2016年3月27日日曜日

因果律の働きを知って



現在、私は歯科医師をしています。

10年前のある日、私の元に一通の文書が届きました。



仕事を監督する機関からのものであり、そこには私の保険の請求に問題が認められたため、行政指導を行う旨が書かれていました。

ほとんどの医療機関は保険診療を行っており、患者さんの診療内容に応じて、支払い元に請求を行います。

指導とは、保険の請求が適切に行われているかを審査し、問題があれば改善を促すものですが、最悪の場合には、保険診療が出来なくなる保険医の取り消し処分が下されます。

もし、保険医の取り消し処分が下されれば、事実上、廃業に追い込まれるのがほとんどであり、医療従事者であれば誰もが怖れています。

けれども、悪いことをしたという意識は少しもなかったので、どこかに不備が見つかったとしても、注意されて終わるだろうと考えていました。

ところが、指導を受ける準備のため、カルテ等の資料を良く調べてみると、行ってはいけない請求もたくさんあったことが判明しました。

そのことを、とても悔いると同時に、発覚して咎められた時のことを考えると、とても不安な気持ちになりました。

指導を受ける当日の朝は、まるで裁判を受ける被告人のような心境であり、緊張すると共に、惨めな気持ちになりました。

いよいよ指導が始まりましたが、怖れていたことが現実となり、それを追求され、正当な釈明が出来ないため、疑義は深まっていきました。

約1年に渡り、指導が繰り返され、これまでいかに決まりごとを守らずに、いい加減に生きてきたかを思い知らされました。

そして、当初の予想とは全く異なり、最も怖れていた保険医の取り消しという処分が、私に下されました。

地元の新聞の3面記事に名前が載り、当然のことながら歯科医師として信用は大きく失墜し、それまで通って来ていた多くの患者さんが、私の元から離れていきました。

従業員にも多大な迷惑をかけたため、信頼関係は大きく崩れて、職場の雰囲気は一変しました。

家族にも、心配をかけた上、恥ずかしい思いをさせて、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

今まで築き上げたものが、一瞬にして崩壊したような気がしました。

仕事に関しては、私なりに力を入れてやってきましたので、不名誉な処分を受けた挫折感、屈辱感は相当なものでした。

そして、これから先、どうやって生活していけばいいのだろうと、絶望的な心境になりました。

この出来事により、多くのものを失うことになりました。



その中で、手にしたものがありました。

それは、シルバーバーチの霊訓に書かれている「霊的真理」です。

窮地に追い込まれ、多くのものを失わなければ、きっと手にすることはなかったと思います。



霊的真理の中でも、当時の私の心に突き刺さったものは「因果律」でした。

仏教で言う「因果応報」であり、聖書では「自分が蒔いた種は、自分で刈り取る」と書かれ、自分のした行為に対して、結果責任を取らなければならないことを知りました。

自然法則の根幹を成している「因果律」が、私にも正確に働いていることを、つらい日々を過ごす中で、身を持って知りました。



裁判では同じ行為でも、「過失」によるものか、「故意」なのかで、課される量刑が違ってきます。

うっかり人を傷つけてしまったのか、わざと傷つけたのかで、罪の大きさに差があるのは当然です。

今回、私の不祥事では、知らなかったこともありましたが、知ってた上でしてしまったこともありました。

振り返ってみると、初めてしてしまった時に、自分に言い訳みたいなことを言っていました。

きわめて身勝手で、恥ずかしい言い訳であり、「誰もがしていることだから」とか、「これくらいは大したことはないだろう」と言うようなものでした。



一方、こんな声もしていました。

「本当にそれでいいのか」

頭をかすめていたその声も、言い訳に掻き消されて、結局、不正な請求をしてしまったのです。

それが、当たり前のようになってしてしまうと、声はしなくなります。



どうやら、10年前の私の中には、二人の自分がいたようです。

表現が適切かどうかわかりませんが、一人は、この世を生きている内に、知らず知らずに作り上げてきた自分であり、言い方をかえると表向きの自分でした。

もう一人は、その陰に隠れている、ありのまま(素)の自分であり、本当の自分です。



子供の時は、本当の自分でいられたと思いますが、大人になるにつれて、周りに合わせたり、良く見られようとしたり、打算的に生きている内に、表向きの自分が少しずつ作り上げられて行ったようです。

