかったのかもしれません。

絶対にやめて欲しいことがあったのに、それに気付いてもらえなかったのかもしれません。

大小の想いが、少しずつ溜まって行き、徐々に大きくなって行ったと思います。

気付かずに大きくなり、その後の人生に影響を与えていて、魂の成長を妨げていたと考えられます。



自分では想いに気付けないので、因果律の働きで、気付くかたちとなって現れたものが、霊的な病気と考えられます。

霊的な病気になったのであれば、想いに気付き、解放する時期が来ている可能性があります。



不治の病とは治らない病ではなく、医学で原因が掴めていない病であり、そのほとんどに霊的な原因が存在すると思います。

今生での原因とは、過去に生じていた、表現されなかった想いと考えられます。   《続く》



2016年10月2日日曜日

天国に1番近い場所  ~御巣鷹の尾根に立って~



9月25日は天気が良かったので、一人でドライブに出かけました。

ドライブをしている時は、日常の雑事を忘れて無心になれるので好きです。

自宅から1時間も走れば、とても静かな山深い場所まで行けます。



その日は、ねぎとこんにゃくで有名な下仁田という小さな町を抜けて、日本一高齢化率が高い南牧村を通り過ぎ、さらに峠を1つ越えて上野村に向かいました。

群馬県上野村は、稜線から日が出るのが10時頃で、4時頃には日が沈むような、ぐるっと周囲を山に囲まれた、人口が千数百人の緑豊かな山村です。



ご存じの人も多いと思いますが、上野村は31年前に日航ジャンボ機が墜落した場所です。

この事故で、520名の人が亡くなりました。

31年前、私は歯科学生であり、歯科医の父親に同伴して、ご遺体の身元確認作業を手伝いました。

その時の記憶は、今も鮮明に残っています。

そんないきさつがあり、いつかは御巣鷹の尾根に登ってみたいと思っていました。

御巣鷹の尾根は、上野村の集落がある場所から、十数Km山に入ったところにありますが、思い切って行くことにしました。



事故当時の尾根の様子は凄惨を極め、墜落の衝撃で木々はなぎ倒されて、山肌がむき出しになり、機体が山の斜面に、ばらばらに散乱していました。

そこで、一瞬にして520名の魂(霊)が肉体を失いました。

あまりに突然の出来事で、何が起きたのか判らずに、事故現場に留まっていた魂(霊)も、多かったと思います。

もしかしたら今でも、そんな魂がいるのではないかと、ふと考えてしまいました。



一本道をしばらく走っていると、道は行き止まりになっていて、駐車場がありました。

そこに車を留めて降りると、奥の方に登山道の入り口があるのを見つけました。

入り口には、貸し出し用の杖が何十本も置いてあり、温かな心遣いを感じました。

登山道は階段状に整備されていて、ゴミひとつ落ちていません。



渓流沿いに道が作られていましたが、流れている水は透き通っていて、本当に綺麗でした。

河のせせらぎを聴きながら山道を登って行くと、道端に石碑が目に留まりました。

その一文に「なにか流れが私達にかたりかけ、登山を励ましてくれているような気がしました」と、書かれていましたが、私も同じように感じました。

思っていたよりも急な箇所もあり、年配の人や身体が不自由な人には厳しいと感じました。

年を取られて慰霊登山が難しくなり、代わりに子供や孫に行ってもらう人が多くなってきているようです。



道は途中から急になり、富士登山道のようなつづら折りになりましたが、脇に目をやると木の札が置いてあり、そこに名前が書かれています。

良く見るとそれは墓標で、この場所でご遺体が見つかったのであり、今、墜落現場の上にいることを実感しました。

周囲には背の高い木々が生い茂っていて、事故からの年月の長さを感じました。



そこから少し登って行くと急に視界が開け、周囲の山々が見えました。

広さ20畳ほどが平らに整地され、いくつかのベンチも置いてあります。

右手上を見ると「昇魂の碑」が見えましたので、ようやく目的地に到着です。



あの凄惨な現場を思い出すようなものは、一切見当たりません。

その場所に立ち、恐怖や悲しみを感じさせるものは、全くありませんでした。

ご遺族には、大変失礼な言い方かもしれませんが、ただ清々しさを感じました。

天気も良かったのですが、とても明るい場所だったのです。

山の奥深くにあり、俗世間とは切り離されていますが、入り口からこの尾根まで、何かに清められている感じがしました。

ここは、多く命が絶たれた事故現場と言うよりも、この世の想いとあの世の想いが交わる、聖地のように、私には思えました。

何十年も、この場所で強い想いが交わることにより浄化されて、現世利益を願う人が集う神社仏閣よりも、はるかに神聖な場所のように思いました。



ご遺族の方は、この場所に立ち何を想っているのでしょうか。

「逢いに来たよ」と、声をかけている人が多いようです。

その想いに、亡くなった人の魂は引き付けられないわけがありません。

この場所で亡くなった人の魂と、ご遺族の魂が、触れ合っていると思いました。

聖別された空間なので、亡くなった人の想いを、どこよりも感じることができるのかもしれません。



当然のことながら、事故から数年の間は、この場所には涙が絶えなかったと思います。

あまりの理不尽さに、怒りや悔しさや嘆きをぶつけてしまう人も、たくさんいたと思います。

その日まで元気に生活していた人が、突然いなくなってしまうのですから、当然です。

 内に溜まっていた、言葉では言い表せない想いを、涙にして、ここに出しに来る人も多かったでしょう。

想いが清められ、そして鎮められて、心が楽になった人もいたでしょう。

そんな見えない愛の力が、この場所には降り注いでいるような気がしました。

言い尽くせぬ想いを伝えて、そのお返しにあの世からの見えない力(愛)をもらって、元気になって山を下りて行った人もたくさんいるのではないでしょうか。



愛する人は見えないかたちとなり、生きているのですが、この世の人は五感を頼りに生きているので、いなくなってしまったと錯覚してしまいます。

見えなくなったのは事実ですが、いなくなったわけではありません。

事実誤認をしている限り、悲しみや苦しみが変わることはないのかもしれません。



愛情で結ばれていない人が亡くなったとしても、深い悲しみが生じることはありません。

そう考えると、悲しみとは、行き場を失い、かたちを変えた愛なのかもしれません。

悲しみがかたちを変えた愛ならば、見えない人の存在を信じ、愛せるようになったのなら、その分、悲しみが少なくなるのかもしれません。

愛が悲しみに変わるのであれば、悲しみが愛に変わってもおかしくありません。



今は、ご遺族の方々に、かつてのような深い悲しみはないようです。

31年の時が流れが、あの時の記憶や想いを薄れさせただけではないはずです。

引き裂かれた悲しみ、身悶えるような苦しみの日々は、魂を大きく成長させていたのは、間違いありません。

魂の成長と共に、深い悲しみが、高い次元の愛に昇華していったのかもしれないと思いました。



昇魂の碑のすぐそばに、写真や手紙など、ご遺族が持ってこられた品々が収められている小屋がありました。

中に入ると、中学生のバレーボール地区大会で優勝した賞状が置いてありました。

ここに来て、いろいろな嬉しい、楽しい報告をしているようです。

報告を聞いて、亡くなった人はとても喜んでいるでしょう。

そんなうれしい報告をする人が今は多いので、この場所を明るく感じたのかもしれません。

待ちに待った再会を果たした人も、年月と共に増えているようです。



ご遺族にとってここは、愛する人がいる天国に、一番近い場所だと思いました。





参考ページ: 「その一瞬の時のために強く生き抜く」















2016年9月18日日曜日

魂を成長させる選択


数年前、私の友人は40代の若さで、奥さん(享年38歳)を亡くしました。

その時、周囲には涙1つ見せませんでした。

友人は、ミスが許されない仕事に従事していて、多忙を極めています。

歯の治療で、口の中を診ていますが、ストレスに満ちた生活をしているのが良く判ります。

中学生の子供が2人いて、家庭でも寛ぐ時間があまりないようです。

精神的にぎりぎりの状態で、1日1日をどうにか乗り越えて来ているように見えました。



奥さんが亡くなって数年後のある日、付き合っている女性がいると聞きました。

それを聞いて私は、子供たちのためにも、見守っている奥さんのためにも、もう少し一人で頑張って欲しかったと思いました。

そんなことを思う私に、「家庭を守ってくれる人がいて、癒やされないと身が持たない。普通の生活がしたい。」と、ポツリと言いました。

奥さんがいた日々は、とても楽しそうで、幸せを絵に描いたような家族でした。

料理を作るのが大好きな奥さんと、団らんしながら食事をすれば、激務の疲れはどこかに行ってしまっていたでしょう。

そんな日々から遠ざかって久しく、心身が悲鳴を上げていたのかもしれません。

返す言葉はありませんでした。



それからしばらくして、付き合っている女性の写真を見せてもらいました。

そっくりではありませんが、はにかんだ時の雰囲気が似ていて、その女性の中に奥さんの面影を見つけました。

彼女に家にいてもらいたいと思う気持ちが、少し理解できました。

友人の想いは私には判りませんが、奥さんを忘れてしまうはずなどなく、過ごした日々がとても懐かしく、もう1度、取り戻したいと思ったのかもしれません。

何とも言えない気持ちになりましたが、家に入って果たして上手く行くのだろうかと心配になりました。

たとえ姿形がそっくりであっても、人の本質である魂は、全く別ものです。

彼女に、奥さんを求めたとしても、それは無理です。

子供たちにとって彼女は赤の他人であり、お父さんの意識がそちらに向かってしまうのは、多感な時期なだけにとても気がかりです。



奥さんの命日は、彼の誕生日です。

亡くなった後に、私を通して奥さんが伝えてきたことは、「あなたはこの世で愛した、たった一人の人」であり、魂の存在など信じるような人間ではありませんが、その言葉を神妙に聞き入っていました。

自分のことを絶対に忘れて欲しくないと想っていると、その時は解釈しました。

しかし、どうやら違っていたようです。

亡くなる前に「誰かと一緒になっても良いよ」と、言ったと聞きました。

強がりで言っているのではなく、友人の幸せを願いながら、この世を去ったと思いました。

肉体のともしびが消える時に、余分なものは全て削ぎ落とされ、最も大切で、最も崇高なものだけが残るような気がします。

最後まで残ったものは、愛だと思います。

それ以外のものは、何もなかったと思います。



人が追い求めているものは、実はどうでも良いものが多いのかもしれません。

大切なものに気付かないまま、生きているような気がします。

ぎりぎりまで追い詰められないと、本当に大切なものは見えてこないのかもしれません。



人生の出来事の表面だけ見るならば、友人は奥さんを喪った不幸な人です。

しかし、文字と文字の間に小説家の意図が隠されているように、人生で起こる出来事の内面に、真実(真理)が隠されています。

真実が見えてこないのは、目に映る現実が全てだと思っているからです。

死んでしまえば、全て終わりと、錯覚しているからです。

生命とは魂であり、肉体の死の後にも、生命は連綿として続いています。



人は魂を成長させるために、生きています。

魂の成長は、困難や障害を乗り越えていく過程において、そして他者に愛を表現することで得られます。

そのことを念頭において、出来事を振り返ると、隠されている真実が見えてくるかもしれません。



もし、夜がなく、昼だけの世界だったら、光の意味、ありがたさは判りません。

光と闇、愛と憎しみ・・・ この世は比較対照するものがあるので、大切なものが浮かび上がってきます。

争いや病気、別れなど、この世でしか経験できないことを通して、大切なものに気付きます。

楽しいだけの人生だったら、気付くことはなく、魂は成長しません。

それゆえに、苦しみや悲しみを伴うような出来事が、人生で必ず起きるようになっています。



奈落の底に突き落とされるような出来事が起こり、暗闇の底にいる時に、人はどうにかしてそこから逃れようとします。

手さぐりをしながら何かを探し、ふと手に触れたものを、思わず掴みます。

それを力いっぱい引っ張ってみて、しっかりとしているものなのかどうかを確かめます。

びくともしないものであれば、全体重を委ねて、手繰り寄せながら、必死に這い上がって行きます。

その堅牢なロープのようなものが、隠された真実だと思います。

暗闇の底から、這い上がった時に見えるのは、前よりも生命の輝きに満ちた世界です。



真に豊かな人とは、人生でさまざまな経験をして、いくつもの真実を身に付けている人です。

目に見える財産は、死と共に消えてなくなりますが、忘れがたい経験を通してに身に付けた真実は、魂を光り輝かせる永遠の財産となります。

より多くの真実を身に付けながら、魂を成長させるために、この世に生まれて来ています。

奥さんを喪う経験を通して、友人の魂は大きく成長し、最も大切な真実を身に付けたのかもしれません。



少し前のことですが、友人から、彼女が妊娠したと聞かされました。

あまりに性急に事が進むので、子供たちのことが気がかりですが、新しい家族の誕生を祝福したいと思います。

あの世で見守る奥さんは、どう思っているのでしょうか?

