2017年7月9日日曜日

愛するために信じる



日本人は海外の人から、良く無表情と言われています。

アメリカに行くと、初対面の人に握手を求められますが、その時の相手の表情は決まって、口角が上がり前歯を見せた笑顔です。

その方が、確かに安心するのですが、自分が真似しようとしてもなかなかできません。

日本は、ほぼ単一民族国家であり、笑顔を見せなくても、生活をして行く上で支障はありません。

一方、アメリカは多民族国家であり、話す言葉や文化が出身国によって大きく違うため、意志の疎通が上手く行かない時代があったと思われます。

身の危険を感じさせてしまえば、銃の所持が許可されているので、命の保障はありません。

知らない相手には、まず敵意がないことを伝えておく必要があり、自分を信じてもらうために笑顔を強調するようになったと聞きました。



子供の頃に、人を信じることが大切だと、何回も聞かされましたが、その真意は判りませでした。

確かに、誤解が生まれて友達が信じられなくなると、ケンカになり易くなったと思います。

世界中で戦争が起きるのは、お互いを認め合い、許し合うことが出来なくなったせいですが、元をたどれば、相手を信じることが出来なくなったためだと思います。



家族の間で問題が起きた時に、「こんなに、あなたのことを思っているのに、どうしてなの?」と、嘆く人の言葉を聞きます。

どんなに思って(愛して)いても、お互いに信じていなければ、想いが通い合うことはありません。

問題が起きたのは、相手の想いが判らなかったためであり、それは信じ合えていなかったからなのかもしれません。

他者との関係で、苦しい思いをしてる人ほど、相手を信じていないのかもしれません。



信じることで、相互の間に、つながりが出来ると考えられます。

つながりを通して、相手に自分の想いが伝わると思います。

喩えて言えば、相手に伝える想いが「水」であれば、信じることは「水路」のようなものになります。

水路があって、初めて水が流れます。

いくら想いがあったとしても、信じ合えていなければ、想いは通いません。

相手を信じなければ、想いは行き場を失ってしまいます。

行き場を失った想いは、苦しみや悲しみとなって、自分に返って来てしまいます。

苦しくなったり、悲しくなってしまうのは、もしかしたら、相手を信じていないからなのかもしれません。



なぜ、信じないと、苦しみや悲しみを味わうことになってしまうのでしょうか?

信じないことが、神の摂理(自然法則)に適っていないからと考えられます。

神が望んでいるのは、愛し合うことです。

信じなければ、愛し合うことができないので、生きる意味を失ってしまい、苦しみや悲しみとなってしまうと考えられます。

人は誰でも苦しみや悲しみを味わいたくありませんので、神の摂理のの働きにより、やがて信じるようになって行くと思います。



魂の存在を、信じない人がいます。

信じる、信じないは、個人の自由ですが、もし、信じない人が愛する人を失ったら、どうなるでしょうか?

その人にとって、死は永遠の別れを意味します。

愛しているほど、起きた現実に耐えられなくなり、生きるのが苦しくなってしまうでしょう。

苦しくなるのは、永遠に会えないと事実誤認をしていて、それを改めるように、神の摂理が働いているためと考えられます。

誤りを正せば、今の苦しみから解放されると考えられます。



死によって、肉体は無くなっても、魂は存続しています。

魂から想いは生まれているので、生前の愛する想いは、変わることなく続いています。

もし信じなければ、亡くなった人から今も想いが届いていることに、気付くことはありません。



人にとって、悲しく、つらいことは何でしょう?

それは、自分が愛する人に、信じてもらえないことだと思います。

魂の存在を信じない人は、亡くなった人の存在と、想いを信じていません。

悪意はないのですが、亡くなった人を無視し、想いを拒否していることになります。

亡くなった愛する人が、どれほど悲しく、つらい想いをしているか、思いもしていません。

信じようとしない頑固さにあきれて、それが続けば失望に変わってしまい、想いを届けるのをあきらめてしまうかもしれません。

見えないから、存在しないという誤った考えは、あの世とこの世の双方に、無用な悲しみと苦しみをもたらすだけなので、直ちに捨て去らなければいけません。

魂の存在を信じなさいと言われても、にわかには信じられるものではありませんが、信じない限り、いつまでも苦しみから逃れることが出来ません。

信じる者は、(苦しみから)救われるのは事実です。



この世からいなくなった事実は、変えられません。

悲しさ、寂しさが、無くなってしまうことはないでしょう。

しかし、誤りを改めることで、和らげることは可能です。

慰めや、励ましではなく、あの世で生きていて、この世の人に想いを伝えようとしているのは、紛れもない事実です。

姿は見えなくても、あなたが想った瞬間、傍に来ています。

愛する想いは、あの世の魂を引き付ける力だからです。



愛する人の想いがいつまでも届かないのは、あなたが魂の存在を信じ切れていないからなのかもしれません。

頭で考えてはいけません。

五感に頼ってはいけません。

この世に生きている時は、あなたへの愛を肉体的表現により証明出来ましたが、肉体を失った今、それが叶わないことを、どうぞ判って下さい。

証明されなくても、信じるようにして下さい。

あなたに、信じてもらうしか術がないのです。

信じてもらわなければ、想い伝えようにも、伝えられないのです。

愛しているので、想いを伝えたくて仕方がないのです。

何かを感じたら信じるのではなく、この世の人が先に、亡くなった人の存在と想いを、心から信じなければいけません。

今は、信じるのが難しいのであれば、あれほどまで愛してくれた人が、いなくなってしまうはずはないと強く思って下さい。

悲しみ、苦しみの後に、真実を受け入れて、信じられる時がきっと来ます。



この世を生きる意味は、目に見えない大切なものに気付くことかもしれません。

愛より大切なものは、この世に存在しません。

信じ合えば、愛し合うことが出来ます。

強く信じる者が、強く愛し合うことが出来ると思います。

信じることの意味を深く学び、大きく成長して行くために、今生に別れがあるのかもしれません。



違いを乗り越えて、愛し合うために、全ての人は生きています。

ばらばらになったものが、再び1つになるために、私たちは信じ合わなければいけません。










2017年6月25日日曜日

ヒーリングについての私見



約11年前のある朝、ヒーリングの力が出ているのに気付きました。

霊的なことに関心がなかった私には、まさしく青天の霹靂でした。



私は右利きですが、ヒーリングの力は主に左手から出ます。

ヒーリングは左手を置いて行いますが、手のひらが痺れて、ビリビリとした感覚になります。

受ける側も、敏感な人は皮膚がピリピリと感じたり、温みを覚える人がいます。

知らないで自分の太ももに手のひらを置いていると、力が伝わって眠くなってしまいます。



信じられないかもしれませんが、たとえ地球の裏側にいる人でも、ヒーリングは可能です。

実に不思議なのですが、1面識もなく、住所も名前も知らない人でも力は正確に届きます。

また、人だけでなく、同じ魂を持つ動物にも有効であり、人智を超えた力であることは確かです。



現代医学は物質(肉体)を対象としているので、身体を検査して病気の原因が見つからなければ、根本的に治すことはできません。

現代医学で治せない病気の多くは、目に見える身体以外に原因が存在すると考えています。

ヒーリングの力は、見える身体以外の部分に作用して、原因を解消していると思います。

ヒーリングによって不治の病が治るのは、現代医学では認められていない霊的な原因を、霊的な力によって癒しているからと思います。



人は物質的存在ではありません。

物質を超えた精神(心)が存在しています。

科学では精神は脳で作られていると考えられています。

精神活動において、感情は重要な役割を果たしています。

脳は物質であり、精緻な機械(コンピューター)であるならば、感情という非論理的なものが存在する理由は見つかりません。

外部からの情報の処理をしたり、感情や考えを身体で表現するために、司令を出しているのが脳だと思います。

従って、脳が感情を生み出しているのではないと考えられます。

それでは、感情は、どこから生まれるのでしょうか?



怒りっぽい人、泣き上戸な人、笑い上戸な人、その人の個性は感情に表れます。

個性を形作っている何かが存在し、そこから感情が生まれていると考えた方が自然です。

個性を形作っているのものは何か?

それが魂です。

本当の自分です。

魂に個性があり、多種多様な想いが、そこから生まれていると考えれば矛盾は1つもありません。



想い(思念)は、目に見えない魂から生じている霊的な力と考えられ、精神的次元で自覚され司令となり、肉体的次元で言葉や行動となって具現化されます。

例えば、人に裏切られたとします。

魂から、怒りの素となる想いが生まれます。

それが精神的次元で、適当な言語や行動を起こす衝動に変換され、肉体的次元で相手を咎める言葉を発したり、時に攻撃的な行動となって具現化されると考えられます。



想いは消えてなくなるものではなく、肉体的次元で具現化されないならば、内に溜まってしまいます。

想いは、具現化されるべき性質のものであるため、想いが溜まってくると、別の形となって肉体上に具現化される時があると考えられます。

想いという「力」によって、肉体が変化したり、機能が変化するのが、霊的次元に原因がある病気の本質だと考えています。



原因不明とされる病気の多くは、現代医学で存在を認めていない霊的次元に何らかの原因があり、本体は内に溜まった具現化されなかった(摂理に反した)想いであると考えています。

この考えから類推すると、たくさんの想いを溜めている人は病気になりやすく、想いをためていない人は病気になりにくいと考えられます。

思ったこと、感じたことを表現できない人が病気になりやすく、表現できる人は病気になりにくいと言うことになります。

俗に言うストレスが溜まるとは、具現化されなかった想いが溜まっている状態であり、ストレス解消とは、その想いを解放することを指すと考えられます。



想いは、肉体で具現化される力です。

例えば、攻撃的で調和を乱すような想いが溜まってくると、攻撃的で調和を乱す、肉体上のガン組織となって具現化されることがあると思います。

もちろん、ガンの原因は他にもあります。

大量の放射線を浴びれば血液のガンに、タバコやアスベストを吸えばで肺ガンになりやすくなり、遺伝的因子も存在しますが、これらは肉体次元の原因です。

また、霊的次元の原因にも種類があり、過去生の償いであったり、魂の成長させるための手段としてガンになる人もいると考えられます。



霊的次元の想いに原因があり、病気になったのであれば、手術や薬で根本的に治すことは不可能です。

肉体次元の様相は、霊的次元(魂)の様相の反映に過ぎないので、病巣を切り取ったとしても、本体は消失していません。

内に溜まった想いが原因で病気になったのであれば、根本的に癒すためには、その想いが鎮められ、解放されなければいけません。



全ての霊的な病気は、愛によって癒されると考えられます。

ヒーリングの力の源泉は神であり、神の力(愛)によって癒されていると考えています。

しかし、神の力(愛)は、あまりにも波長が高すぎるので、各界層間で波長が下げられ、霊界の医師により、最適な治癒力となってヒーラーに届けられると考えられています。

地上のヒーラーが最後の導線となって、病気を癒す力が患者に注ぎ込まれます。



もし、ヒーリングによって病気が癒されたのならば、神の力(愛)によって、内ある想いが鎮められ、解放されたと考えています。

魂にまとわりついていた想いが、愛により引き剥がされたと言って良いのかもしれません。

ただ、ヒーリングによって、想いが解放され病状が良くなったとしても、魂の成長が伴っていなければ、同じ想いが生じてしまい、再び身体的な症状が現れてしまうと考えられます。



病気の苦痛には、魂を目覚めさせ、成長させると言う、霊的な意味があります。

長年、苦しんできた病気がヒーリングによって治るのは、それまでの苦痛によって魂が成長し、想いを完全に解放する時期が来ていると考えられます。

許せなかったものが許せるようになり、理解できなかったものが理解できるようになり、乗り越えられなかったものが乗り越えられる時が来ると、霊界の導きによってヒーリングが行われ、魂を目覚めさせ、想いが解放され、病気が癒されると考えています。

魂に力を受け入れる資格(成長)がなければ、いかなるヒーラーであっても、病気を癒すことは出来ません。



この世に起きる事象は、全て神の法則に従っています。

病気は、肉体と精神と魂(霊)の不調和によって起こりますが、何かが自然法則に反していたと考えられます。

魂が最上位で精神と肉体を支配しているのが自然な状態です。

しかし、肉体が全てだと勘違いしてしまうと、魂の存在には気付かず、そこから想い(思念)が生まれているなど思いもしません。

そして、人は外部の影響を受けながら、この世だけの自我(エゴ)を精神上に作り上げて行きます。

この世だけの自我がとても大きくなり、幅を利かせてしまうと、魂は奥に追いやられ、そこから生じている想いに気付きにくくなってしまいます。

魂よりも、この世だけの自我(精神)が優先されるのは、自然法則に反していると考えられます。

(魂から生まれた)本当の自分の想いを表現出来ずに溜まってしまうと、その不自然さに気付くために病気になります。



魂から精神、精神から肉体へと生命力が滞りなく、円滑に流れて行くのが本来の姿です。

生命力の循環が妨げられると、肉体上に病気として反映されますが、ヒーリングによって大量の生命力を注ぎ込まれると、内にある想いがフラッシュされるような図式になるのかもしれません。

ヒーリングは、眠っている魂を目覚めさせ、精神を支配下に置き、自然な状態に戻すと考えられます。



では、ヒーラーがいなければ、霊的な病気は癒されないのでしょうか?

