2016年1月1日金曜日

最も大切で美しいもの



私が高校生の時のことです。

冬、こたつでうたた寝してしまい、気付いたら真夜中でした。

テレビが付けっ放しになっていて、一昔前のモノクロの洋画をやっていました。

どんな題名の映画かも分らず、寝ぼけながら観ていましたが、そこに出ているヒロインがあまりにも可愛いらしく、輝いていたので、すっかり目が覚めてしまいました。

「世の中には、こんなきれいな人もいるんだ!」と思いながら、最後まで観てしまいました。



映画の題名は「ローマの休日」で、ヒロインはオードリー・ヘップバーン(以下オードリー)です。

言わずと知れた、20世紀を代表する女優の一人です。



「ローマの休日」は生まれる前(1953年)の映画であり、私が大きくなった時には、もう映画には出ていなかったと思います。

時がさらに過ぎ、90年代の初めでしょうか、ユニセフのテレビコマーシャルの中で、彼女を見かけました。

映画に出ていた時のイメージとは全く違い、平服で、化粧もせず、顔にはしわが刻まれて、その瞳に憂いのようなものを感じました。

年を取ったと言えばそれまでですが、スクリーンの印象があまりにも鮮烈だったために、幻滅とまではいかないまでも、少しがっかりしてしまった覚えがあります。

いくら綺麗な人であっても、美しさに翳りが出て、女優としての価値は低くなり、すでに財産も十分にあるので引退し、余暇を慈善活動に当てているのだろうと思っていました。



事実は全く違っていました。

真の意味で美しい女性でした。



オードリーは1929年、ベルギーのブリュッセルで生まれます。

生後6週間後で悪性の百日咳にかかり、呼吸停止にまでいたりましたが、お尻をたたかれ息を吹き返したそうです。

幼い頃から母親に「あなたは特別な人間じゃないのよ」と、よく叱られ、目立つことはしてはいけないと戒められて育ったそうです。


あの明るい笑顔から想像すると、さぞかしあたたかな家庭で育ったと思うかもしれませんが、決してそんなことはなく、後々まで人生に影響を及ぼす出来事が幼い時に起こります。

6歳の時に、尊敬していた父親が家族を捨て、家を出て行ってしまいました。

彼女にとって、それは大変ショックな出来事であり、毎日のように、父親が帰ってきて、抱きしめてもらうことを願っていたそうです。

しかし、その願いが叶うことは、最後までありませんでした。

10歳の時のオードリー


その後、世の中は大戦へ向けて突き進んで行き、希望に満ちたとは言えない少女時代をオランダで過ごします。

いざ戦争が始まると、オランダは早期にドイツ軍に支配され、何も食べるものがなくなって、兄弟は犬用のビスケットを食べ、チューリップの球根を食べる人もいたそうでうす。

戦争末期になると、食料品はすべて軍隊に回されたため状況はさらに悪化し、住民の食料は底をつき、オードリーは極度の栄養失調で餓死寸前だったと、後に語っています。

ようやく戦争が終結して、赤十字とともに「アンラ」という組織が街にやってきて、人々に食糧と、医薬品と衣服が配給され、オードリーも渡されたチョコレートを全部食べたそうです。



年端もいかないころからプリマ・バレリーナに憧れ、レッスンを受けていましたが、本格的にバレエを習うために、18歳の時に母親とともにロンドンに移り住みます。

そこで傑出したバレエ教師として名高かったマリー・ランバートという人と出会い、レッスンに打ち込みます。



ある日、マリーに「このまま技術を完全にマスターすれば、プリマ・バレリーナになるチャンスが巡ってくるでしょうか?」と聞いたそうです。

マリーは非常にやさしく「あなたは私が教えた中で最高に優秀な教え子のひとりで、セカンド・バレリーナとして、他の生徒たちをはるかにしのぐキャリアを積むことができるでしょう。」と言われたそうです。

セカンドバレリーナとはプリマ・バレリーナを補佐する役目であり、バレエの世界では主役になれないことを意味しました。

「私の夢はどうなりますか?」打ちのめされたオードリーは聞き返したそうです。

これからどんな厳しい練習をこなしても、体格をつくるべき重要な年齢は過ぎてしまっていて、もう取り返しがつかなかったそうです。

背が高かったこともありますが、戦時中に過酷な日々を送ったオードリーは十分な栄養を摂ることができなかったために、筋肉の発達が阻害されてしまい、適切な栄養を摂取でき、十分な練習を積むことができた他のバレリーナに太刀打ちが出来なかったのです。