友人の将来を心配していたので、嫉妬や失望などはないと考えられますが、子供たちが悲しんだり、寂しい思いをすることがないように願っていると思います。

もしかしたら、好みの料理を作ってやるように、彼女にインスピレーションを送っているのかもしれません。

ちょっと寂しい想いをしているでしょうが、大きな愛で、家族を導いているような気がします。



友人は、家庭で癒され、雑事から解放されて、仕事に集中できるようになるかもしれませんが、より多くの愛情を求められ、それに応えながら、生きて行かなければなりません。

家庭内の人間関係では、だいぶ苦労するでしょう。

友人は、楽になろうとして、より困難な人生を歩もうとしているように見えます。

魂をより成長させる選択を、知らずにしているように思えてなりません。













2016年9月4日日曜日

自分の想いに責任を持つ


人は、悲しければ泣き、腹が立てば怒り、うれしければ笑顔になります。

その源となる想いは、頭脳の働きによる産物ではなく、人間の本質である魂から生じています。

魂は、想いという無音の声を発していると言えます。



想いは無音なので、この世では耳で聴くことはできません。

しかし、あの世(霊的次元)では、魂に直接伝わります。

テレパシーの世界と言っても良いと思いますので、この世の人の想いは、声に出さなくても、あの世の人に知れています。



しかし、あの世の人の想いは、この世の人にはとても伝わりにくくなっています。

私たちは、耳から入る音声に頼り切っていて、しかも、1日中、雑音に囲まれているので、向こうから届く想いのほとんどは、かき消されています。

それ以前に、多くの人は言葉を介さず伝え合えるなどあり得ないと思っているので、たとえ想いが伝わって来たとしても、空耳や気のせいにしています。



そんなこの世の人でも、言葉を超えたコミュニケーションをしている時があります。

気心の知れた人が、何を思っているのか判る瞬間があると思います。

赤ちゃんとお母さんの間でも、言葉を超えたコミュニケーションが行われていると思います。

人間と親密な動物の間でも、種を超えたコミュニケーションは成立していると思います。



人は、想いを発信していると同時に、想いを受信しているトランシーバーのようなものです。

しかし、発せられる全ての想いを受信しているわけではありません。

トランシーバーの周波数が違えば受信できないように、人の想いも波長が違えば受け取ることは出来ません。

それぞれの想いに、それぞれの波長のようなものがあると思われます。



怒りの想いを発している人には、怒りの想いを持っている人が同調します。

怒りや憎しみの想いで同調した人は、お互いに引き付け合います。

怒りや憎しみの想いで同調した人が、引き付け合い集まったのがテロ組織の実体であり、攻撃的で暴力的な行為によって、内にある想いを具現化しています。



愛する想いを発している人には、同じ想いを持っている人が同調します。

マザー・テレサが設立した「死を待つ人々の家」には、彼女の想いに同調した人が世界中から集まって来ます。

平和と自由を願っていたマハトマ・ガンディーには、その願いに同調する人たちが集まり、植民地支配からの解放を、非暴力で具現化しました。



言葉や行動に移さなければ、何を思っても、考えても自由と思っている人がいますが、それは大きな間違いであり、霊的な世界に影響を与えています。

自分の想いは、霊的次元に放たれていて、その想いを受け取り、同調する人(魂)がいます。

想いは人(魂)に影響を与えていて、具現化する力を秘めていることを、常に意識しなければいけません。

怒っている人、憎んでいる人、恨んでる人の想いは、霊的な世界から見ると、光となり顕在化しています。

その想いに同調する魂を引き付けてしまい、お互いの想いを増幅させて、行動に移してしまった人が、昨今の事件を見るとたくさんいると思います。



目に見えませんが、人の周囲には光(オーラ)が取り囲んでいて、それは想いという力が、魂から外に向かって放散されている現象と言えます。

この世の人でもオーラが視える人は、その人がどんな想いを抱いているのかが判ります。

また、何となく、そばに近づきたくない人がいると思いますが、その人から放たれているオーラの中に入ると、良くない影響を受けてしまうのを(魂が)察知しているためかもしれません。

目に見えなくても、想いは自分そのものと考えて良いと思います。

自分の実体を表していますので、どんなに整った顔立ちをしていても、醜い想いを抱いている人の実体は醜く、どんなに醜い顔をしていても、やさしさや思いやりを抱いている人の実体は美しいと思います。



この世では想い(本心)は隠せますが、霊的な世界では、肉体はないため、あらわになってしまいます。

この世では想ったことと言動が一致しない場合がありますが、霊的な世界では想ったことは直ちに具現化し周囲に知れてしまいます。

正直に、ありのままに生きなければいけないのは、道徳的なもの以上に、あの世に行ってから、見られたくない自分を見られて、恥ずかしい思いをしないためでもあります。



どんなことを想っても、考えても自由です。

しかし、自由には責任が伴います。

想いにも、自然法則(神の摂理)が働いていて、その責任は自分で取らなければいけません。



神の摂理は、愛に貫かれています。

自然法則を通して、愛を表現する方向に向かわせています。

人に親切にしたり、社会に役立つことをすると悦びを感じるのは、神の摂理に適った行いだからです。

その悦びを味わいたいために、また愛を表現して行くようになります。



怒りや憎しみや恨みや嫉妬などの想いを抱き、それを外に表現してしまえば、暴力的、攻撃的なものとなり、外部との調和が失われてしまいます。

その結果、争いが生じてしまうかもしれません。

もし、外に表現しなければ内部に溜まり、内部(心身)の調和が失われて行きます。

その結果、病気になってしまうかもしれません。

どちらにせよ苦痛を経験しなければいけませんが、それは神の摂理に反した自分の想いを正すためです。



けれども、自分自身で想いを認識しているとは限りません。

日常生活において、頭を活発に働かす生活を強いられているので、さまざまな出来事により想いが生じていても、気付かないまま内に溜まっていることが多いと思います。

それほど強くない想いであれば、ストレス解消や休息により、解放されるでしょう。

しかし、強い想いであれば解放されずに、少なからず後の人生に影響を与えていると考えられます。

俗に言うトラウマは、強い想いが解放されていない状態を指すと思います。

トラウマを解消するためには、生じさせた出来事に気付き、そして許し、その時の自分を心から愛さなければいけません。



想いは絶えず生まれていますが、頭脳による思考と区別がつかなくなっています。

思考を一時停止し、頭の中を空っぽにすれば、自分の想いが顕在化し認識できると思います。

もし、訳もなく興奮したり、落ち着かなくなったり、苦しくなったりするのであれば、それは意識しないところで何らかの想いが生じているためかもしれません。

何もないのに、イライラしたり、怒りっぽくなるのであれば、過去に生じていた怒りの想いがあるためかもしれません。

理由もなく涙が出るのであれば、過去に生じた悲しみの想いが滞っているためかもしれません。

表現されなかった過去の想いが、想起させる出来事により顕在化し、時を経て表現されていると思います。



想いは、肉体的表現の元となる、魂から生まれる力です。

活動や変化を起こす霊的なエネルギーです。

自分の想いに気付かなければいけないのは、想いが常に先行して人生を形作っていくからです。

そして、想いにも神の摂理が常に働いているからです。



神の摂理は、私たちに愛の想いを表現させようとしています。

この世でさまざまな経験をしなければいけないのは、愛に反する想いを、苦痛を通して、愛の想いに変えて、魂を成長させるためと考えられます。

























2016年8月21日日曜日

人にしてはいけないことは、自分にもしてはいけない



先日、中学の同窓会に行きました。

久しぶりに見る顔ばかりで、若き日の思い出話に花が咲いて、楽しい時間を過ごしました。

話をしていると、あることに気付きました。

自分は言われたことは覚えているのに、言った本人はすっかり忘れていることが多いのです。

中学時代は多感な時期なので、人から言われた言葉に傷つき易かったように思います。

お前から、こんなひどいことを言われてショックだったと伝えても、「えっ、そんなこと言ったっけ」とすっかり忘れているのには驚きました。

そう考えると、覚えていないだけで、何気なく言った言葉で人を傷つけてしまったことが、私にもたくさんありそうです。



人から傷つけられたくはありませんので、人も傷つけたくはありません。

もし、傷つけてしまったら、良心の呵責が生じてしまいます。

良心とは、何だろうと思います。

実は、本当の自分である魂に宿っている、神のモニター(監視装置)言われています。

全ての言動、そして想いにも、目に見えない自然法則(神の摂理)が働いています。

この世の法律に触れなくても、自然法則に反した行いをしたならば、その責任を取らなければいけません。

良心を無視して人を傷つけてしまえば、他の人に判らなかったとしても魂に刻まれてしまい、因果律の働きにより、相応の苦痛がもたらされます。

人を傷つける悲惨な出来事が、毎日のように起こっていますが、無知とは恐ろしいと感じざるを得ません。



日常生活の中でも、人を傷つけてしまう恐れがある出来事に遭遇します。

もし、人が失敗したり、期待していた結果を出せなかったり、迷惑をかけてしまった場合、どうするでしょうか?

注意をしたり、反省を促したりするでしょうが、それでは甘いと考え、叱責する人も多くいるでしょう。

叱責するにも、動機はさまざまです。

その人のためを思って叱責する人もいれば、自分の立場を誇示するためや、単に怒りの感情をぶつけているだけの人もいます。



その人のために叱責するのであれば、相手は傷つかずに成長につながり、それは摂理(愛)に適った行いであり、自らの成長にもつながります。

しかし、自分本位に叱責すると、時に相手を傷つけ、成長を妨げてしまう可能性があります。

もし、傷つければ、その責任を取らなければならず、自らの成長も妨げられてしまいます。

叱責する行為そのものではなく、叱責する動機に、神の摂理が働いています。



ところで、自分が失敗をしたり、結果を出せなかったり、あるいは人に迷惑をかけてしまったらどうするでしょうか?