人は誰でも、愛する力を持っています。

人(魂)は神の分霊であり、神とつながっているからです。

この世で最も愛する人に向けている想いを、そのまま自分自身に向けてやれば、ヒーリングは可能と考えています。

その想いは自己愛ではなく、他者への愛と同質のものでなければいけません。

人を大切にするように、自分を大切にすれば良いと思います。

人を労わるように、自分を労われば良いと思います。

愛する人の病気が良くなるのを祈るように、自分の病気が良くなるのを祈れば良いと思います。



ヒーリングは心身の病気を癒すために存在しますが、真の目的は魂を目覚めさせるためです。

病気が癒されることで、この世のものではない力が働いたことを実感し、霊的な力の働きによって眠っている魂を目覚めさせると思われます。

病気が癒やされ、魂が主導権を握った時に、人生のシナリオに沿って生きられるようになり、予定されていた成長が得られるようになります。

ヒーリングは、魂の成長のために存在すると思います。








2017年6月11日日曜日

人生の勝者


社会では、常に結果を求められます。

私の仕事においても、(治療)結果が満足いくものでなければ、クレームになったり、黙って去って行く人もいます。

しかし、ベストを尽くしても満足する結果が得られない時もあり、もどかしさを感じています。



スポーツの祭典であるオリンピックでは、結果が出せた人と、出せなかった人の対比が鮮明に映し出されます。

周りの期待を一身に受けて、それに応えるために血のにじむような努力をしてきて、それでも金メダルに手が届かなかった人がいます。

一方、それほど期待されていなかったのに、普段の実力以上のものが発揮されて、金メダルを取ってしまう人もいます。

結果だけを見ると、この世の中は、ずいぶん不公平に出来ていると感じます。

しかし、実際は、自然法則の働きによって、完全な公平が保たれていると思います。



生命とは、肉体ではなく魂です。

人は死んで終わりになるのではありません。

死後にも人生があり、生まれる前にも人生があります。

人生にはおよそのシナリオがあり、今生のシナリオは過去の人生をどの様に生きたかによって決まります。

魂の不完全さを自覚して、過去の人生を悔い改めるために、シナリオが組み立てられ、その人生を承知した上で、最適な母体に宿りこの世に生まれてきます。



メダルを取った人も、取れなかった人も、才能が与えられ、後に競技と出会い、夢の実現に向かって突き進んで行くシナリオがあったと思います。

メダルを取るか、それとも取れないか、決まっていたのかは定かではありませんが、夢を実現させるために、人並みはずれた奮闘努力をすることは、予め決めていたと思います。

人が真似できなような努力が出来るのは、果たさなければならない約束であることを、魂が自覚しているからと考えられます。



表彰台で首にかけてもらうメダルは、勝者だけに与えられる栄光の印です。

しかし、本当に価値があるのはメダルなのでしょうか?

メダルは奮闘努力するための触媒であり、その結果得られる成長が、本当の価値を持っていると思います。

たとえメダルを取れなかったとしても、そこに至る過程で成長していれば、当初の目的は十分に果たしていると言えます。

悔し涙を流すかもしれませんが、その想いが次につながって行きます。

どんな経験も無駄にはならず、将来の自分の成長のための糧になっています。



生きる目的は、万人に共通しています。

この世でしか出来ない経験を通して、自分(魂)を成長させるためです。



勝者がいるのは競技だけであり、人生に勝者はいません。

勝つことだけを考えていると、生きる意味を見失ってしまいます。

この世界で勝者としてもてはやされていた人が、あの世の行って、惨めな思いをすることがあるようです。

勝者の証とも言える地位や名声、財産が、死と共に、ことごとく消え失せてしまうからです。

夢中になって追いかけていたものに、永遠の価値がないことを知って、何のために生きてきたのか判らなくなってしまうからです。

一方、苦労ばかりの人生だったと、哀れんでもらうような人が、実は大きな悦びを味わっていると思います。

功績は残らなくても、人や動物や社会が喜ぶことを心がけて生きてきた人も、大きな悦びを味わっていると思います。



目に見えない自然法則が、この宇宙を支配しています。

その自然法則は、想ったこと、言ったこと、行ったこと全てに働いていて、相応の結果をもたらします。

苦難や障害を乗り越えて行けば、自然法則の働きにより、魂は成長します。

他者に愛を表現(奉仕)をすれば、同じく自然法則の働きにより、魂は成長します。

人生に勝者敗者はありませんが、人生を振り返り、悦びに満たされる人と、悔やむ人がいることは確かなようです。

この世で魂が大きく成長した人は、それこそ金メダルを取った時のような悦びと達成感に満たされているような気がします。



 どうすれば、生き甲斐のある人生を送ることが出来るのか?

シルバーバーチは、人(や動物や社会)のために自分を役に立てること、困難を乗り越えて行くことによって魂(自分)が成長すると明言しています。

そして、人生の晴れ間ではなく、嵐が吹き荒ぶ時に自分が成長していたことを知り、神に感謝すると言っています。



目に見える結果だけで、全てを判断してはいけないようです。

結果の中に、目に見えない本当の意味が隠されているからです。

人生の学びとは、そこに隠された意味を得心することかもしれません。



物質に囲まれているこの世では、目に見えるものが全てだと、つい勘違いしてしまいます。

本当に大切なものは、神の配慮によって、判らないようになっています。

大切なものが見えてくるのは、それまで見えていたものが目に入らなくなった時です。

あまりの暗さに、この世の目が見えなくなると、魂の目が開きます。

魂の目が開いて視えてくるものは、「命」であり、「愛」です。



この世の出来事は、神の法則によって起こります。

神の法則は、生命を成長させる方向に導いています。

成長とは、より高く、より強い愛を表現するようになることです。

この世に起こる出来事は、苦しみや悲しみを経験し、より高く、より強い愛を表現するためにあり、その目的は1つになるためです。



人生は競い合うものではないので、勝者はいません。

ただ、この世の困難や障害を乗り越え、より高く、強い愛を表現できるようになった人を、神に祝福された、人生の勝者と呼んで良いのかもしれません。





2017年5月28日日曜日

信じ合い、愛し合うことで1つになって行く




ソンブレロ銀河
ハッブル宇宙望遠鏡で捉えた外銀河の写真を見ると、神秘的な美しさに圧倒されます。

どうすれば、こんな美しい造形が出来上がるのでしょうか。



私たちの宇宙は、138億年前にビックバンにより誕生したと考えられています。

突発的に誕生したのか、それとも計画的であったのか?

その疑問に、科学者は答えてくれません。



宇宙は計画的に誕生したと、私は信じています。

宇宙創造には、何らかの意図が隠されいると信じています。

ちっぽけな私に、その意図など判るはずもありませんが、想像をはるかに超えた、とてつもなく大きな存在が背後にいるのは間違いないと思っています。

多くの人は、その存在を神と呼んでいます。



私たちは広大な宇宙を構成する一部です。

とてつもなく大きな存在である神によって、宇宙が創造されたのであれば、私たち人間も神によって創造されたことになり、両者は密接不可分の関係あると考えられます。

神によって創られた、神とつながっている一部と考えて良いのかもしれません。

けれども、私たちは、完全な神とは遠くかけ離れています。

あまりにも不完全です。

そんな不完全な私たちを、神はなぜ創造したのでしょうか?



完全は不動のものであり、変化はありません。

不完全なものを創り、それが完全に向かって変化して行く過程を、同時に創造したと考えられます。

進化とは、生命が完全へと向かって行くことを指すと考えられます。

より完全な方向へと、自然法則(神)により、導かれていると思います。

完全に向かうためのエネルギーを、神から受けながら、進化していると思います。



本を正せば、あらゆる存在は1つの莫大なエネルギーだったと考えられます。

一つであったものを、何故ばらばらにしたのか?

ばらばらになったものを、再度1つにさせようとする意図があると考えています。

完全であったものを、ばらばらにして不完全にさせ、再度1つの完全なものにする意図があったと考えています。



私たちが五感で認識しているのは、物的な宇宙です。

物的な宇宙よりも高次に、五感に触れない霊的な宇宙が存在し、そこには無限の界層があると考えられます。

霊的な宇宙の中で、ばらばらになった限りなく小さな一分子が、生命(魂)と考えられます。



物的な宇宙は、膨張、拡散を続けています。

霊的な宇宙は、ばらばらになった生命(魂)が、1つになる方向に向かっていると思います。



今から数千年前、自分の住処から山1つ隔てれば、そこは未知の世界だったと考えられます。

1つの小さな集落の中で、一生が完結していた人が、ほとんどだったと思います。

しかし、人間には好奇心、探求心があり、外の世界を覗いてみたくなります。

山を越え、海を渡り、未知の世界に足を踏み入れて行ったと思います。

そこで、言葉や文化や生活習慣の異なる人たちと出会います。

最初は、驚き、警戒したでしょうが、次第に、外の世界との交流は盛んになり、活動範囲は拡がって行ったと思います。

ある者は、周囲を力により服従させ、支配して行ったでしょう。

また、ある者は、友好関係を結び、共存して行ったでしょう。



歴史を振り返ってみれば、1つのまとまりは、時代と共に、大きくなっているのは明らかです。

集落は共同体という形で1つにまとまり、長い年月をかけて、現在の国家と言う単位になって行ったと思います。

もし、1つのまとまりが大きくなる方向に進んで行っているのであれば、はるか先には、地球が大きな1つのまとまりになると考えられます。

小さなものがまとまって集団となり、集団の集まりが国家になり、国家が集まり、間にある障壁が取り払われた時に、地球が1つにまとまると思います。

それは、ばらばらになったものを、1つにさせると言う神の意志によるものであり、神の創った自然法則の働きにより、必ず成就されると考えられます。



1つになって行くために必要なものは、何でしょうか?

力によって、ばらばらなものを、見かけ上ですが、1つにすることは出来ます。

しかし、それは永続的なものにはなりません。

自然法則に反しているため、同じ力によって、いづれ元に戻ってしまいます。



永続的に1つになるためには、何が必要なのでしょうか?

それは愛です。

私たちは、愛により1つになれます。

愛を表現すれば、自然法則の働きにより、お互いの生命(魂)は引き付けられ、1つになります。



神は無限の愛であり、無限の叡智です。

1つの魂(人間)は、霊的な宇宙の中で、極小の存在であっても、神が創った一分子に変わりありません。

魂が神的な一分子であるならば、初めから愛を帯びていると考えられ、愛を表現して1つになろうとしているはずです。



しかし、地上の人には肉体という表現媒体があります。

そのために肉体的欲求が生まれてしまい、それを満足させなければいけません。

満足させるために、地上的自我を発達させて行くようになります。

地上的自我が発達して、肉体的欲求を満足させようとすれば、外部への関心は薄れて、軋轢が生じ易くなります。

それが高じてしまうと争いとなり、苦痛を伴う出来事が起きることになります。

地上的自我が発達してくるのに従い、霊的自我(魂)は奥に押し込められて、1つになろうとする欲求は掻き消されてしまいます。



人は、霊的な存在であることを、忘れてしまっています。

人の本質は、肉体ではなく、魂(霊)であることを、忘れてしまっています。

内在されている神の愛が、地上的自我に阻まれて、表現されにくくなっています。

地上的自我は、目に見えるものだけを信じて生きようとします。

目に見えない愛を感識することは出来ず、物質的なものを頼りに生きようとします。

しかし、物質的なものは本質ではないので、いくら手に入れても、虚しさや、孤独や、不満がなくなることはありません。

霊的自我(魂)は、目に見えないものを感識できます。

目に見えない愛は、魂により感識され、悦びやあたたかさになり、充足感が得られます。



地上的自我が占拠してしまうと、霊的自我(魂)は埋没してしまい、そこから生まれている自分本来の想いを表現出来なくなってしまいます。

内在している愛の想いを表現できなければ、魂の成長は出来ず、生まれてきた目的を成就出来ません。

地上的自我と霊的自我のせめぎ合いの中で、地上的自我が勝てば軋轢が生まれ、争いとなり、苦痛を伴う結果が生じます。

苦痛は誰もが避けたいものですが、魂にまで響き、目覚めさせるという深甚な意味があります。

地上的自我は吹き飛ばされて、霊的自我(魂)が主導権を握り、内在する愛に気付き、それを表現しようとする欲求が生まれて来ます。

苦痛により霊的自我が目覚めると、1つになる方向に向かい始めます。

遠い過去から、その行程が絶え間なく繰り返えされ、今に至っています。



全ての人が、霊的自我に目覚めれば、地球は1つになります。

けれども、肉体を持つ不完全な存在であるために、さらなる苦痛が必要と思われます。

ばらばらになった生命(魂)が1つになるのは神の意図であるために、はるか先になりますが、必ず成就されます。



1つになるためには、愛し合わなければいけません。

その前に、お互いを信じなければいけません。

信じることは水路のようなものであり、その水路を通して、愛と言う水が流れます。

水路がなければ、たとえ水がたくさんあっても、流れることは出来ません。

間にある障壁は、信じ合うことにより消滅します。

とても単純ですが、容易ではありません。

それまでの苦痛や悲しみが、悦びに変わる経験を通して、信じることの意味を魂に刻んで行きます。



お互いの存在(魂)を信じ合えれば、いつの日にか、愛し合えるようになります。

愛し合えるようになれば、隔てるものはなくなり、1つになります。



1つになったものが、またばらばらになることはありません。

なぜなら、信じ合い、愛し合うために、1つのものがばらばらになったからです。







2017年5月14日日曜日

子育ては知識ではなく愛情



私の家には、「しろ」という名の7歳の雑種の犬がいます。

しろは生まれてすぐに、5匹の兄弟犬と一緒に捨てられ、保健所に収容されていました。

このままでは、死んでしまうかもしれなかったので、家族で5匹を引き出して、育てることにしました。

母犬はいなくても、生まれたての子犬たちは、人間が与えるミルクで順調に育ちました。

しばらくして、里親が見つかり、全匹もらわれて行きました。



しばらくして、しろの様子を伺おうと、飼い主になった人に連絡を取ったのですが、つながりませんでした。

義父が亡くなった直後で、妻は大変な時でしたが、そのことがとても気になっていました。

何気なく、保健所に収容されている犬を掲載しているホームページを見たら、そこに大きくなったしろらしき写真を見つけたそうです。

実家から戻った妻は、早速、その犬を確かめに行きましたが、やはりしろでした。

穏やかでやさしい犬なのに、ウーっと唸り声を上げていたそうです。

会えたうれしさと、何でもっと早く迎えに来なかったのかとの想いが、入り混じっていたような気がします。

偶然ではなく、霊界から働きかけがあって、見つけられたと考えています。

飼い主になった人は、その後、精神を病んで動物を飼える状態ではなくなってしまい、しろが逃げ出してしまったようです。



飼い主の家を出て、しばらく放浪していたため、やせ細っていました。

そして、生後8ヶ月しか経っていませんでしたが、妊娠していました。

1才にもなっていない犬が、子犬を産んで育てられるのか、少し心配でしたが、しろのお腹はどんどん大きくなって行きました。

そして、動物の出産を初めて見る時が来ました。

犬は安産の象徴と言われますが、産まれる瞬間は「キャイーン」と痛そうに啼いていました。

2匹の子犬を産んだ直後に、羊膜をきれいになめて取り除いていました。

誰に教えてもらうのでもなく、子犬にフンやおしっこを促したり、お乳を飲ませたりして、1歳にも満たないしろの子育てが始まりました。

母犬から引き離され、子育ての仕方を全く知らないしろでしたが、無事に子犬を育てることが出来ました。

その様子を毎日見ていて、子育ては知識ではないと思いました。

動物の持つ本能と言ってしまえばそれまでですが、子育ては愛情表現そのものと思いました。



生命(魂)は、神の一部であり、常に神とつながっています。

 もちろん、神とつながっているのは、体感的に認識されていません。

目に見える肉体は、口から取り入れる栄養によって活動していますが、目に見えない霊的次元の魂(霊)は、大始源である神から生命力を受け取り活動しています。

魂が受け取った生命力は、出来事を経験することにより思念(想い)となり、精神的次元で思考や感情に変換され、最終的に肉体的次元で表現されて、完結していると考えられます。



