2016年1月17日日曜日

ありのままで生きる



仕事が休みの日には、障がい者施設にボランティアに行っています。

ボランティアと言っても、一緒に遊んだり、話し相手になっているだけです。

行くといつも喜んでくれてうれしいのですが、自分も教えてもらうことがたくさんあります。



そこにゴンちゃんと呼んでいる子(といっても20代後半の男性ですが)がいて、良く話をします。

詳しくは知りませんが、おそらく出産時の難産が原因で、酸素が行き渡らなかったために、脳の神経が大きなダメージを受けてしまったと思われます。

歩くことは全くできず、かろうじてスプーンを保持して、口元に運ぶ程度の身体的機能しか残されていません。

目もあまり見えておらず、精神年齢は4,5歳程度と思われ、少し難しい話になると理解できません。

多くの入所者は、車いすで生活をしています。

車いすには大きく別けて2種類あり、腕により車輪を回転させて、自力で移動する一般的な車いすと、全身が不自由なため介助者により移動させる車いすがあります。

ゴンちゃんの障がいは重いため、車いすは移動に介助が必要なものであり、寝る時以外は、いつもその上にいます。

昼食時に、ゴンちゃんの介助をすることが多かったのですが、私の役目は、おかずを小さく分けたり、つぶしたりしたり、スプーンに食べ物を載せることです。

身体が不自由なゴンちゃんにとって、食事は大きな楽しみであり、献立を繰り返し聞かれ、出された食事をいつもおいしそうに食べ、残すことはありません。

自分に残された機能で、一所懸命に食べる姿を見て、いつも立派だと思っています。



目が見えなくなると、周囲の気配を察知するために、代償的に人の聴覚は敏感になります。

同様に、身体や頭脳の働きが弱くなると、魂が優位となって、人から伝わる想いに敏感になると思われます。

ゴンちゃんは興味深い話も聞かせてくれて、夜、部屋の電気を消すと、亡くなったお父さんとおじいちゃんが、傍にいるのが判るそうです。

動いたり、考えたりすることは苦手で、眼も良く見えませんが、その分、霊的な感覚は鋭敏になり、亡くなった人の姿が見えたり、人の想いをしっかりと感じ取っていると思います。



ゴンちゃんの生まれて来た目的は、自分のやりたいことをするのではなさそうです。、

どのような理由(原因)があって、このような身体で生まれてきたのかは判りませんが、健常者では得られない体験を通して、生涯をかけて何か大切なことを学んでいると思います。



ゴンちゃんの頭脳はダメージを受けたため、文字を読んだり計算をしたりすることは出来ません。

大人になるのに従い生まれてくる打算や偏見はなく、幸か不幸か、嘘もうまくつけません。

また、体裁を繕ったり、見栄を張ったりするなど、見せかけの自分を作ることも出来ません。

ありのままの自分で、生きるしか出来ません。



話は変わりますが、小中学校の同級生であり、仕事上の付き合いも長い友人がいます。

饒舌であり、強気で負けず嫌いな性格です。

彼は、歯医者が発注した義歯を作成する歯科技工士をしていますが、妥協を許さない仕事ぶりに、私は全幅の信頼を置いています。

月に数回、依頼した義歯の製作についての確認や打ち合わせのために、会っていました。



ところが、約2年前の冬のある日、交通事故で彼の長男が突然亡くなりました。

その日を境に、顔を合わすことはなくなりました。

仕事のことで、こちらから連絡を取ろうとしても、留守録になっていて、しばらくすると別の人から用件を聞く電話が入ります。

仲の良い幼馴染とも連絡を取っておらず、誰とも会いたくないのだと思いました。



去年の12月、事故から約2年経ったある日、ばったりと顔を合わせる機会がありました。

一瞬、目が合った後、言葉を交わすこともなく、その場から離れて行きましたが、以前と様子が違って見えました。

強気なところは失せて、張りつめていたものがなくなっていたように見えました。



どなたかのブログで、親を亡くすと過去を失い、配偶者を亡くすと現在を失い、子供を亡くすと未来を失うと書かれていましたが、将来の大きな希望が無くなってしまったために、元気がなくなり、そう見えたのかもしれません。