責任を強く感じる人もいれば、そうでない人もいます。

中には、自分を絶対に許せない人がいます。

そんな人は心の中で、「本当に自分はどうしようもない」とか「だめなやつ」と、叫んでいるかもしれません。

すると、人から言われた訳でもないのに、落ち込んだり、苦しくなってしまうような気がします。

心の中で言って、苦しくなるのはどうしてなのでしょうか。



私たちは、肉体を携えた魂です。

死んでお終いなのは肉体であり、魂は生き続けています。

小さな時は、本当の自分で生きていますが、大きくなるに従い、もう一人の自分を作り始めます。

それをエゴと呼ぶ人も多いのですが、私は「この世を生きる自分」と表現しています。

この世を生きていくのに都合の良いように、支障のないように、学習しながら、もう一人の作り上げて行きます。

愛想笑いをしたり、お世辞を言ったり、強がりを言ったりするのは、この世を上手く生きようとしている自分がいるからです。

本音を隠すとは、この世を生きる自分が、本当の自分の想いをブロックしている状態です。



この世を生きる自分が壁のように、本当の自分(魂)の外側に築き上げられて行きます。

この世界と接触するインターフェイスであり、本当の自分(魂)を守る役目もあるのですが、あまりに強固になると、本当の自分が前面に出るのを妨げてしまいます。

魂から生じている本当の想いを、遮ってしまっていると考えられます。



多くの人は、本当の自分と、この世を生きる自分の、せめぎ合いの中で生きています。

しかし、上手く生きることばかりに捉われていると、本当の自分が表に出る機会がなくなり、奥に引っ込んでしまいます。

頭を使って賢く生ようとすればするほど、本当の自分が埋没して行きます。

そんな生き方を長い間続けてしまうと、作り上げられた自分が、自分だと錯覚してしまうかもしれません。



自分を責めてしまうのは、この世を生きる自分が、本当の自分に向かって責めている状態です。

そのために、自責の念が生まれ、苦しんでしまいます。

人から責められているのと、全く同じことが、自分自身の中で起きています。



この世を生きる自分が大きくなると、自分を責める気持ちも強くなり、苦しみも大きくなってしまいます。

自分を責め立てるのは、深く反省をして、罪が軽減されるようにも感じられますが、本当の自分(魂)に、責任を押し付けているようなものです。

他人から責められているのと全く同じであり、自分を苦しめてしまうことになります。

もし、苦しんでいるのであれば、それは自分を責めているためと思われます。



人を責め続けたとしたら、心身の調和が失われてしまい、病気になってしまうかもしれません。

それと同じで、自分を責め続けたら、病気になってもおかしくはありません。

容赦なく自分を責め続けると、本当の自分(魂)が傷つけられ、容易に立ち直れなくなってしまいます。

人を傷つけるのが許されないように、自分自身を傷つけるのも許されません。



失敗をしない人は、この世に生まれて来ません。

失敗しながら、学んで行くのが、この世に生まれた人の務めです。

学んだことを次に活かせば良いのであり、自分を責めてはいけません。

もし、誰かに迷惑をかけてしまったのであれば心から謝罪をして、償う必要があれば誠心誠意するだけです。

結果責任は、どちらにせよ自分で取らなければいけないので、責める必要は全くありません。



人に言ってはいけない言葉を、自分に向けるのはやめましょう。

つぶやきであっても、自分(魂)に響いていることを忘れてはいけません。

思っただけでも、届いているので、注意しなければいけません。



神は、人にやさしくするのを、とても喜びます。

人にやさしくする人が、自分にやさしくしないのは、明らかに不自然です。

魂は自分であると同時に、神のものです。

神のものなので、全てが知れてしまいます。

だから、自分の魂にもやさしくしないと、神に知れて、苦しみが与えられてしまいます。



もしそうであれば、責任を感じてしまった時はどうすればいいのでしょう。

今までに、人にかけられて、救われた言葉を思い出して下さい。

あるいは、落ち込んでいる人のために、かけてあげたい言葉を探してみましょう。

救われた言葉や、かけてあげたい言葉を、自分にかけてやれば良いだけです。

そんな言葉を、自分(魂)に向けて素直にかけてやれば、気持ちは安らぎます。

繰り返しかけてやれば、とても落ち着き、前向きになれます。

人を励ましたり、慰めたりする言葉には、愛が込められています。

言葉をかけられて気持ちが安らぐのは、愛により魂が癒やされるからです。

それを自分に言葉をかけてやれば、魂が癒され、気持ちが安らぎます。

過去を変えることは出来ませんが、自分が進んで行く方向は変えられます。

自分にかける言葉で、苦しむ方向に行くのか、癒やされる方向に行くのかが決まります。

どちらが賢明な選択なのかは、明らかです。

精一杯やったのであれば、思い切り慰めてやりましょう。

立ち止まっているのなら、励ましまてやりましょう。

そうすれば、魂は生きる力を多く受り、前に進んで行けます。



物事が上手く行かなかったり、失敗してしまうのは、この世で起こるのは当然です。

この世は、想ったことが具現化しにくい、不完全な物質の世界です。

思い通りにいかない世界に、私たちは生きているのです。

失敗や挫折を経験しながら、成長して行くために、この世に生まれて来ています。

失敗や挫折から何かを学んで行くのが、生きる目的の1つになっています。

小さなことでも良いので、そこから何かを学ぶことが大切です。

責めてしまえば苦しくなるだけで、学ぶことが出来なくなります。



自分で自分を責めると、苦しくなるのは、摂理に反していることの証明です。

自分を責めてはいけないのは、人を責めてはいけないのと同じであり、良いところは何一つないどころか、過った行いです。

人に言われてうれしかった言葉を、内にいる本当の自分に向けて、心の中でささやいて下さい。



(この世を生きる)自分が認められない悔しさ、怒りから、本当の自分を責めることにつながります。

認めてもらおうとする気持ちが強いほど、認められないと自分を責める方向に向かいます。

認めてもらおうとするのは、この世を生きる自分であり、本当の自分ではありません。

本当の自分は、ありのままを表現するだけであり、どのように思われても気にしません。

つまり、自分を責めてしまうのは、本当の自分として生きていないからです。

本当の自分が主導権を握って生きれば、自分を責めてしまうことはありません。







2016年8月6日土曜日

この世を生きる意味  その2 



昔、私が東京に住んでいた若い頃の話です。

1989年、時代はバブル景気真っ盛りでした。

車を買おうと思い、駐車場を探しましたが、どこもいっぱいです。

家から少し歩いたところに、駐車場を見つけました。

とても大きな駐車場でしたが、個人の所有で、敷地内にある家から初老の女性が出てきて、話をしました。

1ヶ月の駐車料金を尋ねたところ、確か4万円くらいと言われました。

地方出身者である私は高いと感じると同時に、駐車場の台数分の収入が1ヶ月で入るのはすごいことだと思いました。



この駐車場の所有者の様に、土地があるだけで数百万円の月収がある人もいれば、大変な思いをしながら働いても、食べて行くのが精一杯の人もいます。

これと言った苦労もしないで一生を終える人もいれば、苦労が絶えることなく一生を終える人もいます。

長生きをする人もいれば、早死にをする人もいます。

両者を比べれば、前者が幸せな人で、後者が不幸せな人に思え、この世は、不公平で不平等に出来ているような気がしました。

今は、霊的な知識を得たので、そのように思わなくなりました。



人は、生まれて、生きて、死ぬだけの希薄な存在では、決してありません。

この世で終わりではなく、死の後にも人生は続いています。

そこで全てが清算され、この世での苦労は報われ、完璧な公正が保たれています。



本当の自分とは、鏡に映る身体ではありません。

目に見えない魂です。

目に見えなくても、愛が存在しているように、魂も存在しています。

愛は実感があるので信じられるけど、魂は実感がないので信じられないかもしれません。

けれども、愛の存在を信じられる人ならば、魂の存在も信じられるはずです。

なぜなら、愛は魂から生まれ、魂で感じ取るものだからです。



この世は、魂が肉体という媒体を使って、自己表現をしている世界です。

肉体は、鈍重で不完全な魂を表現する媒体であり、想いや概念の全てを伝えることは出来ません。

文字や言葉は、想いや概念を伝える代用品に過ぎません。

満天の星空を見て、その神秘性を表現する言葉は、どこにあるのでしょうか?

愛する人と会えた時の歓喜を、言葉で表現できるのでしょうか?

伝えたいことが、上手く伝えられないのが、この世の宿命だと思います。



死んだ後に行く世界は、自分の概念や想いは、そのまま相手に伝わります。

肉体と言う媒体を通さないために、伝える概念や想いに、齟齬(そご)は生じません。

全てが分かり合える、素晴らしい世界であるのは間違いありません。



しかし、人によっては良いことばかりではありません。

想ったことが、直ぐに相手に知れてしまいます。

この世では、表と裏、本音と建前がありますが、表と建前はなくなり、裏と本音だけになります。

そして、嘘が存在できません。

隠し立てが出来ず、ありのままが知られてしまいます。



肉体があれば、自分の想いを知られずに済みます。

相手に対して、強い憎しみの想いを抱いていても、顔では笑っていられます。

それが全く出来ない、真実の世界に、私たちは行かなければなりません。

想いを隠せない世界に行く前に、魂を成長させ、誰に知られても恥ずかしくない想いに、変えて行かなければなりません。



喜びの想いは笑顔となり、表に出すことはできます。

しかし、怒りや憎しみや恨みや嫉妬の想いは、表に出すと生きていく上で支障が出てしまうので、内に秘めてしまうことが多いです。

そんな想いが大きくなって行くと、徐々に魂のありさまを変えて行きます。

怒りの想いが溜まっていて、人にやさしく出来るでしょうか?

憎しみの想いが溜まっていて、人を思いやれるでしょうか?

人にやさしくしたり思いやりを表現するのは、神の摂理(愛)に適った行いであり、魂を向上させます。

人は魂を向上させるために生きているので、内に秘めた想いが大きくなってしまい、摂理に適った行いが出来なくなるのは、極めて深刻な問題です。

そのために、内に秘めた想いに因果律が働いて、肉体上に病気として表現される時があります。

苦痛は、愛に反する想いを抱くのが過ちであることに気付くためにあり、(想いを抱いていた)償いとしてあります。

魂が目覚め、内に秘めた想いが解放されて本来の自分を取り戻し、忘れかけていた愛を表現して、再び魂を成長させて行くために、病気になるのだと思います。



かと言って、怒りや憎しみの想いを、そのまま表に出してしまえば、どうなるのでしょうか?

攻撃的なものになってしまい、争いが起きて、お互いに傷つけ合うことになります。

世界には、言語、文化、宗教、人種が異なる、さまざまな人が共に暮らしています。

さまざまな相違がある上に、伝えたいことが上手く伝えられない世界にいるために、誤解やくい違
いが生まれ、それが怒りや憎しみになってしまうと、衝突や争いに発展してしまいます。

衝突や争いからは、精神的、肉体的苦痛が生まれます。

誰もがそんな苦痛など、味わいたくありません。



苦痛を味わないためには、どうすれば良いのでしょうか?

お互いを認め合い、許し合うしかありません。

認め合い、許し合うためには、自己犠牲が必要です。

自己犠牲とは、間接的な他者への愛の表現に他なりません。

争いを避けるためには、怒りや憎しみの想いを変えていかなければなりません。

苦痛を経験して、そのことを学んでいると思います。



この世は、肉体的、精神的苦痛を通して、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬、貪欲など、愛に反する想いを抱いたり、表現するのが過ちであることを気付くためにあると思います。

この世にしかない苦痛を通して、愛の大切さを学んでいます。



生きることの真相は、愛を知り、深く学び、そして表現して行くことにあると思います。

愛に反する想いを表現すれば苦痛が生まれ、愛の想いを表現すれば悦びが生まれるのは、神の摂理(自然法則)が、愛を表現する方向に向かうように、創られているからだと思います。

極めてシンプルな法則が支配していますが、この世は物質の世界なので、判り難くなっています。



多くの人が誤解していますが、死ねば直ぐに、魂が浄化されるわけではありません。

魂のありさまは、死ぬ前と、何1つ変わってはいません。

生前、愛の想いに溢れた人は、死後、美しい光を放つ魂となり、怒りや憎しみを抱いていた人は、醜い光を放つ魂となります。

肉眼はなくなり、霊的な目が開かれるので、周囲にいる人の想いが一目瞭然になります。

そして、自然法則の働きにより、親和性のある魂同士が、引き付けられます。

愛の想いを放っている魂には、同じような想いを放っている魂が引き付けられて集団を形成するので、必然的に、他者を思いやり、やさしさに溢れた世界となります。

怒りや憎しみの想いを放っている魂は、同じような想いを放っている魂が引き付けられて集団を形成するので、争いやいさかいを繰り返す世界となります。

ところが、そんな醜い世界にいても、周りには同類の魂しかおらず、この世のような苦痛が生じないので、そこから中々抜け出そうとはしません。

あの世は、過ちに気付きにくく、大切なことを学びにくい世界なので、この世にいるうちに、さまざまな出会いや出来事を通して学んでおく必要があると思われます。



人生でさまざまな出来事に遭遇しますが、その多くは生まれる前に承知していたようです。

意識には上がって来ませんが、魂の深いところでは、全て判っているはずです。

なぜ、そのことが判らないようになっているのでしょうか?

災難のような出来事や、悲しい別れや、つらい病気などが起こることを予め知っていて、その時まで平常心でいるは、極めて困難です。

回避するために全身全霊を傾けてしまったり、もしかしたら、人生を諦めてしまうかもしれません。

地上に生まれる人は、知っていて耐えられるほど、魂が向上してないので、判らないようになっていると思います。



人生の苦難には、魂を成長させ、何かを学ぶと言う、意味があります。

これと言った苦難もなく過ごす人生は、一見すると幸せのように見えますが、真相は魂を成長させる機会に乏しく、学ぶことの少ない人生かもしれません。

逃げてしまいほど過酷な現実に直面し、何で自分だけがと思いながら、耐え忍んでいる人がいますが、その現実を乗り越えて行く時に、魂は大きく成長していることを忘れてはいけません。

本当に大切なことは、人から教えてもらうのではなく、出来事から生じる苦しみ、悲しみ、痛みを通して身に付けるしかありません。

真に幸せな人とは、この世で多くを学び、魂を大きく成長させた人であるため、大きな苦難を乗り越えて来た人ほど、大きな悦びに包まれるでしょう。



出来事の意味が、たとえ今、判らなくても、死後に明らかになります。

生まれる前にした約束を成就するために、この出来事がどうしても必要だったことを知り、完璧な公正、公平が行き渡っていたことに感謝するでしょう。



この世を生きているのは、あの世で幸せに暮らすためです。

汗水たらしながら働いているのは、人や社会のために役立つ悦びを見出すためであり、食べるために働く必要のないあの世で、自ら進んで奉仕が出来るようになるためです。

苦難を経験するのは、それを乗り越えて行くことで、魂がより一層力強くなるためです。

つらい出来事を経験をするのは、苦痛を通して、愛の大切さを学び、想いを共有するためです。

そして、ありのままの自分が表現されても、恥ずかしくないように、魂を成長させるためです。














2016年7月24日日曜日

全てのことに意味がある



仕事が休みの日に、障がい者施設を訪ねています。

そこには、小学6年生の時に交通事故に遭い、重度の障がい者になってしまった、青年がいます。

車いすの生活であり、脳に損傷を受けたため、言葉による意思疎通は出来ません。

でも、こちらの話していることは、良く判っていそうです。

うれしい時には、満面の笑顔と、「あー」と言う叫び声で表現します。



それまで元気な小学生だった彼が、突然の事故で自由の利かない身体になってしまえば、どのような心境になるのでしょうか?

失望したり、落胆するなと言っても、それは無理です。

自分の運命を嘆き、泣き叫んでいたのは、容易に想像が出来ます。



そんな彼に、

「今は不自由な体で大変だけど、ちょっと先になるけど、自由にどこへでも行けるようになるよ」

「お父さんやお母さんに、自分の気持ちを、はっきりと伝えられるようになるよ」

と、繰り返し言っています。

最初は、変なことを言うおじさんだと思ったでしょうが、それは彼が望んでいることでもあるので、今は言う度に、声を上げて喜んでくれます。



今日は、ある質問してみました。

「一番大切なものは、何だか判る?」

彼にとって、物やお金などは、何の価値もなさそうです。

健康な身体は大切なのでしょうが、その望みが叶うことはありません。



私は、「答えは愛だよ愛」と、胸に手を当てて言いました。

すると、彼は目を輝かせて、叫びながら、最大級の喜びを全身で表現していました。



何よりも愛が大切であることを、肌身に感じていると思いました。

彼は、仕事で事務的にされる行いであっても、施しとして愛を感じているのかもしれません。

1日たりとも、人の手助けなしには生きて行けませんので、周囲への感謝の思いは、言葉に出来ないほど、大きなものになっているのかもしれません。



手助けを受けなければ生きて行けないのは、障がいのある人に限ったことではありません。

健常者である私たちも、たった一人になったとしたら、生きて行けません。

自由にどこへでも行くことは出来ても、食べ物を確保することはできるのでしょうか?