神は無限の愛です。

生命力は神から受け取っているために、愛を帯びています。

従って、本来人間は、愛を表現するために生きていると思います。

しかし、肉体や(この世の)自我を持っているので、それを満足させることを優先してしまい、愛を表現することを、つい忘れてしまいます。

誰かのために何かをしようとすると、自分の持っている力以上のものが発揮される時があります。

それは、誰かのためにという愛の想いにより、神と同調し、つながりが強くなり、より多くの生命力が魂に流れ込んでいるためと考えられます。

生命力と共に、愛を表現するための叡智が与えられていると考えています。



愛情表現を通して、動物の魂は、神と強く結ばれていると思います。

動物を見ていて、子育てに必要なことは、神から全て伝わって来て、ただそれを行動に移しているだけのように思えてなりません。

そう考えると、同じ動物である人間を育てるのも、知識ではなく、愛情があれば心配ないのかもしれません。

知識は、あくまでも補助的なものであり、詰め込むほどかえって混乱し、不安になってしまうような気がしてなりません。

肝心の愛情がなければ、いくら持っている知識を実行に移しても、上手く行かないのかもしれません。

赤ちゃんが泣いていたら、何故泣いているのかを考えるのではなく、抱き上げて、心を鎮め、その瞳を見つめていれば、何かしらの理由が浮かび上がって来るのかもしれません。

一人で生きているように見えますが、私たちは常に神とつながっています。

頭で考えて行動するのではなく、愛情を持って行動していれば、霊界から直感として答えをもらい、それに従って行動すれば、良い結果が生まれるような気がします。



世の中には、子供に対する愛情を持てないと、悩んでいる人がいます。

そんな人は愛情がないのではなくて、何らかの原因があって、表現できなくなってしまっていると思われます。

原因の多くは、トラウマと呼ばれるものですが、それは過去の出来事の記憶ではなく、生じていた想いによって引き起こされると考えられます。

過去に生じていた想いが障害となって、素直な愛情表現が出来なくなっていると考えられます。

最も信頼するべき存在、愛情を注いでもらえる存在から、ひどい仕打ちをされて、表現できないような強い想いが生じていたと思います。

安心や満足が生まれるところが、恐怖や不安や不満が生まれてしまったと考えらます。

時を経て、自分が親になった時に、記憶として残っていない過去の恐怖や不安が呼び覚まされ、心が縛られて、身動きできなくなってしまっている可能性があります。

あなたが悪いのではなく、物心も付いてない時に受けた行為により、愛情表現が出来なくなっているだけです。

従って、自分を責めたり、愛情がないと嘆く必要は全くありません。



心の奥でうごめいている何者かは、表現が出来なかった想いです。

生きづらくしている、自分の想いを表現しにくくさせている、内にある過去の想いを解放させてやりましょう。

簡単に、誰でも出来るやり方を試してみましょう。

幼かった時のあなたを心の中に思い描いて下さい。

当時の写真があれば、もっと良いです。

その時の自分を、やさしく、包み込むような気持ちで、「もう大丈夫だよ」と、微笑みながら声をかけ、目を閉じて心の中で抱きしめてやりましょう。

その時、注いでもらえなかった愛情を、今のあなたが代わって注いでやりましょう。

少しずつで良いですから、毎日続けてみましょう。



この宇宙を創ったのは神です。

神は無限の愛であり、愛に勝る力は、この宇宙に存在しません。

恐怖、不安、怒り、他のあらゆる想いは、愛の力により解放させることができます。

屈折してしまっている愛の表現は、想いが取り除かれることにより、本来の表現を取り戻します。



ところで、人は何故、愛を表現しなければいけないのでしょうか?

愛を表現することで、自分(魂)が成長するという自然法則があるからです。

そして、魂は成長して、神に近づくように、定められているからです。

愛を表現するように、自然法則により導かれているのですが、何らかの原因で表現できなくなってしまうと、成長が出来なくなってしまいます。

そして、成長が出来なくなると、自然法則の働きにより、苦痛が生じるようになっています。

人は、生まれる前に決めていた試練として(霊的な)病気になることがありますが、それ以外は、今生で生じていた原因で病気になると考えられます。

今生で生じた原因の多くは、肉体で表現できなかった、内に溜まっている想いと考えられます。

病気に伴う苦痛は、魂を目覚めさせ、内に溜まっている想いに気付かせると言う意味があります。

そして、苦痛によって魂は成長し、成長した魂から生まれる愛によって、内に溜まっている想いは解放されます。

原因があって病気になりますが、その原因を取り除いて行くのも病気です。

多くの病気は、自分の成長を妨げている想い(原因)に気付き、それを排除するためにある、神の摂理の1つと考えられます。



与えられた試練以外の苦痛は、愛に反する行為により作り出されたものです。

愛に反する行為を受けたことにより、恐怖や不安が生じていて、愛が表現できにくくなっていて、成長が妨げられています。

自分は悪くないのですから、苦痛から解放されて、自分(魂)から生じている愛を、自然に表現できるようになれるはずです。



子供を育てるのは、成長するために与えられた試練であり、悦びです。

自己を犠牲にすることで魂は成長し、愛情を表現することで悦びとなります。

もし、子育てが悦びにならないとしたら、親としての義務感が優先されて、愛情が表現されていないのかもしれません。

頭で考えるのではなく、湧き上がってくる直観に従えば良いのかもしれません。

神の摂理によって子供を授かったのであれば、神の摂理に守られて子供は育つはずです。

そこに愛情があれば十分なはずです。



しろ











2017年4月30日日曜日

自分を成長させるために出来事は起こる



人は、何のために生きているのか?

答えは明快であり、魂を成長させるためです。

魂とは生命そのものです。

時に笑い、時に泣き、日々悪戦苦闘しながら、この世を生きているのは、魂を成長させるためです。

人や動物や社会のために、何か貢献したいと思うのは、その行為が魂を成長させるからです。

何かに挑戦したいと望むのは、魂がより一層強くなりたいと希求しているからです。

同じ場所に留まっていると、苛立ちを覚えたり、苦痛に感じてしまうのは、魂は成長して行くように定められているからです。



私たちは、大まかな人生のシナリオを承知した上で、この世に生まれてきています。

出生時の環境や、人生で起こる出来事や、出会いなど、生れる前の自分は承知していましたが、そのことをすっかり忘れてしまっています。

何故、忘れてしまうのか?

もし、事前にシナリオが判っていたのなら、どうなるのでしょう?

気になってしまい、落ち着いて生きることなどできません。

人によっては、こんな人生など耐えられないと、逃避してしまうかもしれません。

人はそれほど強くないので、逃避する過ちを犯さないように、判らないようになっていると思います。



一人ひとりに、この世で果たすべきことがあり、学ぶべきことがあるようです。

今、立ち向かっている試練は、今生で果たすために、生まれる前に約束していたものかもしれません。

最中にいる出来事は、経験を通して、大切なことを学ぶために起きているのかもしれません。



大きな出来事を乗り越えた時に、以前より成長したと感じるのは、困難や障害を乗り越えることで魂が成長すると言う、霊的な法則があるためと思われます。

出来れば避けたい不幸や不運と思われるような出来事であっても、苦しみながら乗り越えて行くことで、魂は大きく成長し、この世に生まれた目的を成就していると考えられます。



この世の中には、さまざまな才能を持った人たちがいます。

芸術家と言われるような人たちは、多くの人の魂に響くような作品を創り出すために、天賦の才能を与えられています。

しかし、その人生は平凡ではなく、波乱万丈であることが多いようです。

繊細かつ豊かな感性を磨き、表現する才能を花開かせ、優れた作品を創るためには、さまざまな苦悩や人生経験が必要なのかもしれません。

ベートーヴェンの人生は苦難の連続であり、さらに全聾という音楽家として致命的な障がいがありましたが、全てを乗り越えた末に辿り着いた境地が、第9の「歓喜の歌」に表現されていると思います。

ブログにも書きましたが、フランスの彫刻家であるカミーユ・クローデルは、ロダンとの身が引き裂かれるような別れがなかったとしたら、極限の悲しみを作品に表現出来なかったでしょう。

人はその芸術的才能に憧れますが、もし、その波乱に満ちた人生のシナリオを同時に経験しなければいけないとしたら、ほとんどの人は尻込みしてしまうかもしれません。



多くの人は、特異な才能があるわけではありません。

平凡と思える人生を送っています。

そんな人生であっても、1人ひとりにオリジナルのシナリオがあります。

生まれる国、性別、家庭はもちろん、就職や結婚といった魂の成長にとって重要なライフイベントも、予め決められていて、それに沿わせるように、霊界(守護霊)によって導かれていると考えています。

生活して行くために仕事や家事をしているのですが、少なからず忍耐や自己犠牲が必要です。

1つ1つは小さな行いであっても、社会や家族のためにする立派な奉仕であり、長い年月、続けていくうちに、魂は大きく成長して行くと思います。

結婚する人は、相性が良い人ではなく、自分の魂を大きく成長させてくれる人が、導かれて来ると考えています。



誰1人として平坦な人生はあり得ず、必ず山があったり、谷があったりします。

人は、何とかして山を乗り越えたり、谷から這い上がろうとしますが、何故なのでしょうか?

それは、自分に与えられた試練であり、自分が成長することを、魂は知っているからだと思います。



困難や障害のない人生が、1番幸せと考えている人が多いのですが、それは誤りです。

真に幸せな人生とは、自分を大きく成長させた人生です。

困難や障害を、苦しみながらも、乗り越えて行った人生です。

いくら困難を乗り越えて自分が成長しても、死んでしまえばお終いだから、楽しい人生であれば良いと思う人がいるかもしれませんが、その誤った認識も改めなければなりません。



この世界が、全てではありません。

この世界は感触に実感があるので、他の世界など想像もつかないのですが、死んだ後に別の世界が待ち受けています。

そこでは、物的なものはなくなり、霊的なものが実在となります。

肉体は失われ、あるがままの自分(魂)が、むき出しになります。

この世では、心の中で憎んでいても、笑顔で対応することが出来ます。

あの世に行くと、憎しみを隠し立てするものはなくなり、その想いは光となって放射されます。

光が放つ色によって、その魂がどんな想いでいるのかが判ります。

自分の偽らざる想いが人に知られるため、嘘が存在し得ず、隠し立ても出来ず、裏表はなくなり、真実しか存在しない世界に、私たちは必ず行きます。



この世を、どう生きたかによって、魂のありさまは、大きく変わってきます。

この世で、人に優しく、思いやりを持って接して来た人は、慈愛に満ちた魂となります。

この世で、周りに怒ってばかりいた人は、怒りに満ちた魂となります。

この世で培った本性は、そのままあの世に持ち越されます。



この世で人を評価する時には、知性や地位や財産が基準となることが多いのですが、あの世では魂を評価する絶対的な基準は霊性になります。

自己を犠牲にして、他者に愛が表現できる魂ほど、霊性が高いと考えられます。

霊性が高い魂ほど、神からふんだんに生命力が流れ込み、美しく光り輝いていると考えられます。

完全(神)に近づくほど、次元の高い愛を表現できるようになると考えられます。



あの世では、自分と同じような霊性(格)の魂と共に暮らすことになります。

お互いの想いが判り合える、すばらしい境涯であり、この世のような苦しみや、痛みや、悲しみは、もうありません。

当然、いつまでもそこに居たいと思うような気がしますが、実はそうではなさそうです。

魂(生命)は、完全に向けて成長して行くように、定められているからです。

あの世に行くと、それまで内にあった魂が露わになるために、嫌でも自分の不完全さに気付き、足りないところを、どうにかして補おうとするようです。

しかし、物を買うように手に入れられるはずもなく、それに見合った経験を積まなければいけません。



例えば、他者を信じようとしないという自分の欠点に、ようやく気付いた魂がいたとします。

あの世では、自分と同じような魂と共に平穏に暮らしているので、深く響き、魂を変えられるような出来事は起こり難いと考えられます。

平和で快適な世界なのですが、比較対象となるものがなく、何かの教訓を学んだり、経験を通して叡智を身に付けるのには適していないと言えます。



そこで、自分とは違う魂が集い、魂に響くような出来事が起こる地上に、志願して生まれてきます。

人を信じようとしない魂は、信じることを信条としている両親の元に生まれて育ててもらったり、信じるのに値する人と出逢うことで、考えを改めて行くかもしれません。

あるいは、徹底的に窮地に追い込まれた末に、人に助けてもらうような、強烈な出来事を経験する人生を選ぶことで、人は信じられるものであると得心して行くかもしれません。

この世でしか経験できないさまざまな出来事を通して、自分の欠点を正し、魂の足りない部分を補いながら、成長して行くと思われます。

出来事には必ず意味があると良く言われますが、それは自分(魂)の成長にとって意味があるのであり、完全に一歩近づくために、起きていると考えても良いのかもしれません。



足りないところ、学ばなければいけないことは、誰一人として同じではありませんので、人それぞれ違った人生になります。

従って、人の人生を羨んだり、自分の人生を恨んだりするのは愚かと考えられます。

この世の目でしか見られず、霊的な意味が判らないと、そんな思いを抱いて、苦しんでしまうかもしれません。



人生は死んだ後も続いています。

そこで、今生での苦しみ、悲しみは、全て報われます。

完全な公平、公正、平等が行き渡っていたことを知り、神に深く感謝すると思います。







2017年4月16日日曜日

霊的な病気について



現代医学でも、多くの病気は、精神(心)と密接な関係があると考えるようになってきました。

昔から、胃潰瘍はストレスにより起こることが知られていましたが、現在は、高血圧症やぜんそく、アトピー性皮膚炎なども、精神的な要因によっても引き起こされると言われています。



一般的に、人間は目に見える肉体と、目に見えない精神から成り立っていると考えられています。

実際は、精神の上位に魂(霊)が存在しています。

3者は密接につながり、連携しながら活動しており、魂が精神を支配し、精神は肉体に命令を下しています。

原因が未だ明らかにされていないガンや膠原病などの病気は、目に見えない魂(霊的次元)に、根本原因があると考えています。



では、なぜ霊的次元にある原因が、心身に変化をもたらすのでしょうか?