いつの日か、作り上げてきた自分が前面に出て、自分自身だと錯覚するようになり、本当の自分は奥に引っ込んでしまったようです。



本当の自分は、善悪をしっかりと判断しているようです。

「やってはいけない」と、表向きの自分がしようとしている、自然法則に反した言動を拒否しているようです。

本当の自分には、シルバーバーチが言う「神の監視装置」、一般的に言う「良心」が存在しているようです。

「本当に、これでいいの?」と、心の中でつぶやいていたのは良心の声であり、表向きの自分に対して、自制を促していたと思います。

一方、表向きの自分は、「大したことはない」、「誰でもしているから」、「ばれやしない」と、心の中でつぶやき、本当の自分に言い聞かせていたと思います。

行動をする直前まで、両者のせめぎ合いがあり、結局は、表向きの自分に押し切られてしまったと思います。



普段から、慌ただしく、頭を使った生活をしていると、表向きの自分が優位に立ってしまい、本当の自分の声は聞こえにくくなってしまうようです。

本当の自分がいることを意識し、その声に耳を傾けていれば、「やっぱりやめておこう」と、思い留まれたと思います。

俗に言う「エゴ」とは、表向きの自分と同じような気がします。



表向きの自分は、周りに影響されながら作り上げてきたものなので、周囲の状況に流されやすいと思います。

また、物事の表面しか見ていないので、お金や地位、名誉など、表面にあるものを、追い求めてしまい、見栄や虚勢を張ってしまうかもしれません。

本当の自分は、生まれながらの自分であり、周りにも影響されにくいようです。

物事の内面を見ているので、人の想いを察知したり、本当に大切なものや、美しいものが判るようです。



長い間、表向きの自分と、本当の自分のせめぎ合いの中で、生きてきたと思います。

次第にバランスが崩れて行き、不祥事が起きた時には、本当の自分の存在に気付けないほど、表向きの自分の存在が大きくなっていたと思います。



本来は、本当の自分が、主導権を握って生きなければいけないと考えられます。

表向きの自分では、どうしても目先のことに捉われてしまって、自分の成長につながる決断ができません。

そのために、この世で予定していた成長が、得られなくなってしまう可能性があります。

一方、本当の自分は、この世に生まれる前に約束したシナリオを、無意識下で知っていて、自分の成長につながる決断が、直感としてできるようです



人生では、どちらを選択するか迷う時があります。

その時には、表向きの自分と、本当の自分の間で、せめぎ合いが行われていると思います。

表向きの自分は、外面しか見ていないために、失敗を怖れて、安易な方向、楽な方向に進もうとします。

本当の自分は、困難や障害が待ち受けている方向に進もうとします。

もし、両者のせめぎ合いを感じたのなら、思い切って本当の自分が指示する方向へ進んで行くのが賢明と思われます。

その選択が、より自分を成長させることが出来るからです。



人生では、さまざまな苦難や障害を伴う出来事が起きます。

表向きの自分にとって、災難であり、不幸な出来事にしか思えないようです。

しかし、本当の自分は、今生に与えられた試練であり、成長する機会として受け止めるようです。

10年前に起きた出来事は、以前の私でしたら、最悪な出来事であり、不運を呪ったでしょう。

今の私は、本当の自分が目を覚まし、成長して行く人生に変わるために、なくてはならなかった出来事だと思っています。



そして、強く感じたことがあります。

それは、因果律の働きは、最適なタイミングで、結果を生じさせると言うことです。

このタイミングでなければ、本当の自分にまで響き、目覚めさせることは出来なかったと思われます。



1つの出来事には、2重3重の意味があったようです。

表面的には、私は法令遵守をしなかったため、行政処分を受けました。

内面的には、良心に従わなかったため因果律が働き、苦痛を味わったと思います。

さらに内面には、苦痛が触媒となり、ありのままの自分を目覚めさせる意味があったようです。

シルバーバーチは法則の裏側に法則が働いていると言っていますが、このようなことを指すのでしょうか。

物事の表面だけ見ると、災難や凶事と思えることも、深層には必ず意味があり、霊的には良い方向に導かれていることを実感しました。

突発的に起きたのではなく、タイミングを見計らって、因果律が働いたと確信しています。