経験のない私には良く分りませんが、子供を喪う以上の悲しみは、この世に存在しないのではないかと思います。

どんな想いで、この2年間、過ごしてきたのか知る由もありません。



友人の存在を確認できたのは、届けられる義歯だけです。

届けられる義歯は、以前と全く変わりない、質の高い義歯です。

彼の作る義歯は、装着する時に調整が少なくて済み、とても丈夫に作られていて、壊れることはほとんどありません。

患者さんにとっても、義歯の出し入れがし易く、食事の際にも痛くなく、繊細な配慮が行き届いています。

歯医者にはうれしく、患者さんには優しい義歯です。

人の手によって作られるものは、作る人の性格が表れ、想いが込められていると思います。

彼の作る義歯にも、彼の性格が反映されている気がします。

会って話をすると、饒舌で強気な性格のように多くの人が感じていると思いますが、本当はとても繊細で優しい性格だと思います。



では何故、強気なところを見せているのでしょうか?

私には強気なところを見せて、繊細で優しい自分を守っているように感じます。



この世には、さまざまな人がいます。

中には、平気で人の心を傷つける人もいます。

特に、無防備な子供の時に、傷つけられてしまった人は、とても多いと思います。

心を傷つけられると、精神的な苦痛を伴うので、それを避けるために、無意識に自分を守ろうとします。

性格的特徴と思っていた強気な面は、彼自身が作り上げたバリアみたいなものであり、必死に自分を守ろうとしていたのかもしれません。

昨年末、友人に会った時に感じた違いとは、覆っていたバリアがなくなり、素の自分が出ていたためと思いました。

人を避けていたのは、繊細で優しい自分が傷つけられるのが怖かったのかもしれません。



繊細で優しい性格は、彼の美徳であると、私は思います。

なぜなら、思いやりや、優しさを表現すれば、人が喜び、自らの霊的な成長を促すからです。

しかし、この世では、繊細で優しい性格を前面に出すと、そのような美徳を持ち合わせない人から、傷つけられてしまうことがあり、外面的性格を作りあげて自分を守ろうとしている人は、たくさんいると思います。

自分自身で作り出した、鎧のような外面的性格が、優しい想いを表現する妨げとなっていて、彼の成長に大きな障害となっていたのかもしれません。

深い悲しみは、魂の琴線に触れ、目覚めさせると言われますが、目覚めると同時に、周りに張り巡らされていたバリアが解かれたのかもしれません。

魂にまで響くような出来事に遭遇すると、昔の自分には戻れないと言う人がいますが、それは昔の自分のさらに前の、本来の自分の姿に戻っているのかもしれません。



ゴンちゃんは表現の自由を失いました。

友人は子供を喪いました。

不幸の極みとしか映りません。

しかし、霊的な次元から見れば、この世の出来事は別の様相を呈してきます。

何かが変わり、何かを見出すことが出来たのなら、その出来事は少なからず意味を持つことになります。



ずいぶん前のことですが、東名高速道路で飲酒運転のトラックに追突され、乗っていた車が全焼し、幼いお子さん二人を亡くされたご夫婦がいました。

炎上する車内に取り残された子供たちを、なす術もなく、そばで見ているしかなかったそうです。

ご両親も事故で大きな火傷を負われましたが、このような悲劇が2度と起きてはならないと思い、同じ飲酒運転(加えて無免許で無車検)で一人息子を失った遺族とともに、社会に働きかけて、世論を動かし、国会で道路交通法の罰則が強化されて、危険運転致死傷罪が新設されました。

この法律により、飲酒運転という愚かで恐ろしい行為は減り、世の中の片隅で泣く被害者は、間違いなく減ったと思われます。

これは、子供の死を無駄にしたくないという、ご遺族の切実な想いがあったために、成し遂げられました。

亡くなった人は、2度と戻っては来ません。

しかし、その死は無駄にならずに、大きな意味を持ったことになります。

子供の死を、暗く、不幸な出来事として終わらせずに、世の中を明るく、幸せにするために、活かせたと思われます。

子供を喪った悲しみが、消えるわけではありませんが、あの世にいる子供たちにとって、自分たちの死により、この世で嘆き悲しむ人が少なくなったのは、とてもうれしいことであり、その想いは魂でつながっている、ご両親に伝わり、きっと癒やされたと思います。