肉体は、口から入る食物によってエネルギーを摂取して活動していますが、目に見えない魂と精神は、それとは別系統の生命力(霊力)によって活動しています。

魂は、生命力の始源(神)とつながっていて、絶えず生命(霊)力が流れ込んでいます。



私たちは、この世でさまざまな出来事を経験します。

出来事が起こると、さまざまな想いが生まれます。

悦び、悲しみ、怒りなどの想いは、魂から生じていて、精神を経由して、肉体で言葉や表情あるいは行いとなって表現されています。

想いは、肉体で表現される元となる力であり、魂から精神、精神から肉体へと、それぞれの次元に変換されながら流れて行きます。

3者が一直線で結ばれ、肉体に滞りなく力が行き渡って、(肉体的)表現がされている状態が健康と考えられます。



生じた想いが、そのまま肉体で表現されているのであれば、病気になりにくいと思われます。

しかし、想いとは全く違うものを、精神(自我)が命令し、肉体で表現し続ければ、3者の間に、不調和が生じてしまうと考えられます。

具体的に言えば、憎しみを抱いている人に、愛情表現を続けたら、想いと行動が一致していないので、心身を病んでしまう可能性があります。

動物が大好きな人が、殺処分を開始する機械のボタンを毎日押し続けたとしら、病気になってしまうと思います。



また、自分の想ったことが言い表せなかったり、行動が出来なかったりしても、不調和が生じてしまうと考えられます。

他者から、精神的、肉体的暴力を受け続けて、何も言い返せなかったり、逃げ出せなければ、内に想いが滞ってしまい、病気になり易いと思います。

生じた想いが小さなものであっても、長い間、押し殺し続けてしまえば次第に大きなものとなり、不調和が生じて、病気になり易いと思います。



大変稀ですが、熱心なキリスト教信者に聖痕(スティグマ)が現れることがありますが、強い想いが、肉体上に変化を起こしていると考えられます。

その現象は、想いは肉体上に変化を起こす力であることを、物語っていると思います。

魂から生じた想いは、肉体的次元で表現されて、解放されています。

しかし、何らかの理由によって、表現されなければ、霊的次元に滞ってしまいます。

肉体は魂(霊)を表現している媒体です。

霊的次元で起きている変化は、肉体的次元の変化として反映されます。

表現されなかった想いは霊的次元の変化として、肉体的次元において組織を変化させたり、機能異常を起こしていると考えられます。

肉体上の病気と言う、別の形となって、想いは表現されていると考えられます。



今、日本人の2人に1人がガンになります。

高齢化社会になったとは言え、医学が発達した現在、この割合はあまりにも多いと思います。

一般的に、発ガン物質や放射線、あるいは遺伝因子によって細胞分裂時のコピーミスが起こり、無秩序に増殖を繰り返すようなガン細胞が生み出されると言われています。

タバコを吸ったり、放射線を被爆するとガンの発生リスクが高まるのは、周知の事実です。

最近の研究で、ガンになり易い性格(気質)があるらしいことが判ってきました。

L・テモショック、H・ドレイアというアメリカの心理学者が、150人以上のメラノーマ(悪性黒色腫)患者を面接し、その約4分の3に、以下のような共通の性格的特徴があることを認めたそうです。

1.怒りを表出しない。過去においても現在においても、怒りの感情に気付かないことが多い。

2.ほかのネガティブな感情、すなわち不安、恐れ、悲しみも経験したり表出したりしない。

3.仕事や人づきあい、家族関係において、忍耐強く、控えめで、協力的で譲歩を厭わない。権威に対し従順である。

4.他人の要求を満たそうと気をつかいすぎ、自分の要求は十分に満たそうとしない。極端に自己犠牲的になることが多い。

メラノーマ(ガン)になった人は、怒りの感情に気付かないことが多く、怒りなどのネガティブな想いがあったとしても表現しない傾向がありそうです。

つまり、怒りや恐れなどが生じても、上手く表現できずに、内に溜めてしまった人が、ガンになり易いと言えます。

もう一歩踏み込んで、内に溜まっていた想いが、ガンを発生させる原因となっていると考えるのは行き過ぎなのでしょうか。



ガンの本体は霊的次元に存在する、表現されなかった想いであり、長い年月をかけて蓄積した怒りなどの(摂理に反した)想いが、攻撃的で暴力的な細胞に変化させる力となっている可能性があります。

そのために感情と連動していて、強い怒りや憎しみが生じた時には、活性化してより攻撃的な組織に変化すると考えられます。

強い恐怖や不安なども、ガンの元となる想いであるため、怖れや不安を感じた時には連動して、ガンは活性化すると考えられます。



多くの人は、肉体に起こった変化に恐怖や不安を感じて、病変を消滅させようとしますが、その行為が攻撃的で暴力的であるため、ガンを活性化させていると思います。

もし、何者かに攻撃をされれば、自己を守るために、反撃に出ると思いますが、同じことがガンに起きていると思います。

こちらから攻撃をすれば、因果律の働きにより、さらに攻撃的な組織に豹変する可能性があるので、厳重な注意が必要です。

霊的次元の想いが、肉体次元の病変となって反映されていることを忘れてはいけません。

消滅させようとする攻撃的な想いを抱いたならば、その想いがより攻撃的な組織に変えてしまう力になると考えられます。

抗ガン剤を投与したり、放射線を照射して消滅させようとしても、攻撃性が増してしまうだけであり、一時的に病変が縮小したように見えても、より強い攻撃的な組織となって、失地を回復して来るのは目に見えていると思われます。

ガンと闘おうとする想いは、ガンに生命力を与えてしまっています。、

ガンと闘えば、自分と闘ってしまうことになり、損傷を受けてしまうのは自分です。

ガンを消滅させようとする行為は、因果律の働きで、全て自分に苦痛として返って来てしまいます。

ガン患者さんは、肉食をしてはいけないと言われていますが、屠殺された時の、恐怖や怒りなどが残留思念として肉の中に残っていて、それが内に溜まっている想いに影響を与えていると仮定すれば、うなずけるのではないでしょうか。



膠原病の原因についても、未だに不明です。

膠原病は、外敵から守るためにある免疫機能が、自己を外敵とみなして攻撃している病気です。

私たちは(この世だけの)自我を作り、自分(魂)を守っています。

他人から、攻撃されても自我が壁となり、自分(魂)を守っています。

ところが、自我の未発達な幼少期には、他者からの攻撃により、容易に自分(魂)が傷つけられてしまいます。

未発達な時期に傷つけられると、それを防ぐために、自我の壁を高く張り巡らして、自分(魂)を守ろうとします。

また、愛情が不足していると、安心感が得られないために、守ろうとする意識が強くなり、自我を強固に作り上げていきます。

幼少期に自分(魂)を傷つけられたり、愛情が不足して、自我を強固に作り上げて行った人が、何らかの出来事により、自分を責めてしまう想いを抱き続けた時に、膠原病が生じてしまう可能性があると考えています。

霊的次元での様相は、肉体上に病態として反映されています。

自分(魂)を守るべき自我が、自分(魂)を責めてしまっている霊的次元での様相が、自己を守るためにある免疫機能が、自己を攻撃してしまう肉体的次元の病態として表現されていると考えられます。



内に滞った(摂理に反した)想いがあると、怒りや恐怖などの想いは生じやすくなります。

苦しくなるのは判っているのに、自分を責めてしまうこともあります。

それが常態化してしまい、魂の成長を著しく妨げてしまうほどになると、因果律が作動して、霊的次元の様相が肉体的次元の病気として表現されると考えています。

霊的次元で起きていることを、人は認識出来ません。

肉体的次元の変化として表現され、五感で判るようになって、はじめて気付くと考えられます。



では、ガンや膠原病になったらどうすればいいのでしょうか?

もちろん、全てのガンや膠原病が、霊的次元の原因によって生じているわけではありません。

けれども、もし霊的次元に原因があれば、その原因となっている想いを抱かないようにするのが、病状を安定させるために有効と思われます。

ガンを患っているのであれば、心穏やかに過ごすのが何より大切です。

怒りなどの想いが沸き上がらないように、寛容な気持ちを心がけた生活を送るべきと考えられます。

過去の出来事から生じていた強い恐怖や不安は、長い間、封印されたままになっていて、命にかかわる病気であるガンの恐怖や不安として表出していると考えられます。

ガンになって怖いのは、死ぬかもしれないと思うからですが、死ぬかもしれないと思うほどの出来事によって生じた想いが、内に溜まっていたのかもしれません。

恐怖や怖れを覚えても、時を経て過去の想いが表に出てきていると考えて、過剰に反応しないのが賢明と思われます。



疫学的な研究は存在しませんが、膠原病の人は、自分を責めてしまう、性格的傾向があると推察されます。

無防備な時に、愛を受けるべき人からの言動によって、魂が深く傷つけられ、それでも、要求や期待に応えようと、必死に生きてきた人がなり易いと考えられます。

期待に応えられなかった時や、愛を受けるべき人に激しく叱責された時に、強い自責の想いが生じてしいたと考えられます。

期待に応えようとする欲求が強く、達成できないと自分で自分を責めてしまう方向に向かいやすいことを自覚した方が良いと思います。

期待に応えようと必死になっている自分は、本当の自分ではありません。

人のことを気にし過ぎないように、強く自分を戒めて下さい。

自分を責めても、良いことは何1つありません。

人を責め過ぎてはいけないように、自分自身を責め過ぎてもいけないのです。



過去に生じていた想いがあるために、本当の自分(魂)の想いが表現できなかったり、自分の成長を妨げている想いが生じ続けている時に、病気が起きると思います。

霊的次元の病気とは、内にある想いに気付き、苦痛により魂が目覚めて成長し、その想いを解放するためにあります。

あるがままの自分でいられ、成長して行けるようになるために、霊的な病気は存在すると考えられます。



表現されずに滞っている想いは、魂から精神、精神から肉体へと行き渡っている生命力の流れを、阻害しています。

滞っている想いがあるために、本来の自分の想いが表現しにくくなってしまいます。

魂を成長させるような、愛情を表現をしようとしても、成長を妨げている想いが内にあると、その影響を受けて出来にくくなります。



物質的な力では、霊的な病気は治せません。

霊的な病気を根本的に治すためには、想いを解放したり、生じさせないようにするしかありません。

想いを解放させるには、解放させる想いを向けるしかありません。

生じさせないようにするには、自分に想いを向けるしかありません。

その想いは、愛です。



おまじないのようですが、

鏡の中にいる自分に向かって、「あなたのことが大好き」と、言ってみて下さい。

出来事が起きた当時の自分の写真を見つめながら、「もう大丈夫だから」と、その時の自分を安心させるように声をかけて下さい。

毎日、続けていると何らかの変化があるかもしれません。









2017年4月10日月曜日

お母さんへ


僕が何か言ったら、またお母さんが悲しんじゃうかな
僕を思い出して泣くのはやめて欲しい
死んで、いなくなってなんかいないから
お母さんは自分を責めてしまっているけど、違うんだ
僕が死んだのは誰のせいでもない
お母さんのせいなんかじゃない
涙を流しているのを見ると、どうしても拭いてやりたくなっちゃうんだ
こうしてそばにいるのに分ってもらえずにいると、僕も結構苦しいよ
僕がこうして話すと、またお母さんは泣いちゃうんじゃないかな
とってもやさしいお母さんだからね
僕がどんな大人になるのか、とっても楽しみにしていたね
こちらでも、少しずつ大人になっているんだよ
学校みたいなところもあって、勉強もしているんだよ
みんなが僕が死んで悲しんでいるけど、本当にいなくなったわけじゃないから、その必要はないんだよ
お母さん、僕は死んでいなくなってしまったのではないんだ
いい加減、気付いてくれないと、僕も疲れちゃうよ
お母さんの子供に生まれてこなければ、もっと長生きして、幸せだったのにと思うのはやめてね
そう思われるのが一番悲しいよ
だって、それじゃ僕がお母さんの子供に生まれてきたのがだめみたいじゃない
そんなこと、あるわけないんだよ
みんな僕が選んだことだし、お母さんも知っているはずなんだよ
お母さんにどうしても伝えなくちゃいけないのは、お母さんは生きなければいけないことだよ
どんなに苦しくても
それが約束なんだよ
みんな約束して生まれて来ているんだよ
忘れちゃっているけどね
僕はこっちで待っているから、お母さんはそっちで頑張って生きなきゃいけないんだ
僕も約束を守っているから、お母さんも約束を守ってね
ちゃんとだよ