これらを勘案すると、因果律を支配している叡智はやはり完璧であり、すべてが佳きに計られているような気がします。



話は変わりますが、子供の時に、「悪いことをしたら、罰が当たるよ」と、何度も言われました。

そう言われても、別に何も起こらないので、悪さをさせないための大人の口実と思っていました。

今、考えてみると、因果律の働きを、言葉にしているようです。



目に見えるもの、見えないものに拘わらず、因果律は働いています。

石を真上になげれば、物理的法則である万有引力の働きにより、真下に落ちてきます。

同じように、自分のしたことは、目に見えない霊的法則の働きにより、自分に返って来ます。

自然の決まりに反した行いをすれば、因果律の働きにより、相応の苦痛を伴う結果として返ってきます。



しかし、世の中を見渡すと、悪いことをしていても、平然と生きている人はいます。

誰にも判らないように、人を傷つけたり、貶めたりしている人もいます。

人がどうなろうとも、自分の欲望を満たそうとする人もいます。



そんな人は、法律的な裁きを免れたとしても、霊的に許されないことを知りません。

肉体を失っても、犯した罪が、償いがなければ消えないことも知りません。

この世の人生における、全ての行い、さらに想いまでも、魂に刻まれていて、犯した過ちと直面する時が必ず訪れることも知りません。



法律に背いたことをすると、時に刑務所に入れられ、自由を奪われます。

霊的法則に背くと、成長が許されません。

自分を成長させることは、生きる意味そのものです。

その苦しみは、自由を奪われた受刑者以上に違いありません。

再び、成長していくためには、過ちを認め、相応の苦痛を経験して償わなければいけません。

その事実を知っていれば、傷つけられ、ひどい仕打ちをされたとしても、同等の痛みや苦しみを味わうことになるので、憎む必要はありません。

イエス・キリストがゴルゴタの丘で磔の刑にされ、鞭を打たれている時に、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と、言ったそうです。

自然法則を知らずに、罪を犯している人たちに待ち受けている報いが、どんなものかが判っていたので、哀れに思わずにはいられず、神に向かって慈悲を求めていたと思われます。



「因果律」により、全てが解決されます。

不公平、不公正は、全く存在しません。

この世だけを見て、判断してはいけません。

この世で因果律が作動しなければ、あの世で間違いなく作動し、公正は完全に保たれます。

だから、人を傷つけたり、悲しませたり、苦しませたりすることは、絶対に出来ないのです。

後悔しないように、自分に正直に、良心に忠実に従って、生きなければならないのです。



以上が、10年前の出来事をきっかけに、私が学んだ教訓です。



ところで、因果律は人の過ちばかりに働いているのではなさそうです。

子供の時に、「人にやさしくしましょう」と、多くの人から言われました。

でも、なぜやさしくしなければいけないのか、判りませんでした。

人が喜んでくれるのは確かだけれど、やさしくしても何の得にもならないと思っていました。

実際は、得にはならなくても、徳にはなるようです。



人を傷つけるのとは正反対で、やさしさや思いやりは、自然法則に適ったものであり、因果律の働きにより、相応の報酬をもたらしています。

「情けは人のためならず」と言うことわざがありますが、情けをかけた人に、巡り巡って同じ想いが返ってくるという意味だと解釈しています。

この現象も、自分から出たものは、自分に返ってくるという、因果律の働きによるものと思われます。

たとえ、誰から何も返って来なくても、また誰にも知られない行いであっても、自然法則に適ったものであれば、目に見えない形で、自分に返って来ることになります。

魂の成長として、自分に返って来ます。



魂が成長したって、それが何になると思われるかもしれませんが、この世に生きている意味そのものが、魂を成長させることです。

本当の自分とは、魂です。

自分を成長させるために、この世に生まれて来たことを、私たちはすっかり忘れています。

「人にやさしくしましょう」の意味は、人に喜んでもらうと同時に、自分を成長させるものであり、その想いが広く行き渡り、世の中が喜びに満ちたものになり、平和になるためだと思います。