つまり、戦争が彼女から夢を奪ったと言えます。

帰宅して、部屋に閉じこもってひたすら「死んでしまいたい」と思ったそうです。



最高のバレリーナになれないなら、別の分野でなれるだろうと、気持ちを切り替えます。

けれども当面の生活をどうやって支えるかが問題であり、モデルの仕事を始めることになり、そして俳優の仕事をするようになりました。

彼女にとって俳優は、幼い時からの夢が破れ、やむをえない選択だったのですが、バレエと同じ様に、一生懸命がんばること、規律正しく取り組むこと、プロ意識を持つことを心に決め、いくつかのミュージカルと映画の役者として出演しました。



ある映画の撮影で南仏にいた時、撮影隊と同じホテルに宿泊していたコレットと言う人に出会いました。

コレットはフランスの有名作家であり、「ジジ」(フランスの少女の物語)という芝居の準備のために南仏を訪れ、脚本家とプロデューサーの3人で主役を演じる女優を探していたそうです。

コレットはオードリーの姿を見つけ、こう宣言したそうです。

「ジジを見つけたわ!」

頭の中で生み出した人物が、肉体を持った人間として突然目の前に現れたと思ったそうです。

その日のうち、コレットはブロードウェイに出演してほしいと、オードリーに申し込みます。

いつしかメイクアップの助けを借りなくても、すばらしい輝きを見せるスターになるに違いないと思ったそうです。

1951年、ブロードウェイの舞台で「ジジ」を演じ、成功を収めます。

その2年後、「ベン・ハー」などを手がけた、巨匠ウィリアム・ワイラー監督が、「ローマの休日」(1953年)のヒロインのオーディションを行いました。

そこに現れたのがオードリーであり、役どころ(王妃)の全てを兼ね備えているのに驚き、すぐに抜擢したそうです。
 



 

 
 
『ローマの休日』に主演した頃(1952年)




それまでにいなかったヒロインの登場により、世界中の人たちは魅了され、映画は大ヒットして、その年のアカデミー主演女優賞を受賞します。

バレリーナの夢が絶たれてから、わずか5年で映画女優として頂点に立ちます。

1年後に、「麗しのサブリナ」(1954年)に主演し、映画スターとしての地位を確立します。

その後も数々の映画に主演し、高い評価を受けます。



私が観た映画に「ティファニーで朝食を」(1961年)がありますが、その中で彼女が「ムーンリバー」という曲を唄っていたのが印象に残っています。

声量に恵まれているわけではありませんが、その切ない歌声が郷愁を誘います。

作曲者であるジョニー・マーサーは、今まで1000以上のバージョンでこの曲が歌われたが、彼女以上に曲を理解し、感情を込めて歌った人はおらず、文句なしに最高だと言っています。

ところが、パラマウント映画の社長が、試写をした時に、その歌の部分をカットしろと言い、そこにいたオードリーは席を立ち上がり、怒りの感情を露わにして、周りの人を驚かせたそうです。

周囲に怒りを見せたのはこの時くらいであり、普段はとても謙虚で、控えめな女性だったと言われています。



ある日、オードリーは「アンネの日記」の出演依頼を受けましたが、頑なに断ったそうです。

オードリーはアンネの日記を読んで、こう感じたそうです。

「同じ年に生まれ、同じ国に住み、同じ戦争を体験した。ただ、彼女は家のなかに閉じこもり、わたしは外にいた点だけが異なっていた。(彼女の日記を読むことは)わたし自身の体験を彼女の観点から読むことに似ている。わたしの胸はそれを読むことによって引き裂かれた。二つの部屋から一歩も外へでられず、日記を書くことしか自己を表現する手段を持たなかった思春期の少女。彼女が季節のうつろいを知る方法は、屋根裏の窓から一本の木をのぞき見ることだけだった。住んでいたところこそ同じオランダの違う町だったが、わたしが体験したすべての出来事が彼女の手で信じられないほど正確に描かれていた。(中略)外の世界で起きていたことだけでなく、大人になりかかった若い娘の心の動きまで。彼女は閉所恐怖症だったが、自然への愛、人間性の認識と、生命への愛、深い愛によってそれを乗り越えている。」

実際にユダヤ人がナチスに捕らえられたり、殺されたりする様子を見ていたオードリーは、自分と同じ国に住み、生まれた日もわずか1ヶ月ほどしか違わないアンネに、強い親近感と哀悼の意を持ち続けていたと思われます。

