2016年5月29日日曜日

この世に生まれて来た理由



あの世が存在することは、私にとって紛れもない事実です。

しかし、目に見えるもの、証明されたものしか信じない人は、あの世の存在を否定するでしょう。

どちらが正しいのか、死んだ後ではっきりしますが、否定する人には、1つの問題が起きてしまう可能性があります。

死んで無になるのであれば、あの世を信じている私は無になってしまうので、何ら問題はありません。

もしも、あの世があったならば、頑なに否定していた人は、死んでも意識があるので、この世に生きていると錯覚してしまいます。

現状を認識するまで無駄な時を過ごし、周囲に要らない苦労をかけてしまうことになります。

たとえ信じられなくても、もしもの時を考えて、知っておいた方が賢明と考えられます。



死んだ後も変わらずに意識は存在し、魂として生命は存続しているのが明らかになり、私はとても安心して生きられるようになりました。

併せて、この世に生きている目的も知りました。

この世にいる人は、例外なく、魂を向上させるために生きています。

人生で出会う困難や障害を、最善を尽くして乗り越えて行くこと、人や社会に役立つことで、魂は向上するように、自然法則は出来ています。

何をすればいいのか悩む時がありますが、まず実生活において、自分に与えられた仕事を一生懸命に果たし、周りにいる人に親切にして、困っている人がいたなら助けてやることが大切ではないかと思っています。



先日、テレビの番組で、ある医師の活動を放送していました。

彼は、私と同年代(1964年生まれ)の男性であり、恵まれない人たちへ無償の医療を提供していました。

スケジュールは多忙を極め、一ヶ月の半分はフリーランスで全国の病院を掛け持ちで難しい眼の手術をこなして、残りの半分はベトナムに行って、経済的理由から医療を受けられず、失明しかけている人たちに、無償で手術をしていました。

ベトナムに病院を開設していて、裕福層に対しては有償で治療を行い、得た収入を医療を受けられない人たちに無償で治療を行って還元していました。

自分がいなくなってからも、失明の危機にある人たち全てが、最善の医療を受けられるシステムを構築しようと、全精力を注いでいました。

自宅の購入資金を当ててまで、ベトナムの人達を救おうとしていました。

その医師の活動の原動力となっているのは、「人のために生きろ」という、父親の最期の言葉だったそうです。

世の中には、霊的真理を知らなくても、見事に実践している人がたくさんいます。



人のために生きようとするのは、思考から来るものではなく、魂の根源的な欲求と思われます。

もし、そうでなければ、駅のホームに転落した人を、わが身の命を省みず、救おうとする衝動は起きないはずです。

誰かを救おうとしたり、助けてやろうとするのは、私たちは肉体を超えた霊的な存在であり、霊的なものに神性(愛)が宿っているからです。

この世の人は肉体を持っているために、自分のために生きているように感じますが、実は他者のために生きていて、自分の幸せを追及するのではなく、他者の幸せの中に悦びを見出し、自らが幸せになるように出来ていると思います。

前述の医師も、無償の治療の対価は、患者さんと悦びをシェアすることで、ちゃんと受け取っていると語っていました。



世の中を見渡すと、自分にはない、優れたところを持っている人たちで溢れています。

人知れず、社会のために尽力している人たちもたくさんいて、そのお陰で、世の中が少しずつ良くなっていると思います。

そんな人たちと知り合えるところが、この世の素晴らしいところだと思います。



あの世は、想いがありのままに表現される世界です。

嫌いな人とは、想いが通わないために、会うことはありません。

そんな、この世の煩わしさから解放された世界を、人は天国と言います。

そこでは魂の成長度が同じ、(魂の)同級生と言うべき人たちが集まって、お互いの想いを共有して生活しています。

気心が知れた人たちと共に、ゆったりと休日を過ごしているような感覚が、はるかに鮮明になった世界と言えるのかもしれません。

あの世に行くと、自分の肉体を養うための本能的欲求がありませんので、人のために生きようとする欲求、愛を表現しようとする欲求があらわになります。

いかなる次元においても、人(魂)が受け取っている生命力の根源は愛だからです。

しばらくは、生命力に溢れ、愛を実感する世界を、堪能していると思います。



いくばくかの霊的な知識を得た私は、苦しみや悲しみから解放されたあの世に、ずっといたいと思うようになりました。

あの世に行けば、なおさら離れたくなくなるはずですが、現実としてこの世にいるのは、どうしてだろうと考えてしまいます。

人は、現状には満足しない生き物のようです。

大変な仕事が続くと、休日が待ち遠しくなりますが、休日が長く続いてしまうと飽きてしまい、仕事のある普段通りの生活に戻りたいと思ったりします。

都会に住む人は、のんびりとした時間を過ごすために郊外へ出かけますが、長く滞在していると、街の雑踏が恋しくなったりします。

人は、楽しくのんびりとした生活が続くと、どこか物足りなく感じてしまい、つらくても何かに挑戦したり、変化に富んだ生活を望むようになるのかもしれません。

もしそうであれば、安らぎに満ちたあの世に長くいると、喧騒に満ちたこの世で、もう1度、自分を試してみようと思うようになったとしても、不思議ではありません。

今となっては思い出せませんが、生まれる前の私は、この世でしか出来ない、さまざまな経験を通して、自分を大きく成長させようと決意していたはずです。

あくまでも自分の意思で、この人生を選択していているはずです。

明確な目的があり、学ばなければならない教訓が、この人生にはあるはずです。



人はどうして、何かに挑戦しよう、つらい出来事があっても乗り越えようとするのでしょうか?