魂と肉体の永続的な分離が死です。

死によって肉体を失った魂は、むき出しの状態になりますので、その人の素性が露わになります。

この世で想ったこと、言ったこと、行ったことは、魂にしっかりと刻まれていて、全てが周りに知れてしまいます。

良くも悪くも、ありのままの自分でしか、生きられません。

当然のことですが、この世を去れば、お金など形ある財産は、全て失われます。

代わって、この世では見えなかった内面に築き上げたものが、あの世での財産となります。



魂とは生命です。

神のものであり、神の一部です。

そして、神の心は愛です。

やさしさや思いやり、無私の奉仕は、愛の表現であり、神の心を表現しています。

愛の表現が魂の財産となるのは、肉体を失っても消えない、神的な価値を持つものだからです。

神的な財産が多い魂ほど、次に行く世界で美しい光輝を放つことになります。



この世を、どう生きるかは、個人に任されています。

想い、言葉、行いの全てに、休むことなく因果律が働いていることを、忘れてはいけないと思います。

人がどうであろうと関係なく、良心に忠実に生きて行きましょう。

やさしさや思いやりを表現して生きて行きましょう。

本当の自分の声を見出し、それを大切にしましょう。



怒りや、憎しみの想いを向けられたとしても、受け流して、微笑みを返しましょう。

ひどい仕打ちをされても、その人と魂が同調するような想いを抱くのはやめるようにしましょう。

それが、自分の魂を守るための、最善の方法です。



人や動物、そして社会が悦ぶような生き方が、最も賢明な生き方です。

因果律の働きにより、自らの成長と、悦びという幸せが、その先で返ってくるからです。














2016年3月13日日曜日

この世からあの世に行った人たち



10年前の私は、死んだ後のことなど、考えることはありませんでした。

今が、楽しく、充実していれば、そんなことはどうでも良かったからです。

しかし、左手から病気を癒す力が出ていることに気付き、人生最大の屈辱的な出来事を経験し、シルバーバーチの霊訓と出会って考えは一変し、霊的な世界について深く思いを巡らすようになりました。

生命とは魂であり、あの世が存在するのは、動かしがたい事実です。

夜になって朝が来るように、この世が終わりあの世が訪れます。

同じ自然現象であることを、多くの人に知ってもらいたいと思うようになりました。



人生に悲しみはつきものですが、最愛の人を喪った悲しみを超えるものは、この世にありません。

遺された人が、祈るようにして待つのは、再会の瞬間です。

再会するためには、「あの世」と言う存在がなければいけません。

あの世で、亡くなった人が魂として生きていて、そこで待っていなければいけません。

しかし、残念なことに、あの世の存在は誰にでも判る形で、証明はできません。

時々、臨死体験者がその時の様子を語っていますが、信憑性を確かめる手段は、何もありません。



否定論者は「それは、あなたが信じる宗教であって、目の前で証明してもらわない限り信じません。」と、言います。

しかし、否定論者であっても、きっと愛する人はいるでしょう。

目に見えず、証明できないものを信じないのであれば、愛も否定しなければいけません。

愛は認めて、魂を認めないのでは、理屈に合いません。

もし、魂など存在しないと言い切る人が、最愛の人を喪って、同じことを言い続けることができるのでしょうか?

死は永遠の別れだとしたら、そのことに堪えられるのでしょうか?