2017年4月2日日曜日

2つの自分



イタリアの天文学者であるガリレオ・ガリレイは、手作りの望遠鏡で星を観測していました。

木星をのぞいてみると、周りを回っている衛星の位置が、日によって変わっていました。

今度は、金星をのぞいてみると、季節によって見かけ上の大きさが、変化しているのに気付きました。

それまでは、地球を中心にして、天の星が回っていると、当たり前のように信じられていましたが、この2つの発見は、天の星ではなく、地球が動いていることを示す有力な証拠となり、ガリレオ・ガリレイは「地動説」を主張します。

しかし、その事実を見ていない人たちは、頑なに認めようとせずに、彼を異端者として扱い、宗教裁判にかけて終身刑を言い渡します。

かの有名な言葉である「それでも地球は回っている」を遺して、この世を去りましたが、真実が認められずに、どれほど悔しい思いをしたのか想像も出来ません。



魂が存在するか、しないのかは、長い間、論争されていますが、地動説に似ているような気がします。

目の前で証明して見せないと、人はなかなか信じようとしません。

証明されないものを疑うのは理解できますが、証明されないものを存在しないと結論付けのるは、あまりにも強引で、愚かであると思います。

それでは、天の星が地球を回っていると主張した、望遠鏡がない時代の人たちと同じような気がします。



生命が永遠かどうかは、残念ながら私には判りません。

けれども、魂は存在し、死の後にも生命が続いているは、確かなことだと思っています。

死後の世界や魂の存在が明確にならないのは、今生を精一杯、生きるためだと考えています。



この世の人は、肉体と精神と魂(霊)から構成されています。

誕生とは地上に出る瞬間ではなく、受胎時に魂が宿った瞬間であり、死とは肉体から魂が完全に分離した瞬間です。

どちらも、自然法則の働きにより起こり、偶発的なものではありません。

世の中には、死んで無になるのを怖がる人がいますが、全く心配する必要はありません。

人は死にたくても、死ねないのです。



なぜ、この世とあの世が存在するのか?

それには、生きている目的について知らなければいけません。

生きている目的は、自分(魂)を成長させるためです。

すごく簡単に言ってしまえば、より強く、より美しくなるためです。

どんな人でも、自分を成長させようという欲求があるので、成長できない状況になると苦痛として感じ、成長を促されます。

人は1ヶ所に留まらず、あの世とこの世を行き来しながら、常に成長して行くことが義務付けられているようです。



人生には、およそのシナリオがあります。

その目的は、効率良く、その人に合わせた成長をさせるためと考えています。

11年前、私の身に大きな出来事が起きました。

それ以前は、問題が起きると、頭を働かせて解決して来ましたが、その出来事はいくら頭で考えても解決できませんでした。

次第に絶望的な状況に追い込まれて行く中で、それまで眠っていた本当の自分(魂)が目覚めたようです。



それまでの私は、本当の自分(魂)に忠実に生きていなかったようです。

赤ちゃんの時は、魂がむき出しの状態ですが、神の摂理により、親などの他者により守られていたと思います。

大人になるのに従い、周りに順応して、自分(魂)を守るために、自分の中にもう1つの自分を作り上げて行ったと思います。

幼少の時に、他者により守られていた人は、守られているという安心感があるので、あえて自分を守ろうとはしませんが、守られていなかった人は、安心感が少ないので、もう1つの自分を強固に作り上げて、守ろうとしていると思います。

もう1つの自分が発達して来るのに従い、この世を上手く生きようとして、他人と迎合したり、本音と違うことを言ったりしてたと思います。

それを大人になったと勘違いしていたのかもしれません。

より安全で無難な方向を選んだり、社会的な地位や財産を求めているのも、もう一つの自分だと思います。

知らず知らずの内に、本当の自分は、もう1つの自分の影に隠れて行ったと思います。



出来事をきっかにして目覚めた本当の自分は、進むべき方向を指し示しました。

指し示した方向は、良心に従い、正直に生きようとするものでしたが、それは自分を窮地に追い込むものでした。

その先に、今まで経験のない苦難が待ち受けているのは明らかでした。



一方、前面に出ていたもう1つの自分は、本当の自分が指し示した方向とは真逆でした。

自尊心を守ろうとするものであり、苦難を避けようとするものでした。



その時、自分の中に2つの自分が確かにいました。

正直に生きようとする自分と、偽ってでも守ろうとしている自分がいて、せめぎ合っていたように思えました。

苦しい方向に進んで行くのは、もちろん抵抗がありましたが、それでも正直に生きたいと思い、そちらに進んで行きました。

自分に正直に生きるためには、もう1つの自分が追い求めていたものを捨てる勇気がなければいけないと思いました。

本当の自分は、正直に生きなければ後悔することを、知っていると思います。



良く考えてみると、過去に経験した出来事においても、いつも2つの自分がいて、せめぎ合っていたように思えます。

本当の自分が勝った時は、苦しい方向に進むことが多く、大変な思いもしましたが、相応の成長が得られていたと思います。

もう1つの自分が勝つと、楽で安全な方向に進み、一瞬の安堵を感じたかもしれませんが、成長させる機会を1つ失っていたと思います。



正直に生きようとする自分が、本当の自分であることに気付きました。

本当の自分は、留まることなく、成長しようとしています。

追い風の中ではなく、向かい風の中で生きることが、成長につながることも知っていると思います。

自分に正直に生きると、どうしても苦しく、つらい状況に追い込まれてしまうことが多いのは、神の摂理により成長する場が与えられていると考えた方が良いのかもしれません。

今まで知らなかった大切な真実と、苦難を乗り越え成長した悦びを、手に入れることが出来るのは、本当の自分の声に従って生きた時なのかもしれません。



もし私が、もう一つの自分の声に従っていたのならば、自分を守ることが出来て、失うものはなかったのかもしれません。

しかし、自分を偽ってまで、この世のものに捉われていたのを恥じることになると思います。

さらに、その出来事を通じて、もたらされる予定だった真実を掴み損ねたこと、成長の機会を失ったことに、強い後悔の念が生じるのは間違いありません。



この世の先に、あの世があります。

あの世は偽りのない、あるがままの自分が表現される世界です。

この世で作り上げた自分は、はぎ取られてしまい、本当の自分(魂)がむき出しになります。

オーラには、この世の想いや行いの全てが刻み込まれていて、光となって周囲に知れ渡ります。

そして、死んでしばらくすると、この世を振り返る時が訪れます。

自分に正直になり、勇気を出して進んで、それが成長につながっていたのを知って、悦びを味わうこともあれば、せっかくの成長の機会を逃してしまったのを知り、悔やむこともあると思います。



この世で、私たちはさまざまな出来事を経験しますが、その中には予定されていたものがあり、試されているのかもしれません。

あの世での後悔の念を消し去るために、この世にもう1度生まれて、同じような選択を迫られる出来事を経験している可能性があります。

今度こそは、自分に正直になり、苦難を甘受して、乗り越えて行くことを決意して、生まれて来たのかもしれません。



もし、自分の中に2つの存在がいることに気付いて、どちらに進もうか決断に迷った時には、覚悟を決めて、正直に生きる方向、自分を成長させる方向に進んで行った方が後悔しないと思われます。




2017年3月19日日曜日

霊的な視点から出来事を見つめる



今から約11年前のある朝、いつものように目覚めたら、身体に妙な感覚を覚えました。

左腕が、しびれていました。

真冬に身体が芯まで冷えた後にお風呂に入ると、温まって来るのに従い、手や足がビリビリしてきますが、それに近い感覚です。

歯医者と言う職業柄、首を傾けて口の中を覗き込むようにして治療をすることが多いため、頸椎から来る手のしびれかと思いましたが、どうも違うようでです。

肩から上腕、前腕、そして指先へと、何かがゆっくりと流れて行く感覚であり、一体、何が起きているのだろうと思いました。



すぐにインターネットで調べてみましたが、出た来た答えは「ヒーリング」でした。

そんな力の存在など知りませんでしたし、望んでいた訳でもありませんでした。

試しに、家族が胃痙攣を起こした時に手を当ててみましたが、軽快しました。

犬がびっこを引いていたので、手を当ててみましたが治りました。

とても驚きました。

私は理系の人間であり、科学に興味があったので、証明がされていない、いかがわしいものを信じる気にはなれません。

しかし、目の前で起きていることは疑いようのない現実であり、力の存在を認めざるを得ませんでした。



そのうちに、この病気を癒す力は何なのだろう? どうして自分から出るようになったのだろう?と思うようになりました。

その答えをどうしても知りたくて、質問は受け付けていないにもかかわらず、日本スピリチュアル・ヒーラーグループに電話をしてしまいました。

電話に出られた世話人の方に、「シルバー・バーチの霊訓」を読むことを、勧められました。

当時、私の住む町にはなかったので、東京の大きな書店まで買いに行き、早速、読んでみました。

期待に反して、何のことが書いてあるのか、さっぱり判りませんでした。

知りたかったヒーリングの力についても、霊的な覚醒のためにあると書かれていましたが、その意味が全く判りませんでした。



意味も判らずに、シルバーバーチの霊訓をパラパラとめくって読んでいる時に、一通のはがきが私の元に届きました。

仕事上の監督官庁からであり、疑義が発生したので、指導を行う旨が書かれていました。

この指導は、精神的な重圧がかかり、以前、自殺者が出て問題になったほどです。

けれども、私には後ろめたいことはしていないという気持ちがありましたので、軽く注意をされて終わるだろうと考えていました。

指導を受けましたが、予想に反して不正な事象が複数見つかり、それを指摘され、疑義が深まって行きました。



事態が深刻さ増す中で、シルバーバーチの霊訓を真剣に読むようになりました。

今、起きていることを通して、因果律の働きに、畏れを抱くようになりました。

そして、乗り越えられない困難は絶対に起きないというシルバーバーチの言葉が、生きる支えとなっていました。

約1年間、苦しく不安な日々の末に待っていたのは、最も厳しい処分でした。



これまでの人生で経験のない、挫折感、屈辱感、絶望感を味わいました。

その代わりに、霊的真理というかけがえのない宝を手に入れました。

人生の苦難や挫折は、大切な真実を知るための触媒になっていました。



ヒーリングの力が出始めて、まもない頃の話です。

ある女性の患者さんが、インプラント治療(あごの骨にドリルで穴を開け、金属を植え込んで、その上に歯を作る治療)を希望して来院しました。

手術当日、患者さんの待つ部屋に入ると、何か雰囲気が違っていました。

介助のスタッフが2人いましたが、その他に誰かいるような気配がしました。

当時は、霊の存在や導きなど信じていませんでしたので、気のせいだと思いました。

いつも通り、麻酔をして粘膜を切開してドリルで穴を開けて行きましたが、その時に、心の中で「もっと深く」と、何者かがささやいていました。

何で?と思いましたが、何故かその声に従い、もう少し深くドリルで穴を開けていきました。

すると、骨を削る抵抗は消え、5mm位深いところまでドリルが到達してしまいました。

一瞬、何事が起きたのだろうと考えましたが、予定通り金属を埋入して、手術は終了しました。



翌日は休日でしたが、手術をした患者さんから、自宅に連絡がありました。

あごの麻酔がまだ切れないと、心配されていました。

その瞬間、昨日起こったことが、ようやく理解できました。

骨を削る抵抗が消えた時に、あごの中を通っている神経を、ドリルで損傷してしまったのです。

初めての経験であり、茫然としました。



後日、来院した時に、患者さんに状況を説明し、陳謝すると共に、回復の手段を講じようと思いました。

もしかしたら、左手から出始めた力が、症状を緩和してくれるかもしれないと期待しました。

簡単に説明をしたところ、了解していただけたので、休日に患者さんの自宅にお伺いして、ヒーリングをすることにしました。

始めてすぐに、患者さんはとても気持ちが楽になってきたと、興奮気味に言っていました。

時間にして数十分でしょうか、ヒーリングが終わった後に、しびれているところの具合を聞きましたが、残念ながら変化はありませんでした。

数日後、その患者さんから連絡があり、あごのしびれは相変わらずだが、持病の不整脈がなくなったと言われました。

自分としては、しびれが無くなって欲しかったのですが、その代わりに、予想もしていなかった病気が癒やされていました。



それからしばらくして、患者さんから連絡があり、実家の家族にヒーリングをして欲しいと頼まれました。

実家のお母さんは、40年来の不眠症に苦しまれていました。

妹さんは気功による施術をしていましたが、患者さんから邪気を受け取ってしまい、心身の状態が思わしくないと言うことでした。

お役に立てるのならと、東京にある自宅に向かい、ヒーリングをしました。

お母さんは、ヒーリングをしている時に、幻覚が視えるほどの不眠症に苦しんできたと、話されていました。

続けて、妹さんに行いましたが、ヒーリング時に流れてくるのは、気功のような粗削りなものではなく、やさしい力だと言っていました。

ご両親は、上の階に住んでいる息子さんにも、ヒーリングを希望されました。

息子さんは、脳こうそくで若くして倒れ、一命は取り留めたものの植物状態になり、若く綺麗な奥様
が、付きっ切りで看病をしていました。

非可逆的な神経の損傷に対して、効果は期待できないのは判っていましたが、数十分間、ヒーリングを行いました。

その時に、口がきけぬ息子さんの、奥様への感謝の想いを感じ取りましたが、確信がなかったので伝えずに帰ったのが、今でも心残りになっています。



後日、患者さんから、お母さんはぐっすりと眠れ、妹さんの体調も改善したと報告を受けました。

息子さんの植物状態は変わらないものの、妹さんと同様に不整脈が消えて、医師であるお父さんは心電図を見ながら不思議がっていました。

少しはお役に立てたと思い、うれしくなりましたが、今度は自分の医院に来ている患者さんに、ヒーリングをして欲しいと申し出がありました。

診療室に赴くと、かなり重い精神障害があると思われる少年と、ご両親がいました。

見た目に少し怖さを感じましたが、腕に手を置いてヒーリングをしました。

その時、変化は何もありませんでしたが、2回目のヒーリングの時に、引きこもり状態から、家族で一緒に食事ができるようになったと、ご両親が大変喜んでいました。

次に、自力で歩けないため、移動できる椅子に座ったまま、80代くらいの女性が、妹さんに連れて来られました。

ヒーリングをしている時に、今までの人生についてお話をされていましたので、お聞きしながら、数十分間行いました。

心身が楽になり、元気が出たのでしょうか、歩いて帰ることができました。

そして、ヒーリングをしたお母さんですが、表情を拝見したところ、目が輝いて、とても明るくなり、何かが変わったように感じられました。



ヒーリングは、もちろん心身の病気を癒すために行います。

しかし、真の目的は霊的覚醒にあります。

外からは判りませんが、この一連のヒーリングによって、本当の自分が目覚め、本来の生き方を取り戻せた人がいたとしたら、これ以上うれしいことはありません。



今でも考えるのですが、手術中に心の中でした声は、誰だったのか?