それは、自分を変えよう、成長させようとする想いがあるからです。

自然法則の働きにより、困難を乗り越えて行く過程において、自分(魂)は成長して行くからです。



自分を成長させようとする人には、その想いにふさわしい人生が立案され、この世に生まれる機会が与えられます。

より大きな成長を望んでいた人ほど、この世で立ち向かっていかなければならない困難や障害は、どうしても過酷なものとなります。

凶事や悲劇と呼ばれる出来事に遭遇すると、人は立ちすくんでしまいますが、それは不幸にさせるものではなく、自分を大きく成長させる大切な機会と受け止めるべきです。

不幸にしか思えないことにも、霊的な相応の報いが必ずあります。



この世があの世と違うところは、魂の成長度が同じ位の同級生だけではなく、より成長している「先輩」もいれば、まだこれからの「後輩」もいます。

年齢、肩書き、家族的序列、人種などは、この世だけのものであり、魂の成長度とは関係ありません。

親よりも子供、上司よりも部下の方が、魂の成長度で先輩に当たることは、良くあると考えられます。



この世で出会う人たちには、自分にはない優れたところがあります。

人の優れたところを見ないと、自分に足りないところや、変えなければならないところが自覚されないのかもしれません。

魂の先輩たちは、自分より高くて、強い愛を表現していると思われます。

自分が許せないことを許せたり、より自分を犠牲にして人のために尽くそうとしています。

強い意志で苦難を乗り越えていく姿、そこから大切なことを学んで行く姿を見て、触発され、自分も少しでも近づこうとする中で、魂は成長して行くのかもしれません。



魂の先輩たちに、共通していることがあります。

それは、謙虚さです。

私はシルバーバーチの霊訓から、真の謙虚さを学びました。

謙虚であればあるほど、自分の未熟さを痛感するため、そこから自分(魂)を成長させようとする強い意志が生まれるのかもしれません。

向上心よりも謙虚さが、成長して行くためには必要と言えるのかもしれません。

この世には、上には上がいます。

同級生ばかりのあの世よりも、一歩先を行く先輩たちを見れるこの世界は、魂の成長にとって好都合なのかもしれません。



同時に、魂の後輩たちもいます。

幼稚園児のサッカーを見ていると、とても面白いです。

ゴールキーパー以外は、全員がフォワードのように見えるからです。

意識がボールにだけ集中して、みんながボールをひたすら追いかけ、ゴールに入れることだけを考えています。

ところが、小学生になると違ってきます。

ボールだけでなく、周りの人も見ていて、ポジションを意識し、与えられた役目を果たそうとします。

幼稚園児の意識は自分にあり、小学生になると他者を意識するようになります。

自分がボールを蹴ってゴールをするよりも、仲間と協調しながらチームが勝利することを優先するようになります。

自分よりも、他者を優先するようになるのが、魂の成長と言えるのかもしれません。

大人になるに従い、個性はより明確になって来ますが、自分のことしか考えない、わがままな人もいれば、自分を犠牲にして人や社会のために生きている人もいます。

それは性格の違いではなく、魂の成長度(霊性)の差によるものと思われます。

魂の成長度の低い人は、時に神の摂理と一致しない、愛に反する言動をしてしまうために、周囲との間に不調和を引き起こしてしまいます。

われ先にとゴールを狙っている幼稚園児のような人であり、周りにいる人は、突き飛ばされて、怪我をしてしまうこともあります。



大きくなってから、幼稚園児のサッカーを観ると微笑ましくなります。

しかし、嘲笑したり、軽蔑したり、否定したりする人はいません。

自分にも、そんな時があったのを知っているからです。

地上の人は、完全には程遠い存在とシルバーバーチは言っているように、この世に生まれてくること自体、学ぶべきものがある未熟な存在である証拠です。

完全には程遠いこの世の人が、他の人の不完全さや未熟さを咎めたり、軽蔑したりするのは、過ちであると思われます。



外見は同じように見えても、魂の成長度は人により大きく違っています。

魂の未熟さから人は過ちを犯してしまいますが、因果律の働きにより、何かしらの苦痛を伴う結果(償い)が生じ、絶対的公正は保たれています。

自分の過ちを、痛い思いをしながら正すことになり、それを繰り返し人は成長して行くと思います。

今生で正されなかったのであれば、もう1度この世に生まれて、正すことになるかもしれません。



人を平気で傷つけたり、裏切ったりする人がいます。

魂の同級生と考えてしまうと、怒りや憎しみが生じてしまいます。

そんな人には、一段高い立場から魂の先輩として、過ちに気付かせる必要があると思われます。

協調性に欠け、わがままな人であっても、一歩先を行く人は、寛容となり見守ってやらなければいけないのかもしれません。

かつては自分もそうであったかもしれず、あたたかい目で見守ってくれたかもしれないからです。

後輩にとっても、先輩から大切なことを教えてもらったことになります。

あの世には、魂の後輩たちは周りにいませんので、この世に生まれてきた目的の1つは、寛容さを身に付けるためにあると考えられます。