目に見えないもの、形のないものでも、しっかりと存在しています。

私たちが、認識できない世界にいるだけで、実体があるのです。

愛を知っている人であれば、肉体が無くなっても、魂として生き続けているという事実を、きっと受け入れざるを得なくなると思います。

なぜなら、愛は霊的次元のものであり、魂から生まれているものだからです。



亡くなった人が、あの世で生きているのは、歴然とした事実であるのに、何故、明らかにかされないのだろうかと、疑問に思っていました。

その理由は、私たちがまだ霊的に未熟であり、この世の現実から逃げ出してしまう恐れがあるからと、今は考えています。

世の中全体が霊的に向上し、自らの意思で生を絶つと言う、過ちを犯さないようになれば、周知の事実となる日が来るような気がします。



東日本大震災から、もう5年経ちました。

1つの地震により、1万5千人を超える人が、一瞬にしてこの世からいなくなってしまったのが、未だに信じられません。

しかし、一人ひとりのご遺族にとって、目の前から大切な人がいなくなってしまったのは、紛れもない現実です。

そんな人たちに、これだけは伝えたい。

荼毘に付され、骨となってしまったのは、あくまで肉体です。

大切な人の生命は魂であり、津波で肉体を失っても、変わりなく生きています。



津波で亡くなってしまった人は、こうであったのではないかと、シルバーバーチの霊訓などの霊界通信を参考に、私なりに想像して書いてみました。



迫ってくる波に飲み込まれ、水中で数分間、息が出来ない苦しみにもがきながら、次第に意識は遠のいていきます。

どれくらいの時が経ったのでしょうか、気付くと、少し高い所から、周囲を眺めているようであり、地面に横たわっている人が見えます。

しばらくすると、人がやって来て、横たわっている人の前でお線香を上げて、手を合わせているのが見えます。

横たわっているのは誰だろうと覗いてみると、それは見慣れた顔であり、良く見ると自分であることに気付きます。

自分はここにいるのに、自分の身体はそこにある、これはどういうことなのか?

悪い夢でも見ているのか?

その後、動かなくなった自分の身体は、広い場所に運ばれて行きます。

そこに、不安そうな面持ちで、家族が近づいて来ます。

自分の身体を見つけて、泣き崩れる姿が見えます。

何で泣いているのか、全く見当がつきません。

しばらくして、ハッとします。

あの時、大きな波に飲まれてしまったことを、思い出します。

周りに目をやると、飲み込まれた波はなく、すでに水も引いています。

建物は波に押し流されてしまって、街並みは見る影もありませんが、風景はどこかいつもと違い、
もやがかかっているよう見えます。

物の輪郭は曖昧になり、透けて見えて、スカスカのように感じられます。

何が起きているのか、良く判らないところに、一人のおばあさんがいるのに気付きます。

家族よりも、おばあさんの方が鮮明に見えます。

そのおばあさんは、数年前に亡くなった祖母だと、すぐに判ります。

もしかして、今いるのは、この世に思えて、この世ではないかもしれない。

「あの世」と言われている世界にいて、この世を眺めているのかもしれない。

周囲の状況から、徐々にそのことに気付いて行きます。

そして、祖母から亡くなった時のいきさつを伝えられ、納得はできないものの、身に起こった事実を受け入れます。



ところが、死んだら無になってしまうと強く思っていた人は、事情が違います。

死んでも意識があることが、全く理解できません。

意識があるので、この世で生きていると、錯覚し続けることになります。

そんな人も、すでに死んだ親しかった人たちが出迎えに来て、会うことになります。

そして、大きな混乱が生じてしまいます。

何で、死んでいる人が、自分の目の前にいるのかと。

その人たちから、「お前は津波で死んだんだよ」と、いくら伝えられても、意識がしっかりとあるので信じようとしません。

そこで、一緒に暮らしていた家族の元に連れて行かれます。

自分の遺影に向かって、「何で死んでしまったの」と、泣きながら話しかけている家族の姿が見えます。

「何を言ってるんだ!ここに俺はいるぞ!」と、思わず大声で叫んでしまいます。

しかし、声帯は失われているので、聞こえるはずもありません。

何度も何度も叫び続けてみても、無視されるので、今度は肩に手をかけて振り向かせようとします。

しかし、家族の身体はスカスカで、かけた手は素通りしてしまいます。

家族が幽霊のように思えてしまい、思わず「お前は、死んでしまったのか?」と、叫んでしまうかもしれません。

死んだら無になると信じ込んでいた人は、それまでの観念と現実との間に矛盾が生じて、混乱状態に陥ってしまいますが、誰が何を言っても無駄なので、自分が納得するまで放って置くしかないようです。