これまで数多くの手術をしてきましたが、同様の事象が起きたのは、この1例だけです。

勿論、あってはならないことであり、医療を施す人間として、強い自責の念にかられ、反省する日々が続きました。

麻痺が起きた患者さんに、私は訴えられても良いはずです。

しかし、逆に感謝されました。

その上、仕事で大変な状況にあるの知って、親身になって相談に乗ってくれました。

どう考えてみても、あり得ないことです。

2度と同じ経験はしたくありませんが、霊界の働きかけとしか考えられません。

この世の人のつながりを、霊界が十分に把握した上で、私が選ばれたのかもしれないと思いました。

霊界で立てられた小さな計画が、地上の人に遂行されたと、今は考えています。



シルバーバーチは、訪ねて来た人は、魂が重大な局面を迎えている可能性があるので、決して拒んではいけないと、繰り返し言っています。

訪ねて来た人は導かれているのであり、その背後にも、魂が癒やされる時が来ている人が、控えているかもしれないと思いました。



私の身に起きた、この2つの出来事は、出来れば避けたいものでした。

他の人から見れば、不運な出来事であり、わざわい以外の何者でもありません。

良い意味など、どこにも見つけられません。

霊的な視点から、起きた出来事を見ると、様相は一変します。

1つ目の出来事がなければ、私の眠っていた魂は目覚めず、崇高な霊的真理は受け入れられなかったと思います。

そして、2つ目の出来事が起こらなければ、ヒーリングをした人との接点はありませんでした。



人の窺い知れない絶妙なタイミングで、因果律が作動すると共に、霊界からの働きかけがあると信じています。

霊力の通路になっている人と、霊力を受けるべき人を結ぶための導きが、随所で行われていると思います。

人は、偶発的な出来事、偶然の出会いなどと片付けてしまいがちですが、実際は、目に見えない存在から、導きを受けた結果であることが多いと思います。



人の本質は、肉体ではなく魂です。

魂を成長させる、言い方を変えれば、自分を成長させるために、この世に生まれてきています。

人として、過ったところ、弱いところがあるので、さまざまな出来事を経験して、真実を学び、魂を鍛錬する必要があると、自ら判断してこの世に生まれて来たはずです。

苦痛を伴う出来事が起きるのは、その経験を通して、自分の過ちに気付くためだと思います。

困難や障害が立ちはだかるのは、必死に乗り越えて、魂を大きく成長させるためだと思います。

全て承知していたはずですが、いざ生まれてしまうと、楽しく、苦のない人生を望んでしまいます。

けれども、安楽な人生では、生まれて来た目的が成就されず、大きな成長は望めなくなります。



本当の自分(魂)が目覚めるのは、嵐が吹き荒れる中であり、真っ暗闇の中です。

人生のどん底の時です。

絶対に起きて欲しくない出来事であっても、魂を目覚めさせるという、霊的な目的があります。

いったん目覚めると、それからは自分を成長させる方向に進んで行くようになります。

突然の事故や病気に思えても、大きな意味が隠されています。

その意味が判らないと、悩み、苦しんでしまいます。

悩み、苦しみから逃れたいので、必死になって意味を見つけようとします。

見つけ出したものが、その出来事に隠されていた真実です。

真実を見つけ出した時に、悩み、苦しみから解放されます。

価値のある真実は、悩み、苦しみなしには手に入れられません。



この世界は、お互いの魂を成長させ、真実を学び取るためにあり、そのために必要な出来事が、自然法則に則って起きるようになっています。

不公平、不公正、偶然の出来事は、一切存在しません。

そのことは、死んだ後にはっきりと判りますが、なるべく早く気付くのに越したことはありません。

起きた出来事の意味を知るのには、霊的な視点から見つめなければいけないと思います。









2017年3月5日日曜日

ガンを治す



医療技術の進歩は、目覚しいものがあります。

CT、MRI、PETなど検査機器の登場により、ガンはより早期に発見できるようになりました。

しかしながら、死亡率は数十年前と比べて、大きく下がっていません。

早期に見つけられるようになっても、死亡率がそれほど変わらないのは、何故なのでしょう?

それは、ある程度、進行してしまったガンに対し、有効な手立てがないからと思われます。



医者は、身体に現れた病変を診ています。

病変が、身体上から消失すれば、治癒と考えています。

けれども、根本的に治癒させるには、ガンを生じさせた原因を突きとめて、完全に取り除かなければいけません。



残念ながら、ガンを生じさせる原因は、良く判っていません。

原因が判らないので、肉体上の病変を消失させる、対処療法に終始せざるを得ません。

病巣を切り取って、放射線を照射し、抗ガン剤を投与して、ガン細胞を消滅せようとしています。

放射線治療は侵襲も少なく、効果的な治療法と考えられていますが、放射線自体が遺伝子を傷つけ、ガン化させる原因の1つになっています。

抗ガン剤については、分子標的薬など、副作用が比較的少ないものも開発されましたが、正常細胞にもダメージを与えてしまうのは避けられません。

肉(正常細胞)を切らして骨(ガン)を切ることを目指していますが、骨を切る前に肉が切られ過ぎて死んでしまう人がほとんどです。

良く考えてみれば、ガンは非自己ではなく自己です。

肉体の一部として、生きています。

変異しているとは言え、生きている自己の一部を消滅させようとする治療は、あまりにも暴力的であり、不自然です。



人は、肉体と精神から出来ていると、多くの人は考えています。

本当に、それだけなのでしょうか?

魂(霊)の存在を忘れています。

この世の人は、目に見える肉体と、目に見えない精神、そして魂から成る複合体です。

生命とは、肉体ではなく魂(霊)です。

死とは、肉体から魂が永続的に分離する、自然現象です。

この厳粛な事実を認めれば、医学はさらに進歩すると思っています。



人々を悩ましている病気の原因は、どこにあるのでしょうか?

肉体、精神、魂(霊)、それぞれの次元に原因が存在していると考えています。

感染症は、存在を確認できるウイルスや細菌などが原因なので、物質(肉体)的次元の病気です。

胃潰瘍は、ストレスという精神的次元の原因によって、生じることが多いと思われます。

魂(霊)と病気の関係を研究した医学的論文や書籍は、私の知る限りありません。

しかし、膠原病や遺伝性疾患など、原因不明の病気の多くは、霊的次元に根本原因があると考えています。



ガンにおいても、それぞれの次元に原因があり、生じていると思います。

喫煙を続けていれば、肺ガンになるリスクが高くなるのは周知の事実であり、発ガン性物質などの
環境因子とガン発生の因果関係は証明されています。

乳ガンや大腸ガンの遺伝因子も、すでに特定されています。

ガンの環境因子と遺伝因子は、肉体的次元の原因と思われます。

ストレスにより免疫力(NK細胞活性)が低下するのは、科学的に証明されています。

AIDS患者は免疫力が低下するので、ガンの発症率が高くなります。

この2つの事実から、ストレスが強くかかっていると、ガンになり易くなると考えられ、精神的次元の
原因が、ガンの増殖に密接に関係していると考えられます。



霊的次元にも、ガンの原因はあるのでしょうか?

多くのガンの根本原因は、霊的次元にあると考えています。

死亡率が減らないのは、霊的次元の原因に対し、医学があまりにも無関心であるからと考えています。



霊的次元の病気は、原因が生じた時期により、2つに分けられると考えています。

1つは受胎前に原因があって生じた病気と、もう1つは受胎後に原因が生じた病気です。

受胎前に原因があって生じた病気の1つとして考えられるのは、先天性の遺伝子疾患です。

疾患が生じたのは受胎の瞬間なので、原因はその前に存在しています。

受胎前に原因があったのであれば、受胎前にも生命があると言うことになります。



生命は、この世限りのものではありません。

記憶にはありませんが、ほとんどの人は過去世の経験があります。

そして、今、この世を経験しています。

死んだ後に、またこの世に生まれて来る人も多いでしょう。

何回も生まれ変わる目的は1つであり、魂を成長させ、真実を学ぶためです。



先天性の疾患を持つ人は、病気を通して成長し、真実を学ぶため、あるいは過去世の過ちを償うために、自らが選択し、その肉体に宿ったと思われます。

側から見れば不幸に見えるかもしれませんが、自分自身で決めたことであり、全人生を通して、当初の目的を果たしています。

いかなる医学的処置も奏功しないのは、治ってしまっては、この世に生まれた目的が果たせなくなるからです。



ガンについても同じです。

ガンになるのが予定されていた人と、受胎後に原因が生じてガンになる人がいると考えられます。

人生のある時期に、これと言った原因も見当たらずに、ガンになる人がいますが、そんな人は予定されていた可能性があります。

もし、そうだとすれば、たとえ亡くなったとしても、決められていた寿命が来たのであり、その人のこの世での成長と学びが終わったと考えられます。



同じガンであっても、受胎後に原因が生じたのであれば、しかるべき対処をすれば、治癒する可能性が十分あると考えられます。

この世で病気になることを、選択していなかったのであり、自らに原因がない場合も考えられるからです。



科学では、全ての感情や概念は、脳から生まれていると考えられています。

しかし、それは誤りであり、精神の上位にある、魂から生まれています。

魂から、さまざまな想いが生まれ、それが感情となって表現されています。

人に個性があるのは、魂に個性があるからであり、豊かな感情が生み出されているからです。

魂(霊)の存在を認めれば、生命や感情について、論理的な説明が可能になります。



誤解を怖れずに言えば、ガンの根本原因は、「表現できなかった想い」であると考えています。

表現できなかった想いが、因果律の働きにより、ガンと言う病態となり、肉体上に表現されたと考えています。

過去に、口には出せないような、とてもつらい経験があり、それによって強い想いが生じていたにもかかわらず、肉体によって表現できずに、滞っていたと思われます。



肉体は、魂(霊)を表現する媒体です。

憤りの想いが湧き上がれば、顔を赤くして怒り、悲しければ、涙を流して泣きます。

魂から湧き上がった想いは、精神で感情となり、肉体で表現され、外に解放されて完結します。

想いは、物質的次元で具現化する「力」と言って良いのかも知れません。

五感には全く触れませんが、霊的次元では実在そのものです。



想いは消えてなくなるものではありません。

肉体で表現されない限り、想いという力は解放されずに内に滞っていますが、ほとんどの人は、そのことに気付きません。

けれども、想いが溜まると、心身の具合が悪くなることを知っているので、別の肉体的表現をしながら、外に出そうとします。

職場で溜まった想いを、同僚と酒を飲んで、吐き出す人もいます。

友達とおしゃべりをしたり、食べることで、解消させる人もいます。

運動をして、発散させる人もいます。

趣味に興じて、忘れてしまう人もいます。

それほど強くない想いであれば、何かに没頭することで、解放できると考えられます。

しかし、強い想いであれば、俗に言うストレス解消によって、解放するのは難しいと思われます。



現代社会で生きる私たちは、自分の内にある想いに気付きません。

その理由は、事務的な作業をこなしたり、パソコンやスマホと向かい合い、1日中、頭を使った生活を強いられているからです。

頭を働かせている時には、魂は休眠状態になっているからです。



内に強い想いが滞っていて、その想いに気付かないでいると、なぜ良くないのでしょうか?

人生には、予定されていたシナリオがあります。

シナリオの目的は、自分(魂)を成長させるためであり、必要な真実を学ぶためです。

そのシナリオに従って人生は展開し、人や動物や社会に奉仕する機会が訪れたり、目の前に困難や障害が立ちはだかります。

怒りや憎しみの想いがあったとしたら、心から奉仕をすることができるでしょうか?

強い怖れや不安があったとしたら、困難に挑戦し、乗り越えようとする気持ちが起きるでしょうか?