毎日食べている米は、スーパーで簡単に手に入りますが、自分の手で1から作らなければならないとしたら、大変な労力が要ります。

着る服を調達するために店に行きますが、もし、服屋がなくなってしまったとしたら、どうすれば良いのか、判らなくなってしまいます。

実は、私たちも、一人では生きて行けていけないのです。

生活の全てに渡って、人の助けが必要なのは、彼と何も変わりありません。

あまりにも当たり前になってしまっているために、何も感じなくなっているだけです。



誰かに助けを請わないとしても、世の中から多大な助けを受けながら、私たちは生活しています。

本当は、そのことに感謝しなければいけないのですが、何事にも感謝せずに、1日を送っているような気がします。



日々、感謝しながら生きている彼と、感謝の気持ちを忘れてかけてしまっている私では、どちらが謙虚に、大切なことを学んでいるのかと、つい考えてしまいます。

身体的な障がいは不幸なことではなく、人を謙虚にさせ、大切なことを学ぶための、1つの手段になっているのかもしれません。



大切なことは、大きな意味での愛であり、愛を学び、そして表現するために、この世に生きていると言えます。

私の答えに彼が大喜びしたのは、身体的な障がいを通して一番大切なものが、すでに判っているからだと思います。

身体の大切な機能の多くを失ないましたが、その代わりに永遠の価値を持つ愛について、深く学んでいると思います。



この世では、衣食住の全てに、人や社会からの手助けが必要であり、それなしには生活はできません。

手助けをしてもらうために、その対価であるお金を払っています。

そして、人や社会に何らかの手助けをして、お金を得ています。

仕事とは、人や社会の手助けをすることに、他なりません。

お金を得ることはできませんが、家事も、人(家族)のために手助けをしているのに変わりはありません。

生活のほとんどは、手助けをしてもらって成り立っているのですが、お金が介在すると、その意識は希薄になってしまいます。



少し話はそれますが、人の身体には、60兆個(一説では37兆個)の細胞があると言われています。

1つ1つの細胞は小さくても、それぞれに働きがあり、全体の機能を維持するために必要不可欠なものです。

1つの細胞は、全体のために働きながら、全体とつながり生きています。



人も同じです。

1人1人は独立している様に見えて、全体(社会)を構成する一部であり、全体とつながることにより生きています。

1つの細胞が人体から切り離されたら生きて行けないように、人間は全体(社会)から切り離されたら生きて行けません。

人は、全体のために働きながら、全体とつながり生きています。



ところが、彼は社会(全体)のために働くことは出来ません。

自分のために、周りに働いてもらうだけです。

それで生きている意味があるのと、思う人がいるかもしれません。



この世の中の人は、それぞれの目的があって生きています。

彼が生きている目的は、人に手助けしてもらうことだと思います。



人が働くのは、もちろん生活のためであり、食べて行くためです。

しかし、それは表面的なものであって、本当は自分の喜びのためにしているのかもしれません。

なぜなら、感謝された時に喜びを感じるように、人は出来ているからです。

お金を得るためだけなら、働くことに、喜びを感じるはずがありません。

自分の行いにより、人が喜び、笑顔になり、感謝された時に、幸せを感じるようになっていると思います。

お金を得る以上のものを、働くことにより、得ようとしているのかもしれません。



そして、手助けの中に、想いが込められている時があります。

それは、人に喜んでもらおうとする想いと考えられます。

手助けをされた側は、その想いを無意識に感じ取り、喜びとなります。

想いを受け取り、喜びとなった人は、因果律の働きにより、同じものを相手に返そうとします。

目に見えない想いを受け取った人が、喜びを感じた時にするお返しが、感謝だと思います。



彼は、「ありがとう」と口にすることは出来ませんが、手助けしてくれる人に感謝の想いを放っていると思います。

その想いが、手助けする人の魂に伝わり、喜びとなっていると思います。

手助けすることにより、人は喜びを感じていますが、見方を変えると、彼は手助けをしてもらうことで、人に喜びを与えているとも言えます。



人のために、何かをして喜ばれると、喜びを感じるのは、何故なのでしょうか?

何かをする原動力となっているのは、愛のような想いだと思います。

愛のような想いは、神の心と一致しているために、相手に伝わると喜びとなります。

それが、因果律の働きで返ってきて、自らの喜びとなります。

人は生きて行くために、手助けをしながら、人に愛を伝えているような気がします。

伝えた愛が、自分に返って来て、喜びとなっていると思います。



この世の人は死ぬと、例外なく、肉体のない世界に移行します。

そこでは、食べて行くために、人の手助け(仕事)をする必要はなくなります。

あくまで自主的に、進んで、人の手助けをするようになります。



あの世が、真の世界です。

その予行演習をしているのが、この世です。

大切なことを学びながら、強くなるために、この世があり、あの世で悦びに満ちた生活をするためです。



愛情を感じる人のために、何かをするのは難しくはありませんが、愛情を感じない人のために、何かをするのは、容易ではありません。

どんな人にも手助けが出来て、より大きな愛を表現して行くために、この世があると思います。

肉体を維持し生きて行くために、人は働かなければいけませんが、その中で、お金を得る以上の、喜びを見つけ出し、愛の表現の仕方について学んでいます。

そうしないと、次の世界に行った時に、人のために手助けをして、自分(魂)を成長させることが出来なくなるからです。



彼は肉体的に多くのものを失っていますが、霊的に多くのものを得ていると考えられます。

障がいは、彼の魂を成長させ、愛について深く学ばさせる触媒となっています。

そして、仕事を超えた奉仕の心を通して、手助けする人の魂を成長させています。



不幸と呼ばれるような状況下で、魂は大きく成長し、何かを学んでいます。

次の世界に行った時に、その意味を知り、悦びに満たされます。



少し先になりますが、彼にも不自由な肉体から解放される時が訪れます。

ご両親と再会し、言えなかった想いの全てを伝えるでしょう。

そして、苦しかった分、つらかった分、自分(魂)が大きく成長していたことに、きっと驚くでしょう。

深く愛を学んだ彼は、秘めた想いを抱きながら、この世にまた生まれて来るかもしれません。

今度は、物言えぬ障がい者や弱者のために、一生を捧げるかもしれません。



全ての経験は、次に活かされます。

この世の中に、意味のないものは存在しません。




参考ページ: 「この世の出来事の意味を知る時」





2016年7月7日木曜日

困難を乗り越える力



先週、私が経験した、ささやかな出来事を書きます。

ささやかな出来事であっても、そこから得るものがありました。



今年の始め、私は仕事関連で、ある役を引き受けました。

それは、ある学会で最も重要なセクションの、座長とコメンテーターをすることでした。

経験豊富な先輩に当たる人が固辞したために、私に話が回って来たのです。

頼まれて、深く考えることなく、引く受けてしまったのです。



引き受けた理由は、シルバーバーチの霊訓に書いてある、「乗り越えられない困難は与えられない」という文章を思い出したからでした。

本当にそうなのか、自分で検証してみたかったのです。



そんな役に慣れていれば問題はないのですが、私の経験値は絶対的に不足していました。

途中で挫折してしまうのは容易に想像ができ、周りの人も、どうしてこんな大役を引き受けたのかと心配していました。



元々、人前でしゃべるのは得意ではありませんし、大きな声で話すのも好きではありません。

どちらかと言えば口は重い方であり、自己主張をするのは苦手です。

人前でしゃべるのが得意な人であれば、良い経験になるのでしょうが、私にとっては、苦痛を伴う、大きな挑戦でした。

この年(54歳)になって、失敗して人前で恥をさらすのは、やはり避けたいものです。



その日は、2016年7月2日でした。

引き受けた当時は、半年近く先になるので、現実味がありませんでした。

2月、3月になっても、頭のどこかで意識はしていましたが、まだ先のことなので、心に余裕がありました。

しかし、今年のプログラムが送られて来て、自分の名前が書かれているのを見て、緊張が走りました。

全会員に知れ渡り、もうあと戻りできません。



ゴールデンウィークが明けて、2ヶ月を切った位から、その役が頭の中に占める割合が多くなってきました。

どうしても無理だったら、体調不良とか理由を付けて、適任の人に代わってもらおうという、逃げの気持ちもどこかにありました。

しかし、このブログに「乗り越えられない困難はない」と、断言している私が逃げてしまうのは許されないと思いました。



その役は、若手の歯科医師4名が発表し、それに対して私が質疑応答して、最後にコメントを述べるというものでした。

メイン会場のステージ上に、机が1つ置かれていて、そこに座って全てを取り仕切らなければいけません。

学会のオープニングを飾るものであり、全ての出席者が集まり、2日に渡る学会の成否を占うものであり、もし予定通りに行かなければ、後のプログラムも台無しにしてしまう可能性があります。

何十人もの人が、1年かけて準備してきたものが、私のせいで大きく評価を下げてしまったとしたら、とても耐えられそうにありません。

通常は、小さなセクションで何回か経験をして、徐々に規模の大きなセクションを担当して行き、最も適任と思われた人に、このセクションが任されます。

私は、小さなセクションの経験も1度もありません。

これまで人前で発表する機会はありましたが、せいぜい5,6分であり、話せばそれで終わりでした。

しかし、そのセクションは1時間近くあり、あまりの長さに当惑せずにはいられず、やはり無謀な挑戦に思えました。



1番の心配は、場の雰囲気に飲まれて、緊張のあまりに我を失い、予定通りに行かないことです。

その後、どうなってしまうのか想像もできませんが、人生最大の恥をかくのだけは確かです。

私より、ずっと場慣れしている多くの先輩が固辞したのは、そのリスクを背負っているからだと、遅まきながら気付きました。

今更気付いても、私の名前は公にされているので、もう遅いのです。



6月に入り1ヶ月を切ると、そのことを考える時間が、急に増えてきました。

と言うより、頭はそのことで、徐々に一杯になってきました。



失敗した時のことを考えるのは、良くないと判っていても、どうしても頭の中で想像してしまいます。

魂の未熟さから来るのでしょうが、それをどうしても拭い去れません。

まだまだ精進が足りないのに、もしかしたら見栄で引き受けたために、こんな苦しい思いをしているかと考える時もありました。



とにかく全力を尽くして、乗り切るしかありません。

結果はどうなるのか、全く予測が付きませんが、霊訓には「必ず乗り越えられる」と書いてあるので、その言葉を信じるようにしました。



後悔しないように、出来るだけの努力をして、臨もうと決めました。

なるべく早く、資料を取り寄せ、全体の綿密な原稿作りを始めました。

一任されているので、自由に決められるのですが、初めての経験であり、私のやり方が正しいのかどうかも判りません。

何でも決められるのは、全ての責任が自分にかかってくるのを意味し、何とも言えない重圧も感じました。

私のやり方が正しいのか、失敗したらどうなるのか、考え出すと切りがなく、その度に不安に襲われました。



1日、1日と、確実にその日は迫って来ます。

準備は進めていましたが、当日、どのような心境になるのか想像ができません。

どんなに準備や練習をして臨んでも、当日、緊張や不安や恐怖に心が支配されたならば、精神的に破綻するのは目に見えていて、計画通りに行くはずなどありません。

1時間どころか、5分も耐えられそうにありません。



困難に遭遇した時に、頼りになるのは霊的真理です。

以前も、窮地に陥った時に助けられました。

シルバーバーチの霊訓には、全ての人に、この世の人生を導いている目に見えない、あの世の存在(背後霊)がいると書かれています。

存在感は全くなくても、少なくても一人は付いていて、当然ながら私にもいます。

一人ひとりに、生まれた時から付いている理由は、地上の人を守り導き、この世で予定された魂の向上を果たすためです。



私は、魂の存在を確信していますので、背後霊とのコンタクトは比較的取りやすいと思います。

これまでも、たくさんの助言を受けて来ました。

そこで、こう尋ねてみました。

「うまく行くのでしょうか?」

すると頭の中に湧き出てくる言葉がありました。

それは、「逃げなければ、必ずうまく行く」と言うものでした。



しかし、私にはうまく行くとは、とても思えませんでした。

私は、指導的立場として、自信と余裕を持って受け答えしなければいけません。

その場にいるだけで精一杯であり、そんな余裕など、どこにもないように思えたからです。



そこで、こう祈りました。

「どうぞ、乗り越えさせて下さい」

切実な想いでした。



いくら祈ってみたところで、自分が怠けていたり、努力していなければ、援助を受けることは出来ないと思っています。

何もせずに、ただ助けてもらうのでは、魂の向上につながらないからです。

成功させるように精一杯努力して、はじめて援助を受ける権利があると考えていますので、自分なりに最善を尽くすしかありません。



2週間前位になると、こう思う時がありました。

「逃げなければ、うまく行く」と伝わって来たのに、上手く行かなかったら、どうなるのか?