断った理由は、アンネの一生を演じて、自分が利益(報酬や賞賛)を得たりする気には、とてもなれなかったからです。

そして、「アンネ・フランクの思い出が現在も将来も永遠にわたしたちとともにあるのは、彼女が死んだからではなく、希望と、愛と、とりわけすべての許しの不滅のメッセージをわたしたちに残すのに充分な時間を生きたからなのです。」と言っています。



ショービジネス界では人も羨むような賞賛と栄誉を手に入れますが、彼女にとってそれほど魅力的なものではなかったようです。

華やかな世界にいましたが、実はきわめて家庭的な女性でした。

あたたかな家庭を持つことに憧れて、2度結婚をしましたが、残念ながらうまく行きませんでした。

しかし、夫との間にできた二人の子供にとっては、最高の母親であったようです。

女優業を潔く引退し、スイスにある自宅で家族とともに時を過ごします。

平凡な日々に十分満足し、仕事の情熱を注ぎ込む時期は終わったと周囲の人は思ったそうです。



家庭人として穏やかな日々を過ごしていた1987年のある日、ユニセフが主催する募金コンサートにゲスト出演の誘いが来ました。

彼女は、2つ返事で受けたそうです。

なぜなら、戦争が終わり、彼女が支援を受けた「アンラ」という組織は、ユニセフの前身であり、その時の恩返しができると思ったからです。

コンサートの中のスピーチで、「世界中の子供たちが飢えや病気、戦争の犠牲になることなく、幸せに暮せるように努力することが、私たち大人の役割である」とオードリーは訴えて、聴衆の心を動かし、それを聞いていたユニセフの理事から親善大使を依頼され、年棒1ドルで引き受けることになります。

彼女は、これこそ私が今やるべきことと思ったそうです。



翌年、大使としてエチオピアに向かいましたが、想像していた以上の惨状を目の当たりにします。

昨日、笑いかけていた子供が、次の日には目を閉じて冷たくなっているという経験をする度に、涙を流したそうです。

栄養失調で4人に1人の子供が亡くなるという現実を、世界の人に現状を伝えなければならないと、強く思ったそうです。

テレビや新聞のインタビューに積極的に応じ、講演活動を通して、現状を訴え続けました。



ユニセフでの演説(1992年)

この世の中で、飢えた子供、病んだ子供を救うためには、まず、食糧や薬を手に入れるためのお金が必要です。

彼女自身も、年100万ドルの寄付をしていたと言われていますが、女優としてのキャリアは強力な武器となり、抜群の知名度が活かされることになります。

アメリカの議会で1回スピーチをして、エチオピアへの支援の予算が6000万ドル増額されたそうです。

国家の要人や、経済界の大物も、私と同じ様にスクリーンに映るオードリーに魅了された人も、きっと多かったと思います。

もしそうであれば、彼女に寄付を頼まれたなら、無下には断れません。

日本でも、ほとんどの人は彼女のことを知っていたので、ユニセフのCMを見て関心を持ち、貧困国の現状を知り、寄付をした人も少なくないと思います。

一人の人間の無償ともいえる奉仕により、世界中の人々が子供たちの悲惨な現状を知り、それにより莫大な寄付が集まり、その寄付により数え切れないほど多くの子供たちの命が救われたと思われます。

映画で共演した男性俳優は、彼女をこう褒め称えています。

「オードリーの人生は2部構成であり、前半ですべてのものを手に入れ、後半は手に入れたものをすべて(社会に)還元した」



彼女のことを知るにつれ、ついこんなことを考えてしまいます。

一人の天上の魂が、地上でおなかを空かし、涙を流している子供たちを見て、何とかしてやりたいと強く願いました。

その願いは神により叶えられ、一人の女性として地上に生まれます。

与えられたのは、誰をも引き付ける美貌であり、好感を持たれる性格です。

彼女の輝くような笑顔は、女優としての名声や富を手に入れるためではなく、飢えや病気に苦しむ子供たちを救うためにありました。



戦争の恐怖と飢え、別離そして挫折・・・人生で起きたつらい出来事は、崇高な目的を果たすために、どれも必要なものでした。

1つ1つの出会いは偶然ではなく導きによるものであり、何一つ欠けても目的地にたどり着くことは出来ませんでした。

無事に目的地にたどり着けたのは、周りに流されることなく、自分(魂)に正直に生きて、導きに素直に従ったためです。



飢えや病気に苦しむ子供たちに、あれほどまでに寄り添うことができたのは、自らが戦争を経験して長い間、空腹を味わったからです。

夢や希望を喪った子供たちの悲しみを理解できたのは、有り余るほどの才能を持ちながら、時代に翻弄され、バレリーナの夢を断念せざるを得なかった経験があったからです。

子供たちの中に、食べ物では癒せない心の飢えがあるのに気付けたのは、父親に見捨てられ、抱きしめてもらうことが出来なかった、愛情の飢えが自分自身にあったからです。
 


ソマリアの難民キャンプでのオードリー(1992年)
 