内に想いが滞っていていると、シナリオ通りの人生を歩めなくなってしまい、この世で予定されていた魂の成長が得られなくなってしまう怖れがあります。

それでは、この世に生まれてきた意味が、希薄になってしまいます。



神は自然法則を通して、私たちを成長させる方向に導いています。

内にある想いに気付かなければ、因果律の働きにより、肉体上に五感に触れる形となって現れます。

それが、ガンという病気の実体です。

想いに気付くため、そして解放するために、ガンという病気が存在します。



ガンは生命を脅かす病気であり、病名を告げられた人のほとんどは、強い恐怖や不安を感じます。

「怖い、助けて」という思いを、多くの人は持つと思います。

人によっては、「生きる気力が失われてしまった」と、絶望感を持ってしまうかもしれません。

孤独に怯えてしまい、「一人にしないで」と、心の中で叫んでしまう人もいるでしょう。

もしかしたら、内にあったのは、そんな想いかもしれません。



ガンは正常組織に浸潤し、破壊して、そして全身に転移して、増殖して行きます。

利己的で、周囲との調和を乱している組織と考えられます。

ガンの病態は、内に滞っている想いの様相を反映していると考えられます。

怒りや憎しみ、憤りに似た、言葉で表現できないような攻撃的な想いが、内にあったのかもしれません。



そんな強い想いを湧き上がらせた出来事が、過去の人生においてあったはずです。

あまりにも衝撃が強かったので、上手く言い表したり、行動に移せなかったと思われます。

内に溜まった想いが、自分本来の想いを表現するのを妨げるほど、強く、大きくなって行ったと考えられます。

日常の生活をしていて、何かの拍子に心の奥底に固いしこりのような感情に触れることが、今までにあったのかもしれません。

何とも表現できないような恐怖を感じたり、理由もなく湧き上がってくる怒りなどがあれば、それは過去に生じていた想いと思われます。



ガンの恐怖や不安は、内に溜まっていた恐怖や不安そのものです。

内に溜まっていた想いは、因果律の働きにより、肉体上にガンとして表現され、その時の恐怖や不安が、今の自分によって表現されています。

どうして自分がこんなひどい目に遭わなければいけないのかと言う、憤りの想いは、どうして自分がこんな病気にならなければいけないのかと言う、憤りの想いとして表現されています。

過去に生じていた強い想いは、長い月日を経て、ガンとなり蘇っています。



ガンを告げられれば、ほとんどの人は、生命の危機を感じて、医者に身を委ねます。

恐怖に襲われ、逃れるために、ガンを肉体から消滅させようとします。

医者はそれに応えて、目に見えるガンを外科的に取り除き、目に見えないガンを抗ガン剤で消滅させようとします。

自分の内面と向き合うよりも、恐怖から逃れるのが優先され、医者に治してもらおうとします。

ガンの恐怖は、過去の出来事から生じた表現出来なかった想いであるならば、医者がその想いを消し去ることは出来ません。



一方、発見された時すでに末期で、治療が出来ないと宣告された患者さんは、頼るところがありません。

深い絶望感、孤独感、死の恐怖に苛まれると思います。

ガンと正面から向き合わなければなりません。

自分の命を救う方法を、いくら探し求めても、見つけられません。

絶体絶命の窮地に追い込まれて行きます。

生命の危機にさらされ、深く思いを巡らします。

いのちとは?

何のために生きているのか?

頭でいくら考えてみても、答えは出て来ません。

そんな瞬間、頭を超えた何かが、目を覚まします。

本当の自分である魂が、長い眠りから、目を覚まします。



人は死にません。

魂はそのことを知っています。

頭で考えてしまうと、死の恐怖に怯えてしまいます。

死の恐怖から解放されるには、頭ではなく魂が主導権を握るしかありません。

死の恐怖、苦痛に追い詰められた末に、頭で考えようとする自我が吹き飛ばされ、ようやく魂が表に出てきます。

魂に目覚めた瞬間、内にあった想いに気付きます。

とても恐かったこと、そして強い憤りを持っていたことに、ようやく気付きます。



内にある、強い恐怖や憤りの想いを解放しなければいけません。

しかし、今、言葉や行動にして表現するのは困難です。



解放させる方法があります。

その時の自分に、愛を向けて下さい。



恐怖に怯え、震えていた自分を、あなたの愛により、安心させて下さい。

言葉にならない憤りを、あなたの愛により、鎮めて下さい。

その出来事を受け入れ、許すしかありません。

今の自分が許すのではなく、その時の自分が許さなければなりません。

今の自分が、その時の自分を愛することにより、その出来事は許されます。

これまでの人生の経験により、許すことが出来るほど、魂は成長したのです。

ガンという病により、想いに気付き、解放する時が訪れたのです。

恐怖に閉じ込められていた自分を、愛により救い出し、憤りに満ちたその出来事を許すことで、想いは解放されます。



とてもつらい想いをしている、その時の自分を心の中で思い描きましょう。

その時に近い、自分の写真を見つめながらであれば、もっと良いでしょう。

言葉も出せずにいた、その時の自分に、「良く耐えたね、もう大丈夫だから」と、優しく声をかけて下さい。

目を閉じて、心の中で、その時の自分を優しく抱きしめてやりましょう。

成長した今の自分が、その時の自分に心の底から共感し、慈しみましょう。

恐怖、怒りや憎しみの想いは、愛により解放されます。

涙にして、解放してやりましょう。

副作用はなく、費用もかかりませんので、少しずつで良いですから、毎日行って下さい。



肉体は魂を表現している媒体です。

想いが実像であり、肉体上のガンはその反映です。

暴力的に肉体からガンを取り除いても、想いという実像がなくなる訳ではありません。

想いという実像がなくなれば、肉体上のガンは姿を消します。

魂が浄化されて、肉体が浄化されます。



最も危惧されるのは、放射線や抗ガン剤により、肉体を浄化する免疫システムが破壊されてしまうことです。

魂に目覚め、想いが解放されて、治癒機転が来たとしても、免疫システムが正常に作動しなければ、生命(自然治癒)力が活かされず、肉体上のガンを排除出来ません。

摂理に反した治療により、免疫システムが破壊されてしまうと、神の摂理が働かなくなります。

治るべき人が、治らなくなってしまいます。



ガンという病気は、肉体と精神と魂の不調和から生じています。

その不調和を解消するには、愛と言う生命力が必要です。

自分へ向けた愛により、不調和が解消され、肉体上のガンは癒されて行きます。

ガンが癒やされた人は、愛の力で、魂が癒された人だと思います。





















2017年2月19日日曜日

生命の実在は魂である



今、世の中では「終活」がブームになっています。

死をタブー視していた一昔前とは、状況が大きく変化しています。

けれども、終活の後に自分がどうなるのかは、それほど関心がないようです。

確かめようのないものを考えてみても、仕方がないからなのかもしれません。



死後にも世界があるのか?それともないのか?

理由があって、白黒がはっきりしないようになっていると、私は思っています。

どちらを取るのかは、個人の自由です。

死後の世界などないと思っていて、もしなければ、無になってしまうので、問題は起こりません。

しかし、ないと思っていて、もしあったとしたら、さまざまな問題が起きてしまうと考えられます。

どちらが正しいのか、いずれはっきりするのですが、かの有名なパスカルは、あると思って生きていた方が、確率的にリスクが少なく、賢明であると言っています。



死後の世界がある言われても、容易に信じることはできません。

この世界は、目で見たり、手で触れたりすることができる物体(物質)があります。

固い、軟かい、冷たい、温かいなど、それぞれに感触があります。

あまりにも実感のある世界なので、別の世界のことなど想像も及びません。



ところで、人の感情は存在しているのでしょうか?

喜びや悲しみ、あるいは怒りなど、心の中に生まれますが、他人には判りません。

目に見えなくても、実感として確かにあり、存在を否定する人はいないでしょう。



どちらも存在しているのが判っているのに、なぜ、感情だけが目に見えないのか?

当たり前の答えになりますが、精神が見えない世界に、私たちは生きているからです。



この世界では、自分の思念(想い)を他の人に知ってもらうために、五感を通さなければならず、肉体を使って表現しなければいけません。

悲しみは涙、喜びは笑顔により肉体上に表現されて、他の人はそれを見て、初めて内にある想いを知ります。



私たちが死んだ後に行く世界は、全く違います。

肉体は失われているので、想いや概念は、直接、相手に伝わります。

完全な思念の世界であり、語らなくても、表情に出さなくても、想ったことそのものが伝わります。



物質の世界であるこの世と、思念の世界であるあの世は、どちらが実在の世界なのでしょうか?

目で物体が見えて、耳で音が聞こえる、この世の方が実在の世界と、多くの人は考えていますが、

果たして、そうなのでしょうか?



私たちは、自分の想いや概念を、言葉によって伝えることがほとんどです。

頭の中で、一番近い言葉を見つけだして、それを声に出して伝えています。

例えば、誰かに向かって「ありがとう」と言ったとします。

言われた相手は、「ありがとう」という言葉を声で聞いて、その単語の意味から、相手の気持ちを知ります。

しかし、「ありがとう」という言葉自体は、実在ではありません。

実在は、感謝の気持ち(想い)です。

感謝の気持ちが、五感で判るように変換されたものが、「ありがとう」という言葉です。

言葉は、実在である気持ち(想い)を伝えるためにある、この世だけの媒体です。

機械の音声で、「ありがとう」と言われても、想いという実在がないので、何も伝わって来ないと思います。

ピアノの自動演奏機で音楽を聴いても、人が弾いているほど感動しないのは、演奏者の想いが伝わって来ないからと思います。

絵や音楽でも、何も感動しないものがありますが、それは作品に魂(想い)が込められていないからであり、優れた芸術は、作者の魂(想い)、さらに言えば霊界の実在が、作品上に表現されていると思います。



実在は、物質の中にはありません。

人間も同じです。

実在は肉体ではなく、目に見えない魂です。



この世は、実在が物質的なものに包まれた世界です。

あの世は、実在を包んでいたものが、取り払われた世界です。

嘘、偽り、虚飾が存在しない実在の世界は、あの世です。



言葉は、肉体によって発せられる、物質次元のものです。

想いは、魂から生まれている、霊的次元のものです。

従って、この世の人は、物質的な存在でありながら、霊的な存在であると言えます。

物質次元に生きながら、霊的次元に生きていると言えます。

2つの次元は重なり合っているのですが、物質次元であるこの世界しか視えないので、そのことに気付けません。

死ねば、霊的次元に移行するので、今度は、物質的なものは視えなくなり、霊的な魂と想いが視えるようになります。



この世の人は、目に見えない想いを、肉体という媒体で表現し、表現されたものを精神が認識し、精神の上位にある魂が感じ取っていると言えます。

快適に暮らしているように思えて、物質的なものを介して、想いを交わさなければならない、煩わしい世界に生きていると思います。

そんな私たちでも、言葉を交わさずとも、想いが伝わった経験が、何度かあるはずです。

目と目を合わせただけで、軽く触れ合っただけで、一瞬にして、相手の想いが判った時があるはずです。

そのことは、私たちは五感を介さずに想いを伝えられる、肉体を超越した存在であることを証明しています。



けれども、現実は、五感を越えた存在など意識せず、五感(頭脳)に頼った生活をしています。

昔は直接、会って話をしていましたが、電話機の登場により、対面しなくても伝えられるようになりました。

今はメールが普及して、声ではなく、文字で相手に伝える時代になりました。

コミュニケーションツールの発達に伴い、格段に便利になりましたが、そんな生活に慣れてしまうと、会って話をするのが面倒になってしまいます。

事務的な連絡は、メールでも問題ありませんが、自分の想い(感情)を伝えるのには、文字だけでは不十分であり、実際に会って、表情を見ながら、言葉を交わした方が、より正確に伝えられると思います。

人が伝えているのは、言葉や文字ではありません。

そこに込められた思念(想い)です。

その想いが生まれるところが、実在である魂です。



魂から絶え間なく想い(思念)が生まれ、それを肉体で表現しながら、この世の人は生きているのですが、生まれて来る想いがあまりに強いと、衝動的に行動に移してしまうことがあります。