その言葉は、偽りだったということになります。

背後霊は先を見通せていない、あるいは伝わって来たと思っているのは、私の潜在意識にある願望に過ぎないと言うことになります。

今まで信じてきた背後霊の存在、そして霊的真理の信ぴょう性さえ疑うことにもなりかねません。

そう考えると、今回のことは、とても大きな意味があるように思えました。



1週間前になると、頭の中はその日のことで、一杯になってきました。

食欲も少し落ちてきて、朝早く目が覚めるようになりました。



とにかく、その席で舞い上がり、頭が真っ白になってしまうのだけは、避けなければいけません。

すると、こんな言葉が思い浮かびました。

「頭が真っ白になるのは、この世で作り上げてきた自分(エゴ)である」

この世で作り上げてきた自分(エゴ)が大きなプレッシャーで、お手上げになってしまった時に、頭が真っ白になるのかもしれないと思いました。

真っ白になった後には、それまで隠れていた魂が前面に出てくるので、素直に従えば良いと思いました。



メッセージ以外に、守り導く見えない存在の影響を、感じる時が何回かありました。

私はヒーリングをする時に、霊力の流れを体感しています。

それは、冬の寒い日で、身体が冷え切った時に、熱い風呂に入ると手先がビリビリとしびれるような感覚に近いものです。

目を閉じて、壇上に上がって、スピーチをしている姿を想像すると、未経験で苦手なだけに、どうしても不安になってしまいます。

その不安が徐々に大きくなり、心の大部分を占めて来ると、それを打ち消すように霊力が伝わってくるのを、はっきりと感じました。

その力に全体が包まれていくと、それまで支配していた不安はなくなって行き、心があたたかくなり、うとうととした気分になりました。

向こうから霊力を伝えて、不安を払拭させようとしていると思いました。

そんなことが、何度となくあり、その度に不安は霧消するので、これは私の心情を読み取り、助けてくれていると思い、素直に感謝しました。

よく考えてみると、子供の時に、大きなストレスを感じると、なぜか眠たくなりましたが、もしかしたら、同じことが起きていたのかもしれません。

向こうからの霊力によって、この世の人の心のあり様を変えているのかもしれないと思いました。



日がさらに迫って来て、日に何回かは、「どうぞ乗り越えさせて下さい」と、祈るようになりました。

すると「最初のスピーチさえ上手く行けば、後は楽しめるようになる」と、言葉が沸き上がって来ました。

そんな余裕など、絶対あるはずがないと思いましたが、いつも同じ答えが返ってきました。

信じる者は救われるので、その言葉に従い、何十回も最初のスピーチの練習をしました。



とうとう前日になりました。

明日の準備のために、東京の会場に向かい新幹線に乗りました。

向こうから伝わる霊力により、比較的穏やかに心境でいられたと思いますが、会場が近くなるにつれ、やはり緊張感が高まってきました。

私が失敗して、学会を台無しにしたらと思うと、どうしても緊張してしまいます。

そして、会場に到着しました。



ステージの上に立ってみました。

そこから、客席を見渡すと、その広さに思わず身震いがしました。

全ての聴衆が、私のスピーチに耳を傾けていると考えると、何とも言えない気分になりました。

ぽつんと、白い机が置かれていて、そこに一人座り、1時間しゃべりながら、取り仕切らなければならないのは、未経験の私には、どう考えてみても無理に思えました。

しかし、もう逃げも隠れもできません。

この席に座って、1時間もしゃべらなければならない現実が、明日の朝、確実にやってきます。



一人、座長席に座って、会場を見渡してみました。

助けてくれる人は、誰もいません。

頼る人は、誰もいません。

自分で何とかするしかないのです。

自分を救えるのは、自分しかいません。



現実に追い詰められて、限界まで達した時に、私の心の中で何かが変わりました。

モードが変わった、あるいは開き直ったと表現しても良いのかもしれません。

成功させるしかないと言う強い想いが、心の底から沸き上がってきました。

不安を感じていた自分はどこかに去り、本当の自分(魂)が主導権を握った瞬間だったかもしれません。



宿泊部屋に戻り、また最初のスピーチを復唱しました。

原稿をチェックして、文章を練り直していると、時間はあっという間に過ぎて行き、いつもの寝る時間になりました。

寝ようと思っても、興奮してなかなか眠りに就けませんので、もう1度、起きて原稿を復唱したり、確認することにしました。

夜中の2時半過ぎになり、またベッドに入ると、興奮は和らいでいて、眠りに就くことができました。



目が覚めると、まだ4時半位でした。

ついに、その日がやって来ました。

直ぐ起きて、また最初のスピーチを復唱しました。

その時、失敗した時のことを考えることはなく、何とか乗り越えて行くぞと言う気持ちになっていました。



朝8時過ぎに会場に到着しましたが、しばらくすると参加者でいっぱいになって来ました。

午前9時、ついに学会が始まり、司会者に紹介されて、私のセクションが始まりました。

心の中で、もう1度「どうぞ、乗り越えさせて下さい」と祈りながらステージに上り、席に座りました。

そして、最初のスピーチを始めました。



とても穏やかな心境で、ほぼ完ぺきに近いかたちで、最初のスピーチが終わりました。

予想外の展開に、心の中で驚くとともに、安堵感が広がっていきました。

伝わってきた、「最初のスピーチが上手く行けば、後は大丈夫」という言葉を思い出しながら、次に進むことが出来ました。



その後、1時間に渡り、座長とコメンテーターの役が始まりました。

そこには、驚くほど冷静な自分がいました。

客観的に、自分と会場を見渡していました。

指導者のようだったのかは判りませんが、余裕を持って、話すこともできました。

緊張はほとんど感じず、自分の呼吸を意識したり、ポケットに入っている時計を見ながら、時間調整をする余裕さえありました。

途中で、上手く行くと確信を持つと共に、一生に1度あるかないかの経験を、楽しんでいる様な気分になっていました。

1時間に渡る私のセクションは、ほぼ予定通りに終わり、最後の挨拶をして、ステージから降りました。

私を推薦した人が近寄って来て、良くやったと褒めてもらい、思わずうれしくなりました。



守り導く存在から、乗り越えて行く力の援助なしには、この結末はあり得ません。

心から感謝しています。



これは私の人生の一コマに過ぎませんが、霊的に意味があり、上手く乗り越えたなら、このブログに載せると、自分で約束していました。



知ってもらいたいのは、人は一人ぼっちで生きているのではないと言うことです。

目には見えませんが、導いている存在が、常にそばにいます。

心を静かにして問いかければ、最善の方向に導いてくれる答えを、受け取ることができます。

人生で遭遇する出来事は、目に見えない守り導く存在とともに、乗り越えて行くことができます。



心穏やかにいられたのは、私の精神力が強いからではありません。

守り導く存在との連携が緊密になり、(霊)力を受け取っていたからと考えられます。

霊力により、恐怖心や不安が打ち消されて、穏やかでいられたと思っています。

これは私に起きた特別なことではなく、どんな人にも起きていることです。



困難に遭遇しても、必ず乗り越えられます。

乗り越えられない困難や障害はありません。

強力な味方がいるからです。

目に見えない、守り導く存在が、背後に控えているからです。

もうだめだと諦める前に、「どうぞ、乗り越えさせて下さい」と、祈って下さい。

しばらくすると、不安が和らいできたり、力が漲ってきたり、勇気が出たりするかもしれません。

忘れた頃に、何かの力が働いているのを感じるかもしれません。

それこそが、あの世からの導きであり、援助の力です。

魂を鼓舞する、向こうからの愛の力です



この世の困難を乗り越えていくのは、背後霊との共同作業と思った方が賢明です。

一緒に、力を合わせて困難に立ち向かえると思えば、肩の荷は軽く感じられます。

心に生まれている声は、向こうからの導きの声であり、気のせいだと思い、逃してはいけません。

絶対的に信頼し、心に生まれる声(インスピレーション)に従えば、魂を成長させる結果が、必ず生まれます。



私が、今回の役を引き受けてしまったのは、背後霊との一体化を強化するためであり、向こうからの援助に確信を持つためであり、そして苦しい思いをして自分が成長するためと思っています。

もう1つの目的は、このブログに自分の経験を書いて、読む人に背後霊の存在を知ってもらい、その恩恵に与ってもらうためです。

 日本人は、物事が上手く行くと「おかげさまで」と言います。

「おかげさま」とは背後霊のことを指していて、見えない存在に感謝している言葉だと思います。



この世を生きる目的は、魂を向上させるためです。

困難を乗り越えて魂を向上させるために、守り導く存在が、常にそばに付いています。

これは、映画の世界の話でも、夢物語でもなく、目に見えない真実です。



もし困難な出来事に遭遇したら、自分なりに最善を尽くし、乗り越えさせてもらうように、背後霊に向かって祈ってください。

この世の人を成長させるためにいるので、乗り越えて行く力を、きっともらえるはずです。






































2016年6月25日土曜日

若者の自殺について



人は何の目的もなく、生まれて来たわけではありません。

本当の自分である「魂」を成長させるためです。

魂を成長させるために、この世でどんな出来事が自分に起こるのかを、ちゃんと承知した上で生まれて来ています。

人生で待ち構えていた数々の出来事を、どうにか乗り越えて行き、予定通りに魂の成長が得られた時に、自然法則に従ってこの世を去る時が訪れるようになっています。

しかし、現実にはとても多くの人が、自らの意思により予定を早めて、向こうの世界に移ってしまっています。



この世を生きるのがつらくて、死んでしまえば楽になると信じ、自らの(肉体の)命を絶ちますが、現実は、ブラックアウトの後、意識は存続していることに気付きます。

戻った意識は死ぬ直前の状態であり、苦しい上に、死ぬか生きるかと言う、極めて深刻な葛藤を抱えたままです。

あまりの苦しさ、激しい情動により、錯乱状態に陥ってしまうようです。



苦しいのは、まだ死んでいないためと思い込んでいるため、早く死んで楽になろうと強く思います。

駅のホームに、同じ様に日々の苦しみから逃れたいと思っている人がいると、苦しさから逃れようとする自殺した魂は、引き寄せられてしまうかもしれません。

お互いの魂が同調すると、思いが増幅されて、突然ホームから飛び込みたくなる衝動が生まれてしまうかもしれません。

錯乱した自殺者の魂は、苦しさのあまりに新たな悲劇を生んでしまい、罪をさらに大きくしてしまっている可能性があります。



錯乱状態をどうにか抜け出し、自分の置かれている立場を理解すると、とんでもないことをしてしまったと、激しい後悔の念にかられることになります。

今まで、自由に動かせていた肉体は、もうないのです。

いくら元に戻ろうと思っても、もう遅いのです。

自分のせいで、他の人を巻き込んで死なせてしまったのあれば、なおさらです。



向こうの世界で、その行為が過ちだったと知り、大きな後悔をすると共に、周りと隔絶されて暗闇に閉じ込められると言われています。

その状態を抜け出すためには、過ちを償わなければいけません。

過ちを償うために、もう1度、この世に生まれるのを許されますが、死の誘惑を伴うような、さらにつらい試練が待ち受けていると予想されます。

今度は、何があっても生き抜かなければならないと固く決意して、魂は母体に宿ります。

つまり、自殺は苦しみから逃れられないどころか、さらに過酷な苦しみを経験することになってしまうと思われます。



しかし、全ての自殺者が闇に閉じ込められ、悶え苦しむ訳ではありません。

自殺した時の動機が問われます。



逃げたり、臆病なために自殺したのであれば、それは神の意志に反した行いのために、相応の償いが必要となってくるでしょう。

映画のワンシーンにあるかもしれませんが、ロッククライミングをしていて絶壁で宙づりとなり、仲間を助けるために、自分の命綱を外して死んでしまったとしたら、それは自らの(肉体的)命を絶つ行為には違いありませんが、動機は人を助けるためであり、償いが必要になるわけがありません。



では、病気で自殺してしまった人はどうでしょうか?



自殺の原因の第1位は、うつ病です。

うつ病について、少し書いていきます。

抑うつ状態がある程度以上、重症である時に、うつ病と診断されるようです。

抑うつ気分(状態)とは、「憂うつである」、「気分が落ち込んでいる」などの症状がある時を言うそうです。

とても嫌な出来事が起きたり、不安や恐怖を抱えていたり、日々の生活に疲弊してしまうと、誰でも、抑うつ状態になる可能性があります。

そんな状況がしばらく続いたなら、抑うつ状態はひどくなってしまうでしょう。

感情の高ぶりが治まらずに、眠れなくなってしまうことも、当然あると思います。

テレビCMで、2週間不眠が続くと、うつ病を疑った方が良いとキャンペーンしていましたが、本当にそうなのでしょうか?

病気と言うより、生理的反応が過剰に起きているだけではないでしょうか?

多くの人は、ゆっくりと休養すれば、良くなってくるのではないでしょうか。



精神医学で、うつ病の原因は突き止められていません。

遺伝的、環境的、肉体的要因が重なって発症すると言われていますが、それらは物質的次元の要因です。

精神は物質を超えた存在であるのは明らかであり、原因は別次元にあると考えられます。

私は、うつ病の根本原因は、精神的次元、霊的次元にあると考えています。

精神的次元の原因として、心のエネルギーの絶対的な不足があり、霊的次元の原因として、表現できなかった想い(恐怖、不安、怒りなど)が内に存在していると考えています。



心のエネルギーは、どこから来るのでしょうか?

脳は肉体の一部なので、活動するエネルギーは物質的なものから供給されます。

しかし、心は肉体(脳)とは別次元の存在であり、医学では認められていない、魂(霊)から供給されていると考えられます。

魂に供給されているエネルギーは、霊的なエネルギーであり、生命エネルギーと言い換えて差し支えないと思います。

生命エネルギーが変換されて、心を動かしているエネルギーとなっていると考えられます。



生命エネルギーは、心の状態により、供給される量が変化すると考えられます。

喜びや、愛する想いを抱けば、より多くのエネルギーが供給されます。

そのため、とてもうれしいことがあれば、心は躍動します。

恐怖や不安、悲しみなどがあれば、供給される量は逆に減ってしまいます。

怖いことがあれば、心は縮み上がってしまいます。



心のエネルギーは、2種類の系統で消費されると考えています。

一つは感情を生み出すためであり、もう1つは、脳に事務的な指令を与えるためです。

魂で生まれた想いが、心(精神)で感情となりますが、霊的なエネルギーが精神的エネルギーに変換される現象と言って良いと思います。

そして、感情は脳に指令を与えて、肉体により言葉や行動による指令を出しますが、精神的エネルギーが肉体的エネルギーに変換される現象と言って良いと思います。

つまり、魂で受け取った霊的エネルギーが、精神的エネルギーに変わり、さらに肉体的エネルギーとなり、言葉や行動によって表現されて完結していると考えられます。



心は脳が作り出しているのではありません。

うつ状態とは、内に恐怖や不安、怒りや悲しみなどの感情が溜まっているため、生命エネルギーの供給が減ってしまっている上に、同様の感情を生み出すために消費されてしまい、脳に事務的な命令を与えるためのエネルギーが枯渇しかけている状態を指すと思います。



表現できずに溜まっている強い想いがあるのならば、新たに生み出される感情も同化されてしまいます。

強い恐怖が溜まっていると、何事に対しても恐怖を感じてしまいやすくなります。

強い怒りが溜まっていると、何事に対しても怒りやすくなってしまいます。

そして、新たな感情が生まれるためにエネルギーが消費されるため、心が脳に指令を与えるエネルギーが、さらに少なくなって行きます。

悪循環が起こり、心は脳に指令を与えられなくなって行きます。

脳に指令が行かなくなれば、頭は働かなくなり、肉体に出す指令も少なくなり、結果的に肉体は働かなくなります。



現代医学では、うつ病の治療の主流は、薬物によるものです。

薬物は、脳内神経伝達物質をコントロールして、脳の働きを高めようとします。

そのため、事務的に多少動けるようになりますが、心へのエネルギーの供給は、内にある強い想いがあると減ってしまうので、感情は生み出されにくくい状態のままです。

事務的には動けるのですが、感情を伴った行動は出来ません。

薬を止めれば、元の状態に戻って動けなくなりますので、依存状態となります。

感情がないまま、薬により身体は動かされ続けます。



うつ病の患者さんは、好ましくない感情に苦しんでいると言われています。

その感情は、過去の出来事により生まれていた想いと考えられます。

何かの理由があって、想いが肉体で表現できずに、内に溜まっていたと考えられます。

しかし、溜まっている想いがあっても、精神活動を活発に続けている内は、その陰に隠れて、表に出ません。

心のエネルギーが不足して精神活動が弱まってくると、表在化してきます。

うつ病の患者さんは、今生まれている感情に苦しんでいるのではなく、過去に生まれていた、言葉に出来ないような想いに、苦しんでいると考えられます。



抗うつ剤は、脳の働きを活発にさせるので、表在化した過去に生じた想いが再び隠され、苦しみが少し和らいだ気がします。

けれども、心のエネルギーは相変わらず不足しているので、感情が生まれないまま、脳の働きだけ活発になっています。

それは目的もなく走り続けて、息切れしているのに、また走らされているような感覚なのかもしれません。

ゆっくりと休まなければいけない状態なのに、薬により脳が働き続けます。

薬を飲む前とは違った、生き苦しさを感じているのかもしれません。

そのアンバランスな状態が高じてくると、衝動的に破壊願望が生まれてしまうのかもしれません。



以前、「自殺者の9割以上が何らかの精神障害に罹患した状態にありながら、精神科治療につながっているのは少数である」という知見が出されたそうです。

そのため、現在、自殺を未然に防ぐために、精神科の受診が勧められています。

ところが、東京都福祉保健局の調査によると、自殺者の54%が死亡2週間前に、精神科・心療内科に受診していたそうです。

さらに、2009年度「自殺白書」では精神科を受診して自殺した人の6割が20~30代の比較的若年者と報告しています。

驚くことに、20~30代の精神科を受診していた自殺者は、受診していなかった人たちに比べて2倍になっています。



若者に、一体何が起こっているのでしょうか?