あの世では、同じ想いを共有する人たちと生活しているために、争いごとは起こりません。

この世では、価値観や考え方が違う人たちと生活するために、時に争いが生じます。

争わないようにするにはどうすれば良いのかを、この世ならではの肉体的、精神的な苦痛を通して学んでいると思います。

全ての争いは、認め合うこと、許し合うこと、大きな意味での愛を表現することで、解決できることを学んでいると思います。



平和に満ちた世界を離れてでも、大切なことを学び、自分を向上させるために、あえてこの世に生まれて来たと思います。

さまざまな人に出会い、共に過ごす中で、自分に足りなかったもの気付き、身に付けて行くのかもしれません。

目に見えるものに囲まれた中で、この世にしかない経験を通して、目に見えない本当に大切なものを、見付け出して行くのかもしれません。



本当に大切なものは愛です。

さまざまな出会いや経験を通して愛を深く学び、肉体による制約を受けながらも全力で表現して、魂が大きく成長するために、この世に生まれて来たと考えられます。















2016年5月21日土曜日

お父さん、お母さんへ



お父さん、お母さん先に逝ってごめんね。
どうしても先に来なければいけなかったの。
私は、お父さんとお母さんの元に生まれて幸せだったよ。
二人も幸せだった?
こちらは、みんなが思っているより明るいところだよ。
みんな楽しそうにしているよ。
見せてあげたい。
集まってくれてありがとう。
みんな泣いていたけど、お父さんは悲しくなかったの?
私のために集まってくれるのは、何だか恥ずかしい。
まだ、生きているんだよ。
二人で黙ってじっとしているのは変だよ。
どっか二人で行って来てよ。
その方が、楽しいよ。
海でも行ってくれば?
砂浜を走るのは、楽しいよ。
好きなように、生きればいいんだよ。
無理しなくていいんだよ。
お父さん、花嫁姿を見せられなくてごめんね。
お母さん、二人でいろんなところに行けなくなってごめんね。
でも、お父さんとお母さんは、私に謝らないでね。
仲良くね。
また逢おうね。
私の素敵な、お父さん、お母さん。












2016年5月16日月曜日

霊的な意図を感じ取る



少し前の私は、死ぬのが怖かったです。

意識が消えて、無になってしまうと思っていたからです。

今は、死んだ後にも変わらず意識があり、あの世が続いているのが判っていますので、安心して生きられるようになりました。



若い時に 、思い悩んでいたことがありました。

人は何のために生きているのかが、判らなかったからです。

今は、さまざまな経験を通して学びながら、自分(魂)を成長させるために生きていることが、はっきりと判っています。



私は54歳なので、あと30年位は生きるでしょう。

この世での目的を無事に果たせたならば、死の扉を開けて、次の世界に進んで行くことが出来ます。

その時に、微笑みながら、この世に別れを告げられたらいいなと思っています。



多くの人たちは、物的に豊かで、できるだけ長く生きる人生を理想としているような気がします。

裏を返せば、物的に貧しく、短命であれば、不幸な人生と決め付けているのかもしれません。

しかし、それは明らかに間違っています。

お金や物など物的な豊かさは、死んでしまえば失われてしまう一時的なものです。

永続的な価値を持つのは、目に見えない霊的な豊かさです。

他者に愛を表現し、社会に奉仕をして身に付けていくものであり、それは魂の財産となり、死後も失われることはありません。



この世を早く去った人を、多くの人は哀れみますが、その必要はありません。

昔、学校で先生から課題が与えられて、済んだら終わりにして良い言われた時のことを思い出します。

勉強ができる友達は、さっさと済ませて、校庭に出て楽しそうに遊んでいました。

外に出て遊んでいる友達は、教室に残って課題に取り組んでいる私たちの様子を見て、頑張って課題を仕上げて、早く一緒に遊ぼうと思っていたでしょう。

死とは、肉体と言う重い鎧を脱ぎ捨て、自分本来の姿に戻ることであり、この世から次の世界に移行する自然現象です。

早く亡くなった人は、早々と課題を済ませ、校庭に出て行った羨ましい人であり、この世に残って課題に取り組んでいる人たちを見て、傍で応援しながら、あたたかく見守っていると思います。

長い時間をかけて、この世で学ぶ必要がなかった、言わば魂の特待生で、飛び級でこの世を卒業していったのかもしれません。



この世の人たちは皆、同じ課題を与えられ、同じことを学ぼうとしているのではありません。

学ぶべきものは、人それぞれ違っています。

学ぶものが違うのであれば、与えられた課題も違い、当然ながら辿る人生も違ってきます。

従って、他人の人生と、自分の人生を比較するのは、大きな間違いと思われます。

落ち込んだり、羨ましく思ったり、時に妬んでしまうと自分がつらくなってしまうのは、人と比べること自体が、神の摂理に反しているためと思います。



楽しく遊んで暮らせる人生が幸せであり、苦難の多い人は薄幸な人生と思われがちです。

学校で、遊んでばかりいた人と、苦労をして学んできた人では、後で笑うのはどちらでしょうか?