友人の長男の死により、世の中が何一つ、変わったわけではありません。

しかし、少なくても友人を変えたと思います。

単なる不幸として終わっていないと、私は考えます。



あの世から、この世の人の想いは、手に取るように判ります。

あの世にいる長男は、この世ではガミガミとうるさいことばかりを言っていた父親が、実は繊細で優しい人だと知って、驚くとともに喜んでいると思います。

なぜなら、あの世に行って、思いやりと、優しさが、最も尊ばれ、価値を持つことを知ったからです。

自分が死んでしまって、すごく悲しませてしまったけど、お父さんを包み込んでいた余分なものが取れて、本当の想いを素直に表現できるようになったのであれば、それをうれしく感じているに違いありません。

何で素直に良いところを見せられないのか不思議に思っていて、他の人にも早く知ってもらいたいと願っていると思います。



障がい者施設のゴンちゃんは、自分を守る術はなく、肉体的にも精神的にも、いつも無防備な状態です。

しかし、自分を守るものがなく、ありのままでいても、傷つける人は誰もいません。

それどころか、周りの人たちが、生きるのを常に助けてくれています。

そのような暮らしを何十年も続けていれば、過去にどんな出来事があったとしても、人は信用するのに値する存在であり、心を許しても良いことが判ってくると思います。

全生涯をかけて、学んだことを、今度は身体を存分に使って、思いっきり表現する、すばらしい人生が待っていると思います。



この世で、不幸としか思えない出来事は、ありのままの自分にさせる力を持っているようです。



人の本質は、肉体ではなく魂です。

魂は、死によって肉体から離れて、真の生活が始まります。

そこでの生活は、覆い隠すものは何もなくなり、丸裸になって、周りに自分(魂)の全てが知られてしまいます。

この世の地位や肩書き、外面的性格は通用せず、ありのままの自分でしかいられなくなります。


ありのままに生きるとは、自分の考えた通りに生きるのではなく、自分の想いに素直に従って生きることだと思います。

頭で考えて行動するのではなく、内から湧き上がる想いに忠実に生きることです。

ありのままの自分で生きた方が良い大きな理由は、あの世に行くと、ありのままでしか生きられず、そして、生まれる前に決めていた人生の通りに生きることが出来て、この世に生まれた目的を果たすことにつながるからです。



すべての出来事は、自然法則の働きにより、支配されています。

苦しい思い、悲しい思い、つらい思いのまま、全てが終わりになってしまうのではなく、自然法則の働きにより、その先で、必ず報われるようになっています。

地上的なものを喪ったと同時に、必ず霊的な成長を得られるようになっているからです。

神については、数千年も前から、たくさんの人により説かれてきましたが、あまりにも大きな存在であり、全体像を掴めた人など存在しません。

全然信じていなかった私が言うのもおかしいのですが、神も仏もない、神に見捨てられた、神を恨んでいる人ほど、後に全容が明らかになり、自然法則の働きにより不公正、不平等が一切存在しないのが判った瞬間、思わず何者かに向かって、深く感謝したくなると思います。

その何者かが神であり、大きな愛を感じずにはいられなくなると思います。



もし友人に、こんな話をしたのならば、おまえは経験したことがないから、そんな好き勝手なことを言えるのだと、怒鳴られるかもしれません。

どれほど涙を流したのか、どれくらい悲しい、悔しい、苦しい想いをしたのか、私には判りません。

しかし、幸運にも、友人のまだ知らない、いくばくかの霊的な知識を持っています。

今は何のことだか判らなくても、時を経て、その知識により、光が差し込み、悲しみが癒されるのであれば、どのように思われようとも、しっかりと伝えたいと思っています。

友人にこそ必要な知識であり、向こうにいる彼の子供がどうしても伝えたいことだと思うからです。



















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