興味深い資料があったので、引用させてもらいました。

この表は、1999年から2012年までの間で、自殺者が増えた年齢を黄色で塗りつぶしています。
19歳から27歳までが顕著に増加しています。



それをグラフ化したのが下図です。
20代だけが、特異的に自殺者が増加しているのが、良く判ります。

このグラフ作成した、教育社会学者である舞田敏彦さんは、若者の将来展望不良、就活の失敗などを理由に挙げていますが、果たしてそうなのでしょうか?



2000年にパキシル®(SSRI)という薬が販売されました。

脳内神経伝達物質であるセロトニンの量が減るとうつ病になるとも言われていますが、SSRIはセロトニンを増やす作用のある向精神薬です。

製薬会社は軽症のうつ病は「心の風邪」というキャッチコピーで、精神科の受診を促すCMを、マスメディアを通して、大々的に流しました。

その結果、2000年から2008年までの間で、パキシル®の売り上げは10倍になったそうです。



若い人の中に、気分がすぐれなかったり、眠れない日々が続いてしまうと、もしかしたら自分はうつ病かもしれないと思い、精神科や心療内科を受診し、パキシル®などの向精神薬を処方された人も少なくないと考えられます。

薬を飲めば治ると信じて、飲み続けている人も、きっとたくさんいると思います。

しかし、パキシル®という薬には、重大な副作用があると書かれています。

以下の文章は、パキシル®の日本の説明書きからの抜粋です。

『米国食品医薬品局(FDA)がSSRI、SNRI に加えて他の抗うつ剤及び成人にも対象を広げて検討を行った結果、24 歳以下の患者では抗うつ剤を投与された患者で、プラセボを投与された患者と比較して、自殺念慮や自殺企図等の自殺関連事象の発現リスクが高くなることが示唆されました。』

米国では、パキシルを18歳未満のうつ病患者に対して投与した場合に、自殺行動の危険性を増すという事実が製造元によって隠されていたのが発覚し、ニューヨーク州司法長官に訴えられ、巨額の賠償金の支払い命令が出たそうです。



日本でも平成17年度第1回薬事・食品衛生審議会、医薬品等安全対策部会安全対策調査会(厚労省 )において、タミフル(抗ウィルス薬)とパキシル(SSRI)について死亡(自殺例)を報告しています。

タミフルの異常行動については、マスコミで取り上げられたため、多くの人の知るところとなりました。

しかし、パキシル®については、タミフルほど一般の人に認知されていないのも事実です。

説明書きには、18歳未満の人には適応を慎重に検討することと書かれているので、18歳以上の若年者に対して、医師は抵抗もなく処方している可能性は高いと考えられます。



しかし、パキシル®の説明書きには、実はこうも書かれているのです。

『海外で実施された、本剤の成人を対象としたプラセボ対照比較臨床試験を検討した結果、統計学的に有意な差はないものの、プラセボと比較して本剤を投与された若年成人(本解析では予め18~24 歳と定義)で自殺行動の発現頻度が高いことが示されました
また、大うつ病性障害の成人では、プラセボと比較して本剤を投与された患者で自殺行動の発現頻度が統計学的に有意に高いとの結果が得られ、この多くは18~30 歳の患者で発現したものでした。』

これだけのエビデンスがあっても、若年成人に対して、禁忌でも、慎重投与でもなく、『使用上の注意』として扱われています。

前出のグラフで、特異的に20代に自殺者が増加しているのは、精神科でパキシル®などのSSRI製剤が安易に処方され、タミフルと同様に異常行動が出現したためと考えるのは、無理があるのでしょうか。



現代医学は科学に根差しているため、目に見えない心や精神について理解はきわめて乏しいと考えられます。

物質的な薬で、心の病が治るとは、とても思えません。

それどころか、若者を中心に、思わぬ弊害を生んでいる可能性があります。



自殺者の魂は、暗闇に閉じ込められて悶え苦しむと書きましたが、うつ病、特に薬の副作用で突発的に亡くなった人は、その限りではないと、私は思います。

なぜなら、自由意志で命を絶ったのではなく、医者から処方された薬物により、異常行動を起こしてしまった結果、魂が肉体からの分離を余儀なくされてしまったと考えられるからです。

そんな人たちは、罪を背負うことはないと思われます。

調整期間は必要ですが、次第に穏やかさを取り戻していくと思われます。



心残りは、この世に残してきた人に、何も伝えられずに、逝ってしまったことです。

そして、深く悲しませてしまったことです。

そんな理由から、地上に残してきた人に、メッセージを送ることが許されているのかもしれません。




















2016年6月12日日曜日

自分を救うのは自分



何気なくテレビを見ていたら、一人の車いすに乗った男性が映っていました。

その男性は、ある進行性の難病を患っていました。

病名はALS(筋萎縮性側索硬化症)と言い、全身の筋力が徐々に弱まっていく原因不明の病気です。

彼は藤田正裕さんと言い、将来を大いに期待される広告プランナーですが、30歳を目前にして、ALSと診断され、余命3年と告げられました。

命の期限が切られてしまうのは、耐え難いことです。

それ以上に、この病気の恐ろしいところは、動かなくなっていく身体とは裏腹に、意識や五感は最後まで残り、多大な精神的ストレスを患者に強いることです。

こんなに容赦のない非情な病気は、他には見当たりません。



現在、彼は「END ALS」と言う組織を立ち上げて、日本だけでなく世界中にALSの認知・関心を高めるとともに、厚生労働省や医療研究機関などに対し、迅速な治療法の確立やALS患者の生活向上を働きかけています。

彼は、ホームページの中でこう訴えかけています。

「私は藤田ヒロ ALS患者。
ALSは 2年かけて、何があっても戦って生きる勇気をくれた。
ALSは 人や社会の 理由なきやさしさ 疑うほどの 残酷さを 同時に見せてくれた。
ALSに 自分の 隠されていた 強さ 同時に 自分の器の 小ささを見せられた。
ALSは オレから全てを 1つ1つ ゆっくりと奪った。
あれ? 腕が何故か上がんない...ん?ヤバイ、痒いのにかけないところが増えてきた...
私にも 「動くこと」は 昔あたり前だった...
ALSは 3年かけて ゆっくりと体の動きを すべて奪った
ALSのお蔭で 本当の意味で 生きることや 仲間の 大切さを知った
ALSに 声を取り上げられる前に 何を口にする?感謝? 憎しみ?
ALSに逆らって 延命するのは 力強い? それとも迷惑?
どちらにしても 私はまだ生きている。
I still alive
早く解放して下さい。」



広告マンとして、誰もが認める才能に恵まれ、人生を謳歌していた時に襲ったALSという病魔。

治ることはおろか、進行さえ止められず、その先に待ち受けている考えたくもない事態。

自らの運命を恨み、不条理を嘆き、そして絶望の淵に突き落とされるのは、避けられないと思います。

夢と希望に溢れた生活から、徐々に身体の自由を奪われ、呼吸さえ止まってしまう恐怖に襲われて、平静でいられるような人は、果たしてこの世にいるのでしょうか?

恐怖から逃れたくて、死にたいと思っても、何ら不思議ではありません。



この文章の中で、ALSは2年かけて生きる勇気を与えてくれたと書いてあります。

その2年間は、恐らく、この病気になった人しか判らない、言葉では言い尽くせない精神的な苦しみがあったと考えられます。

もし、私が同じ年代でALSになったとしたらどうでしょう?

おそらく、こう心の中で大声で叫ぶでしょう。
「うそだ、信じられない」

たとえ病気を受け入れたとしても、こう叫んでしまうでしょう。
「何で自分が、これからと言う時に」

そして
「ふざけるな!何で死ななければいけないんだ」と憤慨し、

最後には、
「怖い。誰か助けて」と怯えてしまうかもしれません。

医者は助ける手段を持ち合わせていません。

周囲の人も、ただ見守るだけです。

頭脳をいくら駆使しても、解決策はどこにも見つかりません。

絶体絶命の窮地に、追い込まれてしまいます。

頼れるものは何も存在せず、この状況から脱出する手立てはありません。

万事休すとしか思えません。



ただ、精神的にもがき苦しんで生きるだけなのでしょうか?

そんなはずはありません。

藤田さんは、生きる勇気をもらったと言っていました。

もがき苦しんだ後に、何かがあったからこそ、そう言えたのだと思います。



心境の変化は、魂の存在を抜きにしては、理解できないと思います。



普段の生活をしている時に、自分だと意識しているものは、実は真の自分ではないと考えられます。

この世を生きている人は、今までの人生で無意識のうちに作り上げてきた「自分」を持っています。

自我やエゴと言うのかもしれませんが、「この世を生きる自分」と私は表現しています。

多くの人は、この世を生きる自分を前面に出して生きています。

この世を生きる自分は、より良く生きるため、失敗しないために、常に思考しています。

また、周りに影響されたり、人からの評価を気にしたり、地位や財産を欲したりしています。

嘘をついたり、ごまかしたり、本音を隠している自分です。

この世だけの、考え方や価値観に捉われて、あれこれと考えている自分です。



もし、深刻な出来事が起きたなら、事態は一変します。

さまざまな思いや考えが錯綜して、心が休まる暇はありません。

解決策を見出せなければ、恐怖、不安、怒り、悲嘆などの感情が生み出され続けます。

生み出された感情により、自分が苦しめられてしまいます。

自分を苦しめているものは、出来事そのものよりも、自分の感情と言えるのかもしれません。

自分が大きい人ほど、生み出される感情は大きくなるので、苦しみも大きくなってしまいます。

恐怖や不安そして悲嘆や怒りに押しつぶされてしまいそうな人は、この世を生きる自分が、とても大きくなっている人と考えられます。

今までの自分を、捨て去らないと、苦しくて生きていけません。

自らが生み出した感情により、苦痛が限界に達した時に、その人の中で何かが変わるようです。

今まで自分は自壊して行き、それまで隠れていた、本当の自分が姿を現します。



どうすることも出来なくなって、今までの自分を捨て去った時に、本当の自分は目覚めます。

頭でいくら考えても解決できず、感情に押しつぶされそうになり、(この世を生きる)自分が白旗を挙げた時に、代わって本当の自分が表舞台に登場し、主導権を握ります。

本当の自分とは、魂です。

長い眠りから、魂がようやく目覚める時が来たのです。



 本当の自分(魂)は頭で思考するのではなく、この世的な考えに捉われず、高い次元から物事を洞察し、直感を生み出しています。

思考では解決できず、直観に従って生きることが必要になったのです。

痛み、苦しみ、悲しみが触媒となり、本当の自分(魂)が目覚め、困難に立ち向かって行く体制が整います。

進むべき方向が判らない時には、考えるのを止めて、魂に身を委ねればいいだけです。

心を鎮め、魂の声に耳を傾けます。

そこからは、たえず直観が生まれて、導いています。

しかし、現実に捉われてしまい、身を委ねるのが難しいのも事実です。

直観が生まれても、頭で考えたことが優先されてしまいます。

たとえば、学校で、同級生がいじめられていたとします。

本当の自分には良心が内在されているので、何とかして助けてやりたいと直観として思います。

しかし、頭で考えてしまうと後のことを予測し、自分に危害が加わることを恐れて、目をつむってしまいます。

自分には、本当の自分(魂)と、頭で考えようとする(この世を生きる)自分がいて、そのせめぎ合いの中で生きています。

本当の自分の想いを表現できなくて、後悔してしまうのは、誰でも経験することではないでしょうか。



藤田さんは、運命を恨んだり、現実を嘆いたり、恐怖に苛まれて、苦しくて生きて行けなくなったのかもしれません。

苦しみ抜いた末に、今までの自分を手放して、魂が目覚めたのかもしれません。

彼の、澄んだ瞳からそれが窺えます。



乗り越えられない困難はないと、霊的真理にはあります。

頭で考えると、ALSを治す手段はなく、5年以内に、自力では生きられなくなる現実を、どうやって乗り越えて行くんだと思ってしまいます。

この世を生きる目的は、肉体を維持することではなく、魂を向上させることです。

病気を治すのが乗り越えることではなく、困難から生まれる苦しみを乗り越えて行くことを言っていると思います。



苦しみを乗り越えるためには、本当の自分に目覚め、真実を見つけなければなりません。

真実は、本に書いてあることでも、人から聞くのでもありません。

真実の所在は魂にあり、魂の中に見出して、窮地から救ってくれると思います。

困難が大きい人ほど、見付け出す真実に価値があり、一度手にいれたら永遠の財産となります。

そして、この世を生きる、絶対的指針となります。

聖書には「求めよ、さらば与えられん」と書いてあります。

苦しみの中にあって、生きていくための真実を求めていれば、魂から回答が返って来ると思います。



藤田さんは、「勇気」という真実を見出して、何が何でも生きることを選択したと思います。

生きる苦しみから救い出してくれるのは、自分(魂)です。

自分(魂)には、神がいるからです。

救ってくれるのは、他者ではなく、自分の中にいる神です。



ALSのお蔭で 本当の意味で 生きることや 仲間の大切さを知ったと、藤田さんは言っていました。

魂に目覚めると、一番大切なものが見えてきます。

人は支えられて生きている、そして人を支えるのが生きる目的であることを、藤田さんにははっきりと見えていると思います。

辣腕の広告プランナーとして、世界中のALSに苦しむ人たちの切実な願いを、残されたわずかな身体的機能で、精一杯、表現しています。



ハッピィーデー・プロジェクトというブログに、藤田さんからの応援メッセージを見つけました。

「しあわせとは、感じるもの。
私は藤田正裕。三十四歳。
意識や感覚は正常なまま、ゆっくり全身の運動神経が麻痺してゆく難病、ALS患者です。
ちなみに平均寿命は三~五年。
発病し四年半、今や、動かせるのは顔の筋肉と左手の人差し指だけ。口から食べることも
飲むこともできず、人工呼吸器がなければ息を することもできません。
でも、気づきが多い今、今までの人生で一番しあわせについて学んでいます。
今まで「当たり前」に「普通」にしてきたことが どれだけしあわせなことだったのか。
しあわせな人ほど、自分がどれくらいしあわせ なのかに気づくことが難しいのです。
本当のしあわせは、何気ない日常にこそあり ます。家族がいる。友達がいる。学べる。働ける。
食べられる。飲める。話せる。息が吸える。
なにより、生きていられる。
しあわせとは何か。
それは、選択肢です。
すぐそばにあるしあわせを感じるか、感じないか。
すべての人が平等に与えられている、
選択肢の一つです。 」