人生も全く同じであり、楽しく遊んでいる時には学ぶものはなく、苦難に立ち向かっている時に大切なことを学んでいます。

苦しんでいる最中には、生きるのに精一杯で判らないかもしれませんが、後に待ち受けている「この世の総括」で、大きく成長していたのがはっきりと判り、微笑むでしょう。

苦難を乗り越えて行くことで自分(魂)は成長し、大切な真実を手にするように、自然法則は出来ています。



私の知っている限り、あの世はこの世より、はるかに自由で快適な世界です。

あの世に行った人たちは、この世に残っている人たちを見て、同情的になっていると思いますので、この世の人が、自分のことを不憫に思っていると知ったならば、きっと当惑していると思います。

あの世について、もっと正しい知識が普及すれば、誤解は少なくなると思います。

しかし、この世の人たちに、あの世のことが明確に知れ過ぎてしまうと、課題を放り投げて、学ぶべきことを学ばずに、向こうに行ってしまう人がいるかもしれません。

そんな過ちを犯さないように、多くが知れないように、配慮されていると考えられます。



霊的な次元は、離れたところにある、遠い世界ではありません。

言葉で表現するのは難しいのですが、現実の1側面と考えて良いと思います。

例えば、美しい絵があったとします。

物として見れば、布地(キャンバス)にさまざまな色の絵具が塗られているだけです。

しかし、絵を観て、その中に美を見出し、心を動かされる時があります。

それは、人の最奥にあるものに、触れるものがあったからです。

物質を超えた何かを、最奥にあるものが、感じ取っているためと思われます。



心に響く音楽があったとします。

音楽は、周波数の異なる音が、さまざまな楽器や声を通して出ている音の集合体ですが、それを超えたものであるのは明らかです。

音を超えた何かが、旋律やハーモニーの中に込められていて、それが最奥にあるものに伝わり、共鳴していると思います。



絵や音楽は物質(物理)的なのものですが、込められているものは霊的なものであり、2つの面を持っていることになります。

本質はどちらかと言えば、もちろん霊的な面です。

正確に言うと、物質的な面は、霊的な本質を伝えるためにある媒体です。

絵や音楽を通して伝えたいのは、物質を超えた概念や想いであり、色も音もこの世で表現するためにある媒体です。

芸術を通して伝えたいのは、物質を超えた霊的なものであり、霊的なものが感じられない芸術に、存在価値はないのかもしれません。



言葉も同じです。

「ありがとう」は、感謝の気持ちを言葉で表したものです。

「ありがとう」という言葉には、音声としての情報と、発する人の想いが込められています。

店先で機械音声で「ありがとうございました」と言われて、何か伝わってくるでしょうか?

機械の声には想いが入っていないので、音声情報を発信しているのに過ぎません。

誰かに「ありがとう」と言われてうれしくなるのは、言葉の中に感謝の想いを感じ取った時だと思います。

やりとりする言葉も、物理的な音や言葉の意味を越えた、霊的な面を持っています。



人は、言葉などを媒体として、情報を交換しています。

同時に、目に見えない想いを、媒体を通して発しながら、受け取っています。

目に見えない想いは、霊的な存在である魂から生まれています。

私たちは物質の世界に生きているため、肉体という媒体を介して、自分の想いを表現しなければいけません。

この世の人は、魂から生まれた想いを、五感で認識できるように肉体で表現している、霊的な存在と言えます。



身の回りで起こる出来事も、目に見えない霊的な意味があります。

目に見える現実の世界と、目に見えない霊的な世界は表裏一体の関係と言えます。

しかし、世の中が唯物的になり過ぎたため、目に見える現実だけを見て、霊的な面を見なくなりました。

戦争は、現実だけを見ると、人を傷つけ、破壊する行為です。

しかし、霊的な面から見ると、怒りや憎しみや恨みの想いが原因で起きていると思われます。

そんな想いが生まれてしまうのは、人の想いを無視し、利己的な考えに捉われているためと思われますが、現実という結果だけに捉われていると、報復を繰り返すだけになってしまいます。