死ぬ直前の想いは、死を境に、すぐになくなるわけではないようです。

あまりに突然であると、肉体を失ってしまったことに気付かないまま、死ぬ直前の「想い」がしばらくの間続き、必死に何かをしようとしてしまいます。

早く逃げなければと、強く思っていた人ならば、死んだ後も、しばらくは逃げ惑っていたと考えられます。

早く助けなければと、強く思っていた人ならば、死んだ後も、助けに行こうとしていたと考えられます。

しかし、それも長続きはせず、この世にいないことを受け入れて行くと思います。



死んでしまったことを自覚しても、その時の恐怖により、深刻なダメージを受けてしまった人(魂)もいます。

しばらくの間は、この世に最も近いあの世(幽界)にいます。

そこは地上とそっくりの世界であり、戸惑わないための神の配慮であると言われています。

傷ついてしまった人(魂)を専門に扱う病院のようなところがあり、手厚く介抱されるようです。

人からの愛と、自然界からの生命力により癒され、徐々に元の自分(魂)を取り戻して行くと思われます。



一人で逝った幼い子供たちも、心配ありません。

親愛の想いを持つ縁者や、この世で事情があって子供を持てなかった女性など、愛情に溢れる人たちと共に生活し、同年代の子供たちとも遊んだりして、楽しく過ごすようになります。

一人ぼっちで、寂しい思いをすることは、決してありません。



この様に、人が亡くなっても、死後の様子は一様ではないと思われます。

自分が望まない限り、一人放っておかれることはなく、この世よりも親密なかかわり合いの中で、助け合いながら生きているようです。

生前から死後についての正しい知識があった人の方が、すんなりと順応できるのは間違いないようです。



亡くなって間もない人(魂)であれば、意識を向けているのは、あの世ではなく、この世です。

離れ離れになったとしても、遺してきた人の想いに引き付けられるようにして、再会します。



この世の大切な人は、冷たくなった肉体を前にして、どうすることも出来ない過酷な現実を突きつけられています。

すべての思考は完全に停止し、 深い悲しみの想いが生まれ続け、とめどもなく涙するだけです。

助けてやれなかったことを悔やみ、なぜ自分だけが生き残ってしまったのだろうと言う想いに苛まれています。



この世の人が何を想っているのかは、言葉にしなくても、あの世の人に伝わってきます。

あの世は言葉でなく、想いが直接伝わる世界であり、自分が死んだことで、深く悲しんでいる想いが、痛いほど伝わってきます。

悲しみに打ちひしがれる人に寄り添い、慰めようとするのは、愛情があれば当然です。

ところが、そばに近づこうとする人(魂)にとって、悲しみの想いはバリアとなっています。

「何で死んでしまったの」、「これからどうして生きていけばいいの」と、嘆き悲しんでいる時には、溢れ出す想いに押されて、近づきたくても近づけません。

悲しみと悲しみの間にあるわずかな時に、亡くなった人は寄り添い、慰めようとするでしょう。

けれども、声をかけても肉声にはならず、身体に触れても波長が違うので素通りしてしまいます。

どんなに努力しても、生きていることに気付いてもらえないのは、あの世の人にとって悲劇以外の何者でもありません。



いかなる手段を講じても、つながりたいと想うのは、この世でも、あの世でも一緒です。

この世に遺された人は、霊媒と言われる人を通して、あの世の人とつながりを求めます。

先に逝った人も、どうにかして、遺された人とつながろうとしています。

次元という障壁を乗り越えて、両者がつながろうとするのは、お互いが1つになろうとする想い、愛があるからです。



震災で大切な人を亡くした人たちの周囲で、不思議な現象が起きていたのを耳にします。

以前(2013年8月23日)、NHKの「亡き人との“再会”~被災地 三度目の夏に~」という番組で、遺族に起きる霊的な現象を特集していました。

亡くなった人の姿を見たり、亡くなった人を感じさせる音がしたり、大切にしていた物が動いたり、さまざまな現象が起きたようです。

ほとんどの人は、その現象を素直に受け入れ、慰められたそうです。



震災の少し後に、私の義母も病気で亡くなりました。

49日とお盆、1周忌の付近になって、義母が長年住んでいた家で、不思議な現象が起きました。

義母の家のトイレは、座るとクラシック音楽が流れるものであり、生前とても気に入ってたそうです。

そのトイレから、誰もいないのにもかかわらず、昼夜を問わず頻回に音楽が流れました。

昔の私でしたら、無知なために気味悪がってしまったでしょうが、今は、向こうでの生活にも慣れ、一足先に逝った義父と楽しく過ごしていることを、集まった家族に知らせたかったと確信しています。(ちなみに義母の命日は、義父との結婚記念日です)