深刻な出来事に出会うと、人は変わります。

今までの自分では、生きて行けなくなるからです。

苦しくて仕方がなくなると、人は今までの自分を脱ぎ捨てて、裸の自分、本当の自分(魂)になります。

本当の自分になると、大切なものが見えてきます。

目に見えない魂が、目に見えない大切なものを見つけます。

大切なものを見つけながら、成長していくのが、生まれてきた目的です。

そのために、この世では深刻な出来事に、どうしても出会うようになっています。

もし、大切なものを見つけているのなら、その出来事をすでに乗り越えています。

見つけたものにより、自分が救われます。







2016年5月29日日曜日

この世に生まれて来た理由



あの世が存在することは、私にとって紛れもない事実です。

しかし、目に見えるもの、証明されたものしか信じない人は、あの世の存在を否定するでしょう。

どちらが正しいのか、死んだ後ではっきりしますが、否定する人には、1つの問題が起きてしまう可能性があります。

死んで無になるのであれば、あの世を信じている私は無になってしまうので、何ら問題はありません。

もしも、あの世があったならば、頑なに否定していた人は、死んでも意識があるので、この世に生きていると錯覚してしまいます。

現状を認識するまで無駄な時を過ごし、周囲に要らない苦労をかけてしまうことになります。

たとえ信じられなくても、もしもの時を考えて、知っておいた方が賢明と考えられます。



死んだ後も変わらずに意識は存在し、魂として生命は存続しているのが明らかになり、私はとても安心して生きられるようになりました。

併せて、この世に生きている目的も知りました。

この世にいる人は、例外なく、魂を向上させるために生きています。

人生で出会う困難や障害を、最善を尽くして乗り越えて行くこと、人や社会に役立つことで、魂は向上するように、自然法則は出来ています。

何をすればいいのか悩む時がありますが、まず実生活において、自分に与えられた仕事を一生懸命に果たし、周りにいる人に親切にして、困っている人がいたなら助けてやることが大切ではないかと思っています。



先日、テレビの番組で、ある医師の活動を放送していました。

彼は、私と同年代(1964年生まれ)の男性であり、恵まれない人たちへ無償の医療を提供していました。

スケジュールは多忙を極め、一ヶ月の半分はフリーランスで全国の病院を掛け持ちで難しい眼の手術をこなして、残りの半分はベトナムに行って、経済的理由から医療を受けられず、失明しかけている人たちに、無償で手術をしていました。

ベトナムに病院を開設していて、裕福層に対しては有償で治療を行い、得た収入を医療を受けられない人たちに無償で治療を行って還元していました。

自分がいなくなってからも、失明の危機にある人たち全てが、最善の医療を受けられるシステムを構築しようと、全精力を注いでいました。

自宅の購入資金を当ててまで、ベトナムの人達を救おうとしていました。

その医師の活動の原動力となっているのは、「人のために生きろ」という、父親の最期の言葉だったそうです。

世の中には、霊的真理を知らなくても、見事に実践している人がたくさんいます。



人のために生きようとするのは、思考から来るものではなく、魂の根源的な欲求と思われます。

もし、そうでなければ、駅のホームに転落した人を、わが身の命を省みず、救おうとする衝動は起きないはずです。

誰かを救おうとしたり、助けてやろうとするのは、私たちは肉体を超えた霊的な存在であり、霊的なものに神性(愛)が宿っているからです。

この世の人は肉体を持っているために、自分のために生きているように感じますが、実は他者のために生きていて、自分の幸せを追及するのではなく、他者の幸せの中に悦びを見出し、自らが幸せになるように出来ていると思います。

前述の医師も、無償の治療の対価は、患者さんと悦びをシェアすることで、ちゃんと受け取っていると語っていました。



世の中を見渡すと、自分にはない、優れたところを持っている人たちで溢れています。

人知れず、社会のために尽力している人たちもたくさんいて、そのお陰で、世の中が少しずつ良くなっていると思います。

そんな人たちと知り合えるところが、この世の素晴らしいところだと思います。



あの世は、想いがありのままに表現される世界です。

嫌いな人とは、想いが通わないために、会うことはありません。

そんな、この世の煩わしさから解放された世界を、人は天国と言います。

そこでは魂の成長度が同じ、(魂の)同級生と言うべき人たちが集まって、お互いの想いを共有して生活しています。

気心が知れた人たちと共に、ゆったりと休日を過ごしているような感覚が、はるかに鮮明になった世界と言えるのかもしれません。

あの世に行くと、自分の肉体を養うための本能的欲求がありませんので、人のために生きようとする欲求、愛を表現しようとする欲求があらわになります。

いかなる次元においても、人(魂)が受け取っている生命力の根源は愛だからです。

しばらくは、生命力に溢れ、愛を実感する世界を、堪能していると思います。



いくばくかの霊的な知識を得た私は、苦しみや悲しみから解放されたあの世に、ずっといたいと思うようになりました。

あの世に行けば、なおさら離れたくなくなるはずですが、現実としてこの世にいるのは、どうしてだろうと考えてしまいます。

人は、現状には満足しない生き物のようです。

大変な仕事が続くと、休日が待ち遠しくなりますが、休日が長く続いてしまうと飽きてしまい、仕事のある普段通りの生活に戻りたいと思ったりします。

都会に住む人は、のんびりとした時間を過ごすために郊外へ出かけますが、長く滞在していると、街の雑踏が恋しくなったりします。

人は、楽しくのんびりとした生活が続くと、どこか物足りなく感じてしまい、つらくても何かに挑戦したり、変化に富んだ生活を望むようになるのかもしれません。

もしそうであれば、安らぎに満ちたあの世に長くいると、喧騒に満ちたこの世で、もう1度、自分を試してみようと思うようになったとしても、不思議ではありません。

今となっては思い出せませんが、生まれる前の私は、この世でしか出来ない、さまざまな経験を通して、自分を大きく成長させようと決意していたはずです。

あくまでも自分の意思で、この人生を選択していているはずです。

明確な目的があり、学ばなければならない教訓が、この人生にはあるはずです。



人はどうして、何かに挑戦しよう、つらい出来事があっても乗り越えようとするのでしょうか?

それは、自分を変えよう、成長させようとする想いがあるからです。

自然法則の働きにより、困難を乗り越えて行く過程において、自分(魂)は成長して行くからです。



自分を成長させようとする人には、その想いにふさわしい人生が立案され、この世に生まれる機会が与えられます。

より大きな成長を望んでいた人ほど、この世で立ち向かっていかなければならない困難や障害は、どうしても過酷なものとなります。

凶事や悲劇と呼ばれる出来事に遭遇すると、人は立ちすくんでしまいますが、それは不幸にさせるものではなく、自分を大きく成長させる大切な機会と受け止めるべきです。

不幸にしか思えないことにも、霊的な相応の報いが必ずあります。



この世があの世と違うところは、魂の成長度が同じ位の同級生だけではなく、より成長している「先輩」もいれば、まだこれからの「後輩」もいます。

年齢、肩書き、家族的序列、人種などは、この世だけのものであり、魂の成長度とは関係ありません。

親よりも子供、上司よりも部下の方が、魂の成長度で先輩に当たることは、良くあると考えられます。



この世で出会う人たちには、自分にはない優れたところがあります。

人の優れたところを見ないと、自分に足りないところや、変えなければならないところが自覚されないのかもしれません。

魂の先輩たちは、自分より高くて、強い愛を表現していると思われます。

自分が許せないことを許せたり、より自分を犠牲にして人のために尽くそうとしています。

強い意志で苦難を乗り越えていく姿、そこから大切なことを学んで行く姿を見て、触発され、自分も少しでも近づこうとする中で、魂は成長して行くのかもしれません。



魂の先輩たちに、共通していることがあります。

それは、謙虚さです。

私はシルバーバーチの霊訓から、真の謙虚さを学びました。

謙虚であればあるほど、自分の未熟さを痛感するため、そこから自分(魂)を成長させようとする強い意志が生まれるのかもしれません。

向上心よりも謙虚さが、成長して行くためには必要と言えるのかもしれません。

この世には、上には上がいます。

同級生ばかりのあの世よりも、一歩先を行く先輩たちを見れるこの世界は、魂の成長にとって好都合なのかもしれません。



同時に、魂の後輩たちもいます。

幼稚園児のサッカーを見ていると、とても面白いです。

ゴールキーパー以外は、全員がフォワードのように見えるからです。

意識がボールにだけ集中して、みんながボールをひたすら追いかけ、ゴールに入れることだけを考えています。

ところが、小学生になると違ってきます。

ボールだけでなく、周りの人も見ていて、ポジションを意識し、与えられた役目を果たそうとします。

幼稚園児の意識は自分にあり、小学生になると他者を意識するようになります。

自分がボールを蹴ってゴールをするよりも、仲間と協調しながらチームが勝利することを優先するようになります。

自分よりも、他者を優先するようになるのが、魂の成長と言えるのかもしれません。

大人になるに従い、個性はより明確になって来ますが、自分のことしか考えない、わがままな人もいれば、自分を犠牲にして人や社会のために生きている人もいます。

それは性格の違いではなく、魂の成長度(霊性)の差によるものと思われます。

魂の成長度の低い人は、時に神の摂理と一致しない、愛に反する言動をしてしまうために、周囲との間に不調和を引き起こしてしまいます。

われ先にとゴールを狙っている幼稚園児のような人であり、周りにいる人は、突き飛ばされて、怪我をしてしまうこともあります。



大きくなってから、幼稚園児のサッカーを観ると微笑ましくなります。

しかし、嘲笑したり、軽蔑したり、否定したりする人はいません。

自分にも、そんな時があったのを知っているからです。

地上の人は、完全には程遠い存在とシルバーバーチは言っているように、この世に生まれてくること自体、学ぶべきものがある未熟な存在である証拠です。

完全には程遠いこの世の人が、他の人の不完全さや未熟さを咎めたり、軽蔑したりするのは、過ちであると思われます。



外見は同じように見えても、魂の成長度は人により大きく違っています。

魂の未熟さから人は過ちを犯してしまいますが、因果律の働きにより、何かしらの苦痛を伴う結果(償い)が生じ、絶対的公正は保たれています。

自分の過ちを、痛い思いをしながら正すことになり、それを繰り返し人は成長して行くと思います。

今生で正されなかったのであれば、もう1度この世に生まれて、正すことになるかもしれません。



人を平気で傷つけたり、裏切ったりする人がいます。

魂の同級生と考えてしまうと、怒りや憎しみが生じてしまいます。

そんな人には、一段高い立場から魂の先輩として、過ちに気付かせる必要があると思われます。

協調性に欠け、わがままな人であっても、一歩先を行く人は、寛容となり見守ってやらなければいけないのかもしれません。

かつては自分もそうであったかもしれず、あたたかい目で見守ってくれたかもしれないからです。

後輩にとっても、先輩から大切なことを教えてもらったことになります。

あの世には、魂の後輩たちは周りにいませんので、この世に生まれてきた目的の1つは、寛容さを身に付けるためにあると考えられます。



あの世では、同じ想いを共有する人たちと生活しているために、争いごとは起こりません。

この世では、価値観や考え方が違う人たちと生活するために、時に争いが生じます。

争わないようにするにはどうすれば良いのかを、この世ならではの肉体的、精神的な苦痛を通して学んでいると思います。

全ての争いは、認め合うこと、許し合うこと、大きな意味での愛を表現することで、解決できることを学んでいると思います。



平和に満ちた世界を離れてでも、大切なことを学び、自分を向上させるために、あえてこの世に生まれて来たと思います。

さまざまな人に出会い、共に過ごす中で、自分に足りなかったもの気付き、身に付けて行くのかもしれません。

目に見えるものに囲まれた中で、この世にしかない経験を通して、目に見えない本当に大切なものを、見付け出して行くのかもしれません。



本当に大切なものは愛です。

さまざまな出会いや経験を通して愛を深く学び、肉体による制約を受けながらも全力で表現して、魂が大きく成長するために、この世に生まれて来たと考えられます。















2016年5月21日土曜日

お父さん、お母さんへ



お父さん、お母さん先に逝ってごめんね。
どうしても先に来なければいけなかったの。
私は、お父さんとお母さんの元に生まれて幸せだったよ。
二人も幸せだった?
こちらは、みんなが思っているより明るいところだよ。
みんな楽しそうにしているよ。
見せてあげたい。
集まってくれてありがとう。
みんな泣いていたけど、お父さんは悲しくなかったの?
私のために集まってくれるのは、何だか恥ずかしい。
まだ、生きているんだよ。
二人で黙ってじっとしているのは変だよ。
どっか二人で行って来てよ。
その方が、楽しいよ。
海でも行ってくれば?
砂浜を走るのは、楽しいよ。
好きなように、生きればいいんだよ。
無理しなくていいんだよ。
お父さん、花嫁姿を見せられなくてごめんね。
お母さん、二人でいろんなところに行けなくなってごめんね。
でも、お父さんとお母さんは、私に謝らないでね。
仲良くね。
また逢おうね。
私の素敵な、お父さん、お母さん。