病気は、生物の正常な状態がそこなわれ、生命維持機能が阻害あるいは変化することと、百科事典には書かれています。

しかし、それは五感で認識できる病変、病態を表しているだけです。

多くの病気は、霊的な原因があると考えられます。

霊的な原因が、因果律の働きにより、肉体上に病変、病態として現れていると思います。

シルバーバーチは、霊と精神と肉体の一直線で結ばれ、3者の調和が取れた状態を健康と言っています。

霊は精神と肉体の上位にあり支配していますが、何らかの理由で、精神や肉体が優位になってしまうと、魂から生じている想いが表現されにくくなります。

その想いが摂理に反していて、溜まってしまうと、心身に不調和が生じ、病気として表在化されると考えています。

病気は、霊と精神と肉体の不調和により生じるものですが、苦痛を通して、魂を優位にさせて、調和の取れた関係に復元するために存在していると考えられます。



この世は、ありのままの自分を表現するのが難しい世界です。

快適とは言い難い世界に、私たちは執着して生きています。

臨死体験などで、あの世を垣間見た人たちは、生き生きとした、とても素晴らしい世界であったと言っています。

それは、肉体という媒体が取り払われ、ありのままの自分が表現される世界を、実体験したからだと思います。

そして、生かされている力(霊力)を、魂で感じることができたからだと思います。

想いが直接、相手に伝わるあの世は、言葉あるいは行動に変換して伝える、煩わしいこの世とは大きく違い、素晴らしい世界だと思います。

相手の想いが直接魂に響き、同じ想いで共鳴するため、この世では味わえない一体感が得られると思います。



想いの中でも、愛は強烈であり、魂は激しく共鳴します。

愛は、全宇宙を創造した心そのものであり、ばらばらに存在するものを1つにさせようとさせる力と考えられます。

受け取った者は悦びに満たされ、因果律の働きにより、他の誰かに分け与えようとします。

それを受け取った者は、悦びに満たされ、また誰かに分け与えようとします。

その連鎖が果てしなく拡がっていき、世界は愛という同じ想いで満たされ、1つになっていきます。

愛は人を動かしている神的なエネルギーです。

この世で愛は五感に触れるものではないので存在を疑う人がいますが、あの世は想いの世界であり、はるかに実感があるため、愛の存在を疑う余地はありません。



あの世では、自分がどんなに望んでいても、相手に同じ想いがなければ、逢うことは出来ません。

また、相手が望んでいても、自分に同じ想いがなければ、逢うこともありません。

人と人を結びつけるのは、愛という親和力です。

周りに同じ想いを、共有する人たちが集まって生活しています。

親愛の想いがない人や、想いが共有できない人との間に、接点がないので、嫌いな人、考え方の違う人と、一緒に生きなくても良いのです。



なぜそんな素晴らしいあの世だけでなく、苦しみや悲しみの多いこの世で、人は生活しなければいけないのでしょうか?

この世には、好きになれない人もいれば、考え方が違う人もたくさんいます。

あの世と違って、そんな人たちとも、一緒に生活をしたり、付き合っていかなければいけません。

同じ考えの人であれば、気心が知れるので平穏に過ごせますが、考え方の違う人とは、そんな訳にも行かず、意見が衝突してしまう時もあります。

衝突しないためには、自分の意見を控えて、相手の意見を認め、尊重してやらなければいけません。

日常でも、自分を殺して相手を活かす局面は多くあり、そんな自己犠牲の経験を通して、魂は成長して行くと思われます。



子供の頃は、自分のことだけを考えれていても良かったのですが、社会に出ると、顧客そして組織のことを優先して考えなければいけなくなります。

家庭に入っても、自分のことよりも、家事や子供のことを優先しなければなりません。

現実として、人は働かなければ生活を維持して行くことが出来ませんが、それは家族や会社のために、自己を犠牲にして、奉仕していることになります。

働くことは、奉仕であるため、魂の成長につながるという霊的な面があります。



人はこの世で、さまざまな経験をします。

その経験から、さまざまな想いが生まれていて、何らかの形で表現しようとします。

もし、人に傷つけられたり、裏切られたのなら、強い怒りや憎しみの想いが生まれしまうかもしれません。

その想いを外に向かって表現すれば、攻撃的なものとなり、争いが起きてしまうかもしれません。

かと言って、表現をせずに想いを溜めてしまうと、心身に不調和が生じて、病気になってしまうかもしれません。

どちらにせよ、苦痛を味わうことになってしまうのは、その想いが神の摂理に反しているためと思われます。

苦しみから解放されるには、人や出来事を許して、想いを解放しなければいけませんが、許そうとしても、許せるものではありません。

苦痛には、自分(魂)を成長させるという、霊的な意味があります。

魂の成長に伴って、許せなかったことが許せるようになり、溜まっていた想いが解放されて、苦しみから解放されます。

ひどい仕打ちをされれば、許せずに苦しんでしまう時がありますが、そんな嫌な出来事も、霊的な面から見れば、魂を成長させてくれた貴重な経験と言えます。



人生には悲しみが付き物です。

最愛の人を喪った悲しみを超えるものはありません。

喪ったことで、悲しみは生じますが、そこに愛が存在していなければ、悲しみは生まれません。

愛が喪われたと思うと、悲しみが生まれてしまいます。



肉体は失われても、魂は不滅です。

愛は魂から生じているものなので、肉体で表現する手段はなくなっても失われていません。

こちらの愛する想いは、伝っています。

そして、向こうからも愛されています。

肉体を失い見えなくなってしまった人の愛を信じられないと、悲しみや苦しみが生まれてしまうのかもしれません。

信じてもらえないほど、人を悲しませるものはありません。

悲しんでいる時は、向こうの人を悲しませているのかもしれません。



肉体の喪失は確定された事実ですが、生命は失われていません。

この世とあの世にいる両者の関係は、生前のままです。

目に見えない、声が聴こえない、触れられない寂しさは、耐え忍ばなければなりませんが、魂の存在を信じ、亡くなった人から今も愛されていることを、心から信じられたならば、悲しみや苦しみから解放されるのかもしれません。