言葉に想いが込められている様に、起きている現象にも亡くなった人の想いが込められていると思います。

震災で、小学2年生のお子さんを喪ったお母さんは、時々起こる仮設住宅の天井を踏む音が、亡くなったお子さんの歩き方にそっくりで、その音を家族全員が確認したそうで、「そんなに悲しまないで、と励ましてくれているのかな」と、前向きに受け取ったそうです。

他にも、兄の死亡届を書いた妹の携帯電話に「ありがとう」と兄からメールが入った話や、行方不明のご主人が発見された後、就寝した奥さんの布団に何かが入り込み、「お父さんだ」と直感した話などがあり、ご遺族は肯定的に受け止めたそうです。

被災地では、知られていないだけで、そのような現象が頻発していたと推察されます。

これらの現象を、不気味に感じたり、怖がったりする必要が、どこにあるのでしょうか?

「生きているから心配しないで」あるいは「元気だから安心して」という想いを伝えたい一心で、次元を超えて働きかけているだけです。

この世に遺された人を、気遣う想いで溢れていると思います。



亡くなった人も、月日が経つにつれ、向こうの環境に慣れ、好きなことをしたり、人と交流したりしていると思います。

向こうは想いの世界であり、願望がことごとく実現する世界ですから、楽しくないはずがありません。

しかし、遺してきた人の想いが伝わってきたならば、向こうでの生活を中断し、直ぐにそばに寄り添おうとしていると思います。

遺してきた人を見守るのを最優先して、こちらに留まっている人もいるでしょう。



大切な人を亡くした人の中に、「そばに居てくれている」と、言う人がいます。

はたから見ると、あまりに悲しいので、自分の願望を言って慰めているようにしか見えないかもしれません。

しかし、涙を流しながら、試練を乗り越えてきた分だけ、魂は成長し、研ぎ澄まされ、亡くなった人の気配や想いを、しっかりと感じ取っていると思います。

気のせいではないことが、判っていると考えられます。



悲しみの想いは魂を遠ざけ、親愛の想いは魂を引き付けます。

「いつでも一緒だよ」という気持ちになれば、同じ想いで同調します。

魂は寄り添い、想いは共有され、心が温かくなったように感じられるかもしれません。

さらに、向こうからの想いが伝わって来れば、「そばに居てくれている」と確信すると思います。



もし、想いを感じられないのであれば、何か理由があるのかもしれません。

向こうの人は、遺してきた人の成長にかかわる決断には、干渉できないと言われています。

大切なことは、自分で決めなければいけないのです。

もしかしたら、向こうの人に頼りすぎたり、依存するのを避けて、自立を促すためかもしれません。

そうであれば、遺してきた人の成長を願ってのことであり、愛する想いから、敢えてそうしていると思います。





1本のろうそくを、日向の明るい場所で燈したとしても、存在は判らず、価値は見出せません。

しかし、真っ暗闇の中であれば、光輝き、足元を照らしてくれます。



真実も同じであり、平凡な毎日を送っている人は、存在は判らず、その価値を見出せません。

絶体絶命の窮地に追い込まれた人、現実に打ちのめされた人にとって、明るい光となり、無知の暗闇から解放してくれます。



すべての出来事には、何らかの意味があります。

もし、真実を見出したのであれば、大きな意味を持ったことになります。

なぜなら、真実を見出すことが、この世に生まれてきた目的でもあるからです。

真実に目覚め、それに忠実に生きて、自分(魂)を成長させることができるからです。



津波で亡くなった1万5千を超える人たちは、この世に遺された人と、離れ離れになどなっていません。

まだ行方不明になっている人たちの魂も、大好きな人の元に戻って来ていると思います。

自分の肉体と引き換えに、遺された人の魂が目覚め、成長していく姿を、微笑みながら、そばで見守っていると思います。