2016年5月16日月曜日

霊的な意図を感じ取る



少し前の私は、死ぬのが怖かったです。

意識が消えて、無になってしまうと思っていたからです。

今は、死んだ後にも変わらず意識があり、あの世が続いているのが判っていますので、安心して生きられるようになりました。



若い時に 、思い悩んでいたことがありました。

人は何のために生きているのかが、判らなかったからです。

今は、さまざまな経験を通して学びながら、自分(魂)を成長させるために生きていることが、はっきりと判っています。



私は54歳なので、あと30年位は生きるでしょう。

この世での目的を無事に果たせたならば、死の扉を開けて、次の世界に進んで行くことが出来ます。

その時に、微笑みながら、この世に別れを告げられたらいいなと思っています。



多くの人たちは、物的に豊かで、できるだけ長く生きる人生を理想としているような気がします。

裏を返せば、物的に貧しく、短命であれば、不幸な人生と決め付けているのかもしれません。

しかし、それは明らかに間違っています。

お金や物など物的な豊かさは、死んでしまえば失われてしまう一時的なものです。

永続的な価値を持つのは、目に見えない霊的な豊かさです。

他者に愛を表現し、社会に奉仕をして身に付けていくものであり、それは魂の財産となり、死後も失われることはありません。



この世を早く去った人を、多くの人は哀れみますが、その必要はありません。

昔、学校で先生から課題が与えられて、済んだら終わりにして良い言われた時のことを思い出します。

勉強ができる友達は、さっさと済ませて、校庭に出て楽しそうに遊んでいました。

外に出て遊んでいる友達は、教室に残って課題に取り組んでいる私たちの様子を見て、頑張って課題を仕上げて、早く一緒に遊ぼうと思っていたでしょう。

死とは、肉体と言う重い鎧を脱ぎ捨て、自分本来の姿に戻ることであり、この世から次の世界に移行する自然現象です。

早く亡くなった人は、早々と課題を済ませ、校庭に出て行った羨ましい人であり、この世に残って課題に取り組んでいる人たちを見て、傍で応援しながら、あたたかく見守っていると思います。

長い時間をかけて、この世で学ぶ必要がなかった、言わば魂の特待生で、飛び級でこの世を卒業していったのかもしれません。



この世の人たちは皆、同じ課題を与えられ、同じことを学ぼうとしているのではありません。

学ぶべきものは、人それぞれ違っています。

学ぶものが違うのであれば、与えられた課題も違い、当然ながら辿る人生も違ってきます。

従って、他人の人生と、自分の人生を比較するのは、大きな間違いと思われます。

落ち込んだり、羨ましく思ったり、時に妬んでしまうと自分がつらくなってしまうのは、人と比べること自体が、神の摂理に反しているためと思います。



楽しく遊んで暮らせる人生が幸せであり、苦難の多い人は薄幸な人生と思われがちです。

学校で、遊んでばかりいた人と、苦労をして学んできた人では、後で笑うのはどちらでしょうか?

人生も全く同じであり、楽しく遊んでいる時には学ぶものはなく、苦難に立ち向かっている時に大切なことを学んでいます。

苦しんでいる最中には、生きるのに精一杯で判らないかもしれませんが、後に待ち受けている「この世の総括」で、大きく成長していたのがはっきりと判り、微笑むでしょう。

苦難を乗り越えて行くことで自分(魂)は成長し、大切な真実を手にするように、自然法則は出来ています。



私の知っている限り、あの世はこの世より、はるかに自由で快適な世界です。

あの世に行った人たちは、この世に残っている人たちを見て、同情的になっていると思いますので、この世の人が、自分のことを不憫に思っていると知ったならば、きっと当惑していると思います。

あの世について、もっと正しい知識が普及すれば、誤解は少なくなると思います。

しかし、この世の人たちに、あの世のことが明確に知れ過ぎてしまうと、課題を放り投げて、学ぶべきことを学ばずに、向こうに行ってしまう人がいるかもしれません。

そんな過ちを犯さないように、多くが知れないように、配慮されていると考えられます。



霊的な次元は、離れたところにある、遠い世界ではありません。

言葉で表現するのは難しいのですが、現実の1側面と考えて良いと思います。

例えば、美しい絵があったとします。

物として見れば、布地(キャンバス)にさまざまな色の絵具が塗られているだけです。

しかし、絵を観て、その中に美を見出し、心を動かされる時があります。

それは、人の最奥にあるものに、触れるものがあったからです。

物質を超えた何かを、最奥にあるものが、感じ取っているためと思われます。



心に響く音楽があったとします。

音楽は、周波数の異なる音が、さまざまな楽器や声を通して出ている音の集合体ですが、それを超えたものであるのは明らかです。

音を超えた何かが、旋律やハーモニーの中に込められていて、それが最奥にあるものに伝わり、共鳴していると思います。



絵や音楽は物質(物理)的なのものですが、込められているものは霊的なものであり、2つの面を持っていることになります。

本質はどちらかと言えば、もちろん霊的な面です。

正確に言うと、物質的な面は、霊的な本質を伝えるためにある媒体です。

絵や音楽を通して伝えたいのは、物質を超えた概念や想いであり、色も音もこの世で表現するためにある媒体です。

芸術を通して伝えたいのは、物質を超えた霊的なものであり、霊的なものが感じられない芸術に、存在価値はないのかもしれません。



言葉も同じです。

「ありがとう」は、感謝の気持ちを言葉で表したものです。

「ありがとう」という言葉には、音声としての情報と、発する人の想いが込められています。

店先で機械音声で「ありがとうございました」と言われて、何か伝わってくるでしょうか?

機械の声には想いが入っていないので、音声情報を発信しているのに過ぎません。

誰かに「ありがとう」と言われてうれしくなるのは、言葉の中に感謝の想いを感じ取った時だと思います。

やりとりする言葉も、物理的な音や言葉の意味を越えた、霊的な面を持っています。



人は、言葉などを媒体として、情報を交換しています。

同時に、目に見えない想いを、媒体を通して発しながら、受け取っています。

目に見えない想いは、霊的な存在である魂から生まれています。

私たちは物質の世界に生きているため、肉体という媒体を介して、自分の想いを表現しなければいけません。

この世の人は、魂から生まれた想いを、五感で認識できるように肉体で表現している、霊的な存在と言えます。



身の回りで起こる出来事も、目に見えない霊的な意味があります。

目に見える現実の世界と、目に見えない霊的な世界は表裏一体の関係と言えます。

しかし、世の中が唯物的になり過ぎたため、目に見える現実だけを見て、霊的な面を見なくなりました。

戦争は、現実だけを見ると、人を傷つけ、破壊する行為です。

しかし、霊的な面から見ると、怒りや憎しみや恨みの想いが原因で起きていると思われます。

そんな想いが生まれてしまうのは、人の想いを無視し、利己的な考えに捉われているためと思われますが、現実という結果だけに捉われていると、報復を繰り返すだけになってしまいます。



病気は、生物の正常な状態がそこなわれ、生命維持機能が阻害あるいは変化することと、百科事典には書かれています。

しかし、それは五感で認識できる病変、病態を表しているだけです。

多くの病気は、霊的な原因があると考えられます。

霊的な原因が、因果律の働きにより、肉体上に病変、病態として現れていると思います。

シルバーバーチは、霊と精神と肉体の一直線で結ばれ、3者の調和が取れた状態を健康と言っています。

霊は精神と肉体の上位にあり支配していますが、何らかの理由で、精神や肉体が優位になってしまうと、魂から生じている想いが表現されにくくなります。

その想いが摂理に反していて、溜まってしまうと、心身に不調和が生じ、病気として表在化されると考えています。

病気は、霊と精神と肉体の不調和により生じるものですが、苦痛を通して、魂を優位にさせて、調和の取れた関係に復元するために存在していると考えられます。



この世は、ありのままの自分を表現するのが難しい世界です。

快適とは言い難い世界に、私たちは執着して生きています。

臨死体験などで、あの世を垣間見た人たちは、生き生きとした、とても素晴らしい世界であったと言っています。

それは、肉体という媒体が取り払われ、ありのままの自分が表現される世界を、実体験したからだと思います。

そして、生かされている力(霊力)を、魂で感じることができたからだと思います。

想いが直接、相手に伝わるあの世は、言葉あるいは行動に変換して伝える、煩わしいこの世とは大きく違い、素晴らしい世界だと思います。

相手の想いが直接魂に響き、同じ想いで共鳴するため、この世では味わえない一体感が得られると思います。



想いの中でも、愛は強烈であり、魂は激しく共鳴します。

愛は、全宇宙を創造した心そのものであり、ばらばらに存在するものを1つにさせようとさせる力と考えられます。

受け取った者は悦びに満たされ、因果律の働きにより、他の誰かに分け与えようとします。

それを受け取った者は、悦びに満たされ、また誰かに分け与えようとします。

その連鎖が果てしなく拡がっていき、世界は愛という同じ想いで満たされ、1つになっていきます。

愛は人を動かしている神的なエネルギーです。

この世で愛は五感に触れるものではないので存在を疑う人がいますが、あの世は想いの世界であり、はるかに実感があるため、愛の存在を疑う余地はありません。



あの世では、自分がどんなに望んでいても、相手に同じ想いがなければ、逢うことは出来ません。

また、相手が望んでいても、自分に同じ想いがなければ、逢うこともありません。

人と人を結びつけるのは、愛という親和力です。

周りに同じ想いを、共有する人たちが集まって生活しています。

親愛の想いがない人や、想いが共有できない人との間に、接点がないので、嫌いな人、考え方の違う人と、一緒に生きなくても良いのです。



なぜそんな素晴らしいあの世だけでなく、苦しみや悲しみの多いこの世で、人は生活しなければいけないのでしょうか?

この世には、好きになれない人もいれば、考え方が違う人もたくさんいます。

あの世と違って、そんな人たちとも、一緒に生活をしたり、付き合っていかなければいけません。

同じ考えの人であれば、気心が知れるので平穏に過ごせますが、考え方の違う人とは、そんな訳にも行かず、意見が衝突してしまう時もあります。

衝突しないためには、自分の意見を控えて、相手の意見を認め、尊重してやらなければいけません。

日常でも、自分を殺して相手を活かす局面は多くあり、そんな自己犠牲の経験を通して、魂は成長して行くと思われます。



子供の頃は、自分のことだけを考えれていても良かったのですが、社会に出ると、顧客そして組織のことを優先して考えなければいけなくなります。

家庭に入っても、自分のことよりも、家事や子供のことを優先しなければなりません。

現実として、人は働かなければ生活を維持して行くことが出来ませんが、それは家族や会社のために、自己を犠牲にして、奉仕していることになります。

働くことは、奉仕であるため、魂の成長につながるという霊的な面があります。



人はこの世で、さまざまな経験をします。

その経験から、さまざまな想いが生まれていて、何らかの形で表現しようとします。

もし、人に傷つけられたり、裏切られたのなら、強い怒りや憎しみの想いが生まれしまうかもしれません。

その想いを外に向かって表現すれば、攻撃的なものとなり、争いが起きてしまうかもしれません。

かと言って、表現をせずに想いを溜めてしまうと、心身に不調和が生じて、病気になってしまうかもしれません。

どちらにせよ、苦痛を味わうことになってしまうのは、その想いが神の摂理に反しているためと思われます。

苦しみから解放されるには、人や出来事を許して、想いを解放しなければいけませんが、許そうとしても、許せるものではありません。

苦痛には、自分(魂)を成長させるという、霊的な意味があります。

魂の成長に伴って、許せなかったことが許せるようになり、溜まっていた想いが解放されて、苦しみから解放されます。

ひどい仕打ちをされれば、許せずに苦しんでしまう時がありますが、そんな嫌な出来事も、霊的な面から見れば、魂を成長させてくれた貴重な経験と言えます。



人生には悲しみが付き物です。

最愛の人を喪った悲しみを超えるものはありません。

喪ったことで、悲しみは生じますが、そこに愛が存在していなければ、悲しみは生まれません。

愛が喪われたと思うと、悲しみが生まれてしまいます。



肉体は失われても、魂は不滅です。

愛は魂から生じているものなので、肉体で表現する手段はなくなっても失われていません。

こちらの愛する想いは、伝っています。

そして、向こうからも愛されています。

肉体を失い見えなくなってしまった人の愛を信じられないと、悲しみや苦しみが生まれてしまうのかもしれません。

信じてもらえないほど、人を悲しませるものはありません。

悲しんでいる時は、向こうの人を悲しませているのかもしれません。



肉体の喪失は確定された事実ですが、生命は失われていません。

この世とあの世にいる両者の関係は、生前のままです。

目に見えない、声が聴こえない、触れられない寂しさは、耐え忍ばなければなりませんが、魂の存在を信じ、亡くなった人から今も愛されていることを、心から信じられたならば、悲しみや苦しみから解放されるのかもしれません。

亡くなった人を、また愛することができるからです。

愛はすべてを乗り越えて、両者は再びつながります。

かけがえのない人は、死によって信じることの大切さ、愛することの大切さを、教えているのかもしれません。





深刻な出来事ほど、魂を目覚めさせ、想いに気付き、意識しない深いところで、真実に気付いたり、大切なことを学んでいると思います。

この世の出来事には、自分(魂)を成長させ、想いを共有して1つにさせるという、霊的な意図があると思います。