亡くなった人を、また愛することができるからです。

愛はすべてを乗り越えて、両者は再びつながります。

かけがえのない人は、死によって信じることの大切さ、愛することの大切さを、教えているのかもしれません。





深刻な出来事ほど、魂を目覚めさせ、想いに気付き、意識しない深いところで、真実に気付いたり、大切なことを学んでいると思います。

この世の出来事には、自分(魂)を成長させ、想いを共有して1つにさせるという、霊的な意図があると思います。













2016年5月3日火曜日

人は動物を食べる生き物ではない



子供の頃、長いトレーラーにたくさんの牛たちが乗せられて運ばれていくのを、時々目にしました。

牛たちは、身動きもせず、じっとしています。

トレーラーが信号待ちで止まり、1頭の牛と目が合いました。

何とも言えない、とても悲しそうな目をしていました。

今にも涙を流しそうな、潤んだ目で、何かを私に訴えているような気がしました。

幼い時は、動物と同じように、魂が前面に出ていたので、牛たちの悲しみの想いを、敏感に感じ取っていたのかもしれません。



私の実家の近くに、比較的規模の大きい食肉工場がありました。

近くに住んでいても、その中で何をしているのか全く知りませんでした。

小学6年生くらいの時のことです。

近所の友達と、その工場に隣接した公園で遊んでいました。

しばらく遊んでいるうちに、隣にある工場の中がどうなっているのか気になり、中を覗いて見ようという話になり、友達とともに背丈よりも高いブロック壁をよじ登りました。

よじ登ってみると、目の前に工場の窓がありました。

その窓は半分位壊れていて、建物の中の様子を覗くことができました。

そこには、数人の男性がいました。



しばらくすると、一頭の黒白模様の大きな牛が、男性たちの中に牽かれてやってきました。

当時の私は、これから何が起こるのか分かりませんでしたが、少し興味があり、友達と一緒に、しばらく見ていることにしました。

牛は、身動きも、抵抗もしていません。

鳴き声ひとつ、上げていません。

一人の男性が、何かを持っているのが目に留まりました。

つるはしの両刃が10センチ位に短くなったような道具です。

先は尖っていました。

何に使うのか考えている暇もなく、男性はその道具を振り上げて、力いっぱい、牛の眉間の少し上の部分に、振り下ろしました。

刃先が頭蓋骨を打ち破る、鈍い音が響き渡りました。

直後に、大きな牛はコンクリートの地面に倒れて、頭蓋骨の穿孔部から、どくどくと真っ赤な血が溢れ出てきました。

男性の一人が、倒れた牛の額の穿孔部に針金のようなものを入れていきます。

すると、牛の後ろ足がピクピクと痙れんしました。

他の男性たちは、刃物で皮を引き裂いて、はがしていき、あっという間に、皮膚のない牛が、フックみたいな金属につるされました。

今まで元気に生きていた牛が、人間の手で殺されて、ものの5分もかからないうちに肉の塊になりました。

あまりに衝撃的な光景を目の当たりにして、言葉をなくしたまま、家に帰りました。



そんな出来事があったなど家族は知るはずもなく、いつものように食卓には肉を使った料理が出されます。

子供として、出されたものは食べないわけにはいけません。

罪悪感、後ろめたさみたいなものを感じながら、食べてしまいました。

時と共に、そんな記憶も徐々に薄れていき、いつも通りに肉を食べるようになり、思い出すこともなくなりました。



それから、数十年を経て、子供の時に感じた牛や豚たちの悲しみや恐怖に、再び想いを巡らすようになりました。

今は、人に食べられるために殺される動物たちがいることを、苦痛に感じます。

人は他の動物たちを殺して、肉を食べなくて良い生き物だと思うようになりました。

ところが、昔の私がそうであったように、多くの人は肉を食べないと、栄養の摂取が不十分になると考えています。

人間はもともと、肉も食べるように出来ていると言う人もいます。

果たして人間は、もともと肉を食べるように出来ているのでしょうか?

私の職業である、歯医者という立場から考察してみました。



人には上下、左右7本ずつ、合計28本歯があります(親知らずは除く)。

人の上あごの歯

人の下あごの歯

前に並んでいる薄い歯は前歯(ゼンシ)と呼ばれて、物を噛み切る役目をしています。

奥に並んでいる丸く見える歯は臼歯(キュウシ)と呼ばれ、物を噛み砕く役目をしています。



臼歯を良く観察すると、文字通り、臼のように中央にくぼんでいる部分があります。

下の臼歯:中央部が臼状にくぼんでいます


下の歯と噛み合わさる上の臼歯には、杵に当たる豊隆した部分があります。

上の臼歯:豊隆部があります
歯の表面に、裂溝と呼ばれる細かい溝が見えますが、粉砕された食片がその溝に沿って流れ、効率よく食物を噛み砕くためにあると考えられ、人間の身体に無駄なものはなく、それぞれ意味があることを実感します。

下の臼歯のくぼんだ部分と、上の臼歯の豊隆した部分が、臼と杵のように、緊密にかみ合わさり、物を上手く噛み砕くことができます。
上下の歯が噛み合わさった状態



牛や馬などの草食動物の歯は磨耗も認められますが、人の臼歯より平らであり、草や葉を磨り潰すのに適しています。

牛の臼歯:噛む面は平らです。


一方、肉食動物であるライオンの臼歯は鋭くとがっていて、骨を噛み砕いたり、肉を噛み切るのに適しています。
 
ライオンの下あご標本:臼歯は鋭く尖っています



歯の形態を観察すると、人間は穀物や木の実を噛み砕くため、牛は草や葉をすりつぶすため、ライオンは肉を噛み切るために適していると考えられます。

試しに、肉と、アーモンドと、薄い菜っぱを、奥歯を使って食べ比べてみると良く判ります。

どれが、一番噛みやすいでしょう?