子供たちの姿に、過去の自分を見出しました。

子供たちが流す涙は、過去の自分が流した涙です。

過去のつらい出来事は、子供たちの想いを、我が事のように感じ、共有するためにあったのです。

想いを共有できたからこそ、子供たちのために全身全霊で困難に立ち向かって行くことができました。



すべての出来事は一直線につながり、子供たちを救うという目的地に向かっていました。

もし、彼女が女優になるために生まれてきたのならば、頂点まで上り詰めた瞬間に目的の大半は達成されますが、人も羨むような名声を手にしても決して満足しなかったのは、さらに高いところに目的地があったからです。

飢えに苦しむ子供を抱きしめた瞬間、魂の奥に仕舞われていた約束を思い出します。

子供たちの笑顔を取り戻すという約束を。



オードリーはどんなことにもまして、ひとつのことを信じていたそうです。

それは愛です。

愛は人を癒し、救い、立ち直らせ、最終的にすべてを良い方向に変えてくれると信じていたそうです。



女優として世界中の人々に与えた喜びや愉しみは計り知れませんが、子供たちに与えた愛はそれをはるかに凌ぐ価値を持っていると思います。

集まった寄付以上に大切だったのは、恵まれている人が恵まれない人のために行動するという、チャリティーの精神であり、それは世界中に広がり、後世にしっかりと受け継がれました。

自分の生き方を見せることで、人にとって何が大切か、幸せかという問いを投げかけていました。

多くの人が追い求めている富や名声では幸せになれず、人を愛することで手に入れられることを、子供たちに向ける美しく、やさしい笑顔で示してくれました。

真の幸せを、子供たちの笑顔や喜びの中に見つけていました。

誰からも愛された人は、誰よりも人を愛していました。

人へ向けた想いは、神の摂理の働きにより、自分に戻って来ます。



エチオピアの子供と(1988年)





美しい花々に囲まれた自宅で家族に囲まれ、63歳で彼女はこの世の幕を閉じます。

少し短い一生のような気がしますが、生まれて来た目的は十分に果たしたと思います。

魂が肉体を旅立つ時、微笑んで、眼の縁に小さな涙の滴がたまって、ダイヤモンドのように光っていたそうです。

きっと、力及ばず助けられなかった大勢の子供たちが、オードリーがあの世に来るのを待っていて、子供たちの姿を見つけた時の、悦びの涙だと思います。



オードリーがこよなく愛した文章があります。

作者はサム・レヴェンソンという人で、孫娘が生まれた時に宛てた手紙に書かれていたものであり、彼女はこの世で最期のクリスマスイブに家族のために読んだそうです。

題名は「ときの試練によって磨かれる美」です。


『魅力的な唇になるために、やさしい言葉を話しなさい。
愛らしい目を持つために、人の良いところを探しなさい。
おなかをすかせた人に食べ物を分けてあげれば、身体はほっそりするよ。
1日1回子供が指で梳いてくれれば、髪はつややかになる。
決してひとりで歩いていないことを知っていれば、
弾んだ足取りで歩けるはず。
お前の未来のために伝統を残しておこう。
愛情をこめた人のやさしい慈しみは、けっして失われることがない。
物は壊れたらおしまいだけど、
人は転んでも立ち上がり、失敗してもやり直し、生まれ変わり、
前を向いて何回でも何回でも何回でもあらたに始めることができる。
どんな人も拒絶してはいけないよ。
助けがほしいとき、必ず誰かが手を差し伸べてくれることを覚えておきなさい。
大きくなればきっと自分にもふたつの手があることを発見するだろう。
一つ目の手は自分を支えるため、もう1つの手は誰かを助けるため。
おまえの「すばらしき日々」はこれから始まる。
どうかたくさんのすばらしき日々を味わえるように。』




自宅の庭にて(1969年)






引用した主な資料
 
『Audrey Hepburn   母、オードリーのこと』   ショーン・ヘップバーン・フェラー著(竹書房)

『オードリー・ヘップバーン』  バリー・パリス著 (集英社)

           
           























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