どれが、しっかりと噛めるでしょうか?

きっとアーモンドが噛み応えがあり、食べやすく感じると思います。

ナイフやフォークなどの食器なしで、人は肉を上手く食べられません。

前歯で噛み切って、奥歯で細かく粉砕が出来るでしょうか?

かなり、難しいと思います。

人の歯は、米、雑穀、豆類、木の実、果実などを食べるのに適した形態をしていると考えられます。

食べるべきものが、食べやすいように、歯の形態が創られていると思います。



下あごの動きにも注目してみました。

ライオンや猫など、肉食系の動物の下あごは、関節の構造から、口を開いたり閉じたりする動き(蝶番運動)しかできません。

獲物をくわえて、肉を引き裂くために好都合な、上下の歯がハサミのように噛み合わさるように、下あごが動きます。



それに対して、牛や馬など、草食系の動物のあごの動きは、口の開閉に加えて、閉じた後にモゴモゴと横に下あごを動かせます(側方滑走運動)。

これは、草や葉っぱなどを、臼歯ですりつぶすのに好都合な、下あごの動きです。



雑食性と言われるクマはどうでしょうか?

咀嚼している時に、下あごを横に動かしているようです。

多くのクマは山で木の実などを食べるのに適した歯の形態と、下あごの動きをしていると思われます。



さて、私たち人間はどうでしょうか?

上下の歯が合わさった後に、左右に下あごをずらす動きができます。

これは物を噛み砕き、すりつぶすためのものです。

肉を食べるのではなく、米や雑穀、木の実、豆などの穀物を噛み砕き、すりつぶして食べるのに適した下あごの動きを、人間はしています。



クマの犬歯は大きく発達していますが、動物の中では人に近いようです。

人もクマも、雑穀や木の実などを下の歯の上に乗せて、上の歯で砕きながら、下あごを横に動かしてすり潰しながら食べるのに適した、歯や下あごの動きをしています。

クマは人を襲って食べる、怖い動物と思っている人もいますが、クマにとって人は見つかれば殺されてしまうかもしれない怖い存在あり、自分を守るための行動を取っているだけと思います。

生息する地域によって食性は大きく違いますが、多くのクマは森のベジタリアンと呼ばれるほど草食系の動物であり、人と食性が類似した動物と言えるのかもしれません。



以上より、歯の形態、下あごの動きから考察すると、人の身体の構造と機能は、肉を食べるよりも穀物などを食べるように出来ていると考えられます。



では、人は、なぜ肉を食べているのでしょうか?

近年、世界中で牧畜が盛んに行われ、肉も容易に手に入るようになりました。

そのままでは食べにくい肉も、加工や調理をすることで、簡単に食べられる様になりました。

肉を食べるようになった大きな要因は、労せずして、簡単に食べられるようになったからだと思います。

本来、人間が食べなくても良いものを、文明の発展とともに、好んで食べるようになっていったと考えられます。

そして、肉が貴重な時代があり、肉を食べないと栄養失調になる、元気が出ないなど、誤った常識が作られたのも、消費が増える一因となっているのに違いありません。

本来、食べなくても良いものを、たくさん食べるようになったため、過去にないほど、さまざまな病気を現代人は抱えていったのもかもしれません。



世界中の多くの人は肉を食べていますが、自分の手で殺生してまで、食べようとする人が、どれほどいるでしょうか?

人間は、他の動物を殺すことに、罪悪感を感じるようになっているので、ほとんどの人は殺してまで食べようとはしないと思います。

しかし、社会が細分化され、動物を自らが殺さなくても、肉は食べられるようになりました。

何気なく食べている肉が、動物を殺して提供されているという事実が、完全に隠蔽されてしまっています。

それが、肉食をやめない、大きな要因になっていると思います。



大手ハンバーガーチェーンに提供されるパテの材料となる牛たちは、営利を優先するため、生き物としてではなく、物として扱われているようです。

過酷な環境で生まれ、単に体を大きくされて、人間の手により殺され、肉片と化します。

そこには、同じ動物としての尊厳は、微塵も感じられません。

店舗からは、非人間的とも言える行為を動物たちに強いた上で、ハンバーガーが作られている現実は綺麗に払拭され、多くの人たちが今日も利用しています。

私には、牛たちの悲しみや恐怖が染み込んだ肉を食べているように見え、心身に良いはずがないと真剣に思っています。



ほとんどの日本人は、毎日肉を食べていて、調査結果では、1年間に平均、牛肉6.9Kg、豚肉11.5Kgを食べていると報告されてます。

体重800Kgの牛からは、200Kgくらいの食肉ができるそうです。

体重90Kgの豚から、44Kgの食肉ができるそうです。

あまりしたくない計算ですが、一人の日本人が20数年間で1頭の牛、4年間で1頭の豚、そしてたくさんの鶏の命を、間接的に奪っていることになります。



栄養学的に、肉を食べなければ身体を維持できないという考えは、食べようとする人間の勝手な言い訳に過ぎないのかもしれません。

中央アフリカに生息するマウンテンゴリラは、果実や葉っぱを食べて生きていますが(時々、昆虫も食べているようです)、たんぱく質が不足するどころか、400㎏を超える握力を発揮するほどの筋肉量を維持しています。

同じ霊長類である人間も、肉を食べなくて良いように創られていて、そのための知恵も与えられているはずです。



こんなことを書いている私も、少し前まで肉を食べていましたから、今になって他の人にやめろと言うのは身勝手だと思います。

なので、お伝えしたいと思います。

1匹の動物には、1つの魂が宿っています。

当然のことながら、食肉となる牛、豚たちにも、魂が宿っています。

魂からは、人間と同じ様に、喜びや悲しみの想いも生まれ、しっかりと恐怖も感じています。

しかし、人間は動物の想いに、きわめて鈍感になってしまっています。

工場で殺される前の、牛や豚たちの想いがどんなものなのか?

想像すると、言葉を失います。

動物の気持ちなど、判らないのであれば、想像して下さい。

もし、自分が別の生き物に捕らえられ、囲まれて、殺されてしまうとしたらどうでしょう?

想像もできないような恐怖を感じ、必死に助けを求めるでしょう。

牛たちには、助けを求める言葉もありません。

強者である人間のなすがままです。

今、思うと、私が子供の時に工場内で見た牛は、恐怖を通り越し、観念していたように思えます。

自分の運命を受け入れ、その時を静かに待っていたような気がしてなりません。

それを考えると、いたたまれなくなります。

人間から餌をもらい信頼して育った牛が、大きな恐怖を味わいながら、同じ人間の手によって殺され、心に深い傷を負ったまま霊界に強制的に移るため、可哀想なことに、しばらくは錯乱状態が続いてしまうようです。

殺されるために、この世に生まれて来たはずがありません。

感謝して食べれば良いと言う人がいますが、それは詭弁に過ぎないと思います。



ところで、ライオンなどの肉食獣は、動物を殺して食べて生きていますが、どう考えれば良いのでしょうか?

肉食獣にとって、捕食は本能に支配された行動であり、殺しているという概念は持ち合わせていないように思えます。

もしそうならば、良心の呵責など存在しません。

ところが、人間には「殺す」と言う概念が、明確に存在しています。

殺すのは、良心に反する行いなので、実行すれば罪悪感が生まれますが、ほとんどの人は、動物たちを自分の手で殺して、食べている訳ではないので、罪悪感はほとんど感じていません。

しかし、食べている肉は、動物が殺されて作られるのは、間違いなく知っています。

それでも食べてしまうのは、食用の動物は人間より下と考え、豊かな感情を持ち合わせている事実を、見て見ぬふりをしているだけかもしれません。

人間には、動物を食べないでも生きていける選択肢があります。

それでも食べてしまうのは、動物の命を尊重するよりも、食べたいという自己の嗜好的欲求が勝っているからだと思います。

肉を食べるのは、愛を基調とした自然法則に反していると考えられ、魂の成長の妨げとなると共に、心身の病気などを通して、相応の償いが生じているのかもしれません。



牛や豚の目を良く見ると、かわいらしく、優しい目をしています。

牛や豚は肉である前に、豊かな感情を持ったかわいい動物であり、生き物としての威厳も感じます。

生まれた仔牛と母牛は、深い愛情で結ばれています。

母牛から引き離され、大きくならないうちに殺され、仔牛の肉として、人に食べられるのでは、あまりにむごすぎます。

それを、柔らかくておいしいと言って、食べる人の気持ちが、私には判らなくなりました。



悲劇は、他者の想いが判らないために生まれてしまいます。

動物たちの想いを知らないから、食べることができます。

それは、人の想いが判らないために、争いが起きてしまうのと同じです。

もし人が、動物たちの本当の想いを知ることができたならば、こんな悲劇は生まれないでしょう。




牛や豚は人に食べられるためではなく、人間が窺い知れない目的や役割があって存在していて、同じ地球に生きる、対等な仲間だと思います。

もし、人間が地球上で1番進化した動物であるのならば、他の動物に対して1番優しくなければいけません。

地球上が、人間の独裁社会のように見えてしまうのは、私だけでしょうか?

独裁社会になっているために、環境破壊が進み、動物虐待が横行しています。



あの時の牛の命を奪った、骨を砕く鈍い音は、40年経った今も耳から離れることはありません。

物言わぬ動物たちは、今も、声なき悲鳴を上げています。

肉食をやめるのは、決して簡単なことではありません。

しかし、人間は肉を食べなくても、生きて行けるように創られていると思います。

世の中が唯物的になるほど、肉を食べるようになり、霊性(魂)に目覚めるほど、肉を食べなくなり、人間本来の食生活に戻って行くと思います。



動物には、人と同じように想いがあります。

人は、動物を食べなくても生きていけます。

もし、迷っているのであれば、思い切って今日から、肉をやめましょう!


食べないでね



参考ページ: 「かわいい動物たち」