先日、歩道上に暴走して来た車から、身を挺して赤ちゃんを守り、亡くなってしまったお母さんのニュースが流れていました。

また、結氷した湖の一部が割れておぼれていた犬を、そのまま飛び込んで、命がけで助け出した、消防士の動画がありました。

もし、人間が頭脳で考え、行動しているのであれば、自分の命をかけてまで助けるのは、生物として極めて不合理な考えであり、これらの行為の説明は出来ません。

この行為は、魂から生まれた止むに止まれぬ想いが、肉体で表現されたものと考えられます。

強烈な想いが存在しない限り、このような行動は決して出来ません。

何よりも強い想いが、愛だと思います。



もし、地上から愛が消滅したならどうなるでしょう。

倒れたお年寄りがいても、手を差し伸べて起こす人はいなくなるでしょう。

泣き叫ぶ幼い子供がいても、近寄って声をかける人はいなくなるでしょう。

心が引かれ合って、男女が結ばれることはなくなるでしょう。

あたたかい家族の結びつきはなくなり、ばらばらになってしまでしょう。

歌声は聴こえなくなり、芸術は存在価値を失うでしょう。

慈悲の心はなくなり、強い者が弱い者を支配する、殺伐とした世の中になるでしょう。



何気なく生活しているように見えて、目に見えない愛が存在しているので、人と人が結びつき、生活が潤い、秩序が形成され、世の中が平穏になっていると思います。



しかし、私たちは、1日の大半を、愛とは関係ない行動をして過ごしているように見えます。

朝から晩まで、仕事をしなければ生活していけません。

お金という報酬を得るためですが、それは人や社会のために働いた対価です。

お金を媒介として、人や社会に奉仕をしていると言えます。

家庭においても、育児や家事は、家族に対する奉仕です。

働くことで、社会が回り、個々の生活が送れていますが、結果的に、人や社会への奉仕により、愛を表現していることになります。

それは、お金を必要としない、純粋な奉仕の世界である、次に行く世界のための予行演習になっていると考えられます。



生きる力は、神から受け取っているので、必然的に愛を帯びています。

従って、愛とは、特別な想いではなく、魂の自然な発露だと思います。

本来、人は愛を表現するために生きていると、言って良いのかもしれません。

しかし、魂が未熟なために、その力があらぬ方向に、変化してしまうことがあります。

神から受け取った力が、完全に屈折してしまうと、怒り、憎しみになってしまいます。

神の心と対極にある想いを表現してしまえば、自然法則の働きにより、苦痛を伴う結果が自分自身に返ってきます。

苦痛から逃れるためには、怒りや憎しみの想いを、変えて行かざるを得ません。

愛を表現すれば、自然法則の働きにより、悦びに満たされます。

人は誰でも、苦痛よりも、悦びに満たされたいので、愛を表現して行くようになっています。



私たちが生きる目的は、実在である魂を成長させて、より高い愛を表現して行くためと思います。




2017年2月5日日曜日

認め合い許し合うことで世界は1つになって行く



今、世界には70億を超える人がいます。

肌の白い人、黄色い人、黒い人もいて、多種多様です。

顔つきや体型も、一人ひとり違います。

しゃべる言葉や、文化的背景も、皆、同じではありません。



同じ国に住み、同じ言葉をしゃべり、同じ肌の色をしていても、考えていることは誰一人として同じではありません。

自分と同じ人間は、この世の中にいません。

一人ひとりが唯一無二の存在であり、70億種の人間がいると言っても良いのかもしれません。



そんな人間同士が接すれば、自分との違いを感じてしまうのは当然です。

お互いの違いを認められる時もあれば、受け入れられずに避けてしまう時もあります。

多くの人は、違い認め合う方が良いと思っていますが、なぜ?と聞かれても、うまく答えられません。



性格の違い、価値観の違い、行動様式の違いはあって当然であり、どちらが正しい、間違っていると、決められるものではありません。

もし、自分が正しいと信じるのならば、違う人は間違っているということになり、それではお互いを認め合うことは出来ません。



世界では、何千年もの間、宗教や文化の違いから争いが生じています。

自分の信じているものが絶対であると、信念を持ち過ぎると、他の人が信じるものを許容できなくなってしまいます。

自分たちと違うものを、異物のように認識してしまい、それを排除しようとする気持ちが生まれ、それが争いに発展しています。



人は誰一人同じではなく、それぞれが違っているのを前提に、生きなければいけません。

違いを認めて許容しない限り、好ましくない感情が生まれて、平穏な心を保つことが出来なくなります。



認め合うこと、許し合うことを、単なる道徳的な問題として、片付けられません。

なぜなら、認め合うこと、許し合うことは、「神の摂理(自然法則)」だと考えられるからです。

私たちは、違いを認め合い、許し合うように、自然法則によって導かれているのであり、それが達成されなければ、人や世界に真の平和が訪れることはありません。



もし、摂理に逆らって、認めることができなければ不調和が生まれ、許すことができなければ対立が生まれ、それが発展すると争いになってしまいます。

お互いを傷つけ合って、苦痛を味わってしまいます。

誰もが苦痛から逃れたいのですが、それにはお互いを認め合って、許し合うようになるしか道はありません。

苦痛を通して、自然法則の働き、神の摂理を学んでいることになります。



日常生活においても、相手(事象)を認めること、許すことができないために、良くない感情が生まれています。

気に入らない、気に障る、頭に来るのは、平穏な心を失って、拒絶や反発や怒りが生まれているためです。

ところが、同様な状況下に置かれても、平穏な心を失わずに、何事もなかったかのように許せる人がいるのも確かです。

許せる人がいるのであれば、それは絶対に許せないことではないのかもしれません。

もしかしたら、相手に原因があるように思えて、実は自分自身に問題があるのかもしれません。



私たちは、未熟な存在であることを、忘れてしまっています。

自分(魂)の未熟さを自覚し、成長させるために、志願して生まれて来たことを、すっかり忘れてしまっています。



怒りが生まれるのは、許せないからであり、それは魂が未熟なために他なりません。

未熟な魂が、怒りにより心の調和を失い、苦しみとなります。

その苦しみを、人のせいにすると、余計に許せなくなり、怒りが生まれ、苦しみが増してしまいます。



それでも、人に裏切られたり、傷つけられたりすれば、許せなくなるのは当然です。

仕返しをして、同じ思いをさせてやりたくなる気持ちも、理解できます。

しかし、神の摂理は厳格であり、正当化されると思われるであろう、怒りや憎しみを相手に返そうとする行為にも、相応の報いが生じてしまいます。

やられたら、やり返すのは、明らかに間違っています。

自分を守る行為は許されますが、復讐や報復は許されないのです。



それでは、自分に苦痛を与えた相手は、何のお咎めも受けないのかと言えば、そうではありません。

社会的な制裁を逃れたとしても、神の摂理(自然法則)の働きからは逃れることは出来ません。

この世での、全ての想い(思念)、言葉、そして行いは、オーラに刻み込まれています。

頭で思い出せなくても、魂にしっかりと記録されています。



生命は魂であり、死んで肉体がなくなっても、意識はそのままです。

新しい世界にいることを自覚すると共に、オーラに刻まれているこの世の行状を、振り返る時が来ます。

全人生が、スクリーンのようなものに映し出され、細部まで見せられます。

自分の行いが、どのような結果を招いたのか、はっきりと認識させられます。



良心とは、神の声です。

傷つける行いをする前に、良心が抵抗していたはずですが、その声を無視してしまったことに気付きます。



人を傷つけたり、迷惑をかけるのを、私たちはためらいます。

それは、親に言われたからでも、先生に教えてもらったからでもありません。

真の自分(魂)は、良くないことを、初めから知っています。



死後に裁きを受けると言いますが、その通りです。

しかし、閻魔大王のような第三者的存在がいて、裁かれるのではありません。

魂に内在する神により、想ったこと、言ったこと、行ったことが裁かれます。

自分で自分を裁くことになります。



人を傷つけてしまった人は、自分の犯した罪を目の当たりにして、後悔し、自責の念の中で、苦しむことになります。

与えた苦痛が大きいほど、当然、苦痛も大きなものになります。

因果律の働きにより、自分が与えたものが、正確に自分に返って来ます。

どうしても自分の罪を認められない人は、周囲との関係は断絶され、深い孤独を味わうことになります。

孤独の中で、内にある良心が目覚め、ようやく自分の罪を認める時が訪れます。

激しく後悔することは避けられず、その中で悶え苦しむことになります。



学生の時は、1年経てば自動的に上の学年に進級します。

そのことで、自分が成長しているのを、実感できます。

もし、周りの同級生が上の学年に進級したのに、自分だけができずに、同じ学年に残されたとしたら、どう思うでしょうか。

とても焦り、早く同級生に追いつきたいと思うでしょう。



魂にも、上に向かって成長したいという欲求があり、同じところに留まっているのは、とても耐えられないようです。

しかし、魂に(摂理に反した)罪が刻み込まれているままでは、成長は許されません。

魂に刻まれた罪を取り除かなければならず、それには相応の償いの経験が必要になります。



一刻も早く成長して行けるようになるために、償いのシナリオが組み込まれている人生を、自らが志願して、この世に生まれて来る人が意外に多いようです。

シナリオ通りに従って出来事が起きて、そこから生じる苦痛を味わうことで、償いをすることになりますが、その記憶は完全に消去されています。

この世で大切なものを学ぶため、同じ過ちをしないために、苦痛の経験はなくてはならないようです。



肉体を失った後も人生は続いていますが、死ねば終わりだと考えてしまい、やりたいことをやって生きようと思う人が多くいます。

それは悪いことではありませんが、自分本位の生き方をしてしまうと、他人の気持ちにどうしても鈍感になってしまいます。

自分を優先するあまりに、他人を不幸にさせてしまう人がいるのも事実です。



無知とは、恐ろしいものです。

平気で人を傷つけてしまう人は、目に見えない神の摂理が働いているのを知らないとしか思えません。

その先で、自分で自分が裁かれ、償いをしなければならないのを知っていれば、怖くて人を傷つけることなどできません。

神の摂理が完璧に働いているのを、多くの人が知るようになれば、世の中はきっと変わって行くと思います。



怒りや憎しみが生まれたら、相手にその想いをぶつけ返して、自分と同じ想いをさせようとする衝動が生まれますが、それは絶対に避けなければいけません。

自らが蒔いた種は、自らが刈り取ることになります。

想いを遂げれば一時的な満足は得られますが、その後に、今度は自分自身を浄化させる経験が待っていることを忘れてはいけません。

自然法則(神の摂理)により、完全な公正が保たれているので、自ら手を下す必要はないのです。



ところで、私たちが死んだ後に行く世界は、この世とは大きく違います。

自分と似ている人(魂)だけと生活しているので、考え方、生き方、価値観が大きく違う人は周囲におらず、許せないような出来事は生じないと考えられます。



では、なぜ、この世では自分と違う人(魂)と、隣り合わせに生きなければならないのでしょうか?

お互いが違うことに、大きな意味があると思います。



1枚の絵画があったとします。

近くに寄って見ると、小さな色が集まって、全体が構成されているのが判ります。

明るい色もあれば、暗い色もあります。

自分の好きな色もあれば、嫌いな色もあります。

もし、自分の好きな色だけ、似たような色だけで描いたとしたら、どうでしょうか?

とても単調な絵になってしまい、美を表現するのは難しいと思います。

さまざまな色彩が混在しながら、存在を強調し過ぎず、互いの色が引き立てられた絵の中に、調和を見出します。

クロード・モネ作 「サンジェルマンの森の中で」

この世の人間も同じであり、違う人が交じり合い、お互いを尊重しながら、それぞれが全体に寄することに大きな意味があると思います。

その中で、愛が育まれ、調和が生まれます。

私たちは限りなく大きな絵の中の、限りなく小さな1点の色のような存在ですが、全体を構成する1要素であり、何かしらの役割を担っていると考えられます。

絵のように全体を眺められないので、残念ながら、果たしている役割が明確には判りません。



多くの人と共に生きる意義は、違うもの同士が、認め合い、許し合って行くことにあると思います。

時にぶつかり合って、苦痛を経験する中で、個々の魂は成長しながら、全体の調和が進んで行くと思います。

ばらばらに存在しているものが、愛により調和が生まれ、徐々に1つになって行くと思います。

神の意志により、この世界は1つになる方向に進んでいると思います。










2017年1月22日日曜日

あの世からの愛の表現は守り導くこと


今は、便利な世の中になりました。

一昔前までは、車で目的地までたどり着くために、途中で何度も地図を見ながら、道を確認したものでした。

不慣れな場所で、道を間違えてしまい、とんでもない方向に行ってしまったことが、何度もありました。

今は、カーナビゲーションシステムがあり、音声ガイドに従い、目的地まで確実に誘導してもらえます。



人生には、案内図はありません。

どちらに進もうか迷った時に、自分で決めるしかありません。



私たちは、一人で人生を歩んでいると思っています。

実は、そうではありません。

一生涯に渡って、目に見えない存在が付いて、守り導いてくれています。



およその人生は、生まれる前に決められています。

その人生に沿って生きれば、予定されていた魂の成長が得られるようになっています。

目に見えない存在は、予定された成長が得られるために、随所で私たちを導いています。

人生のナビゲーションシステムのような役割を果たしていると言って良いのかもしれません。



けれども、多くの人は、今までの人生で導かれていると感じたことはなく、自分一人で決めてきたと思っています。

以前の私もそうでした。

導きなど、宗教が作り上げた概念だと思っていました。

約11年前に、突然、病気を癒す力が出現しました。

シルバーバーチの霊訓(霊的真理)に出会いました。

そして、今まで経験したことのない苦難の日々が始まりました。

これら人生を変える3つの出来事が、わずか1ヶ月の間に立て続けに起こり、人生にはシナリオのようなものがあり、それに沿って生きていて、目に見えない存在に導かれていることを自覚しました。



人生の大きな岐路に立ち、どちらに進んで行こうか迷った時に、漠然とした考えが頭に浮かんで方向が決まったり、あるいは抵抗する何かを感じてやめてしまうことがあります。

そんな時は、目に見えない存在が導いていると考えています。

仕事や結婚、魂の成長に大きく関わる事象には、導きの力が働いていると考えています。

後になって、成り行きで、落ち着くところに落ち着いたと思うのですが、ごく自然な形で、導いてもらった結果だと考えています。



スポーツや事業で成功した人が、マスコミで良く取り上げられています。

自分の才能と努力により、今の成功があると考えている人が、ほとんどだと思います。

もちろん、それを否定しませんが、見えない存在に導かれていた事実を、忘れてはいけないと思います。

ACミランは、世界屈指の名門サッカーチームです。

そこに所属している本田圭佑選手は、移籍した時の記者会見の席で、(ACミランを)選んだ理由について質問され、こんな興味深い回答をしていました。

「心の中で、私のリトル・ホンダに聞きました。『どこのクラブでプレーしたいんだ?』と。そうしたら、心の中のリトル・ホンダが『ACミランだ』と答えた。そういう経緯があって、ACミランに来ました。」

これを聞いた人の中には、何を意味しているのか判らず、ふざけたことを言ってると感じたかもしれません。

私は、リトル・ホンダとは本田選手を守り導いている存在だと思いました。

それまでにも、厳しい局面で、アドバイスを受けて来たそうです。

ここまではっきりと意識している人は、極めて少ないと思いますが、導きの声に素直に従って生きてきたので、子供の頃からの夢が実現できたと思います。



守り導いている存在など、空想の世界の話のように感じる人がいるかもしれませんが、事実です。

この世の人に、例外なく、付いています。

目的は、道を誤らずに、予定されていた人生を歩ませ、成長させるためです。



もし、そんな有難い存在が付いていているなら、なぜ、もっとはっきりと判る形で、導いてくれないのかと、疑問に思う人がいるでしょう。



人は何かを決める時に、誰かに頼ろうとする気持ちがあります。

誰かに頼り過ぎてしまったら、自分では何も決められなくなってしまうでしょう。

もし、その先で失敗して、決めた人のせいにしてしまえば、そこから何も学べなくなってしまいます。

成功したら、味をしめて、もっと頼るようになってしまうかもしれません。



人生は、成功するためにあるのではなく、魂を成長させるため、大切なことを学ぶためにあります。

従って、より成長させるため、教訓を学ぶために、苦難が待ちうけている方向に導くこともあると思います。

それは、失敗や挫折と言われるようなものかもしれません。

もし、苦難の真意が判らないのに、その方向に導いたなら、難色を示す人がいたり、導きを信じられなくなってしまう人がいるかもしれません。



この世の人生の責任は、結局は自分自身で取ります。

よって、最終的な決断は、この世の人がしなければなりません。

導いている存在は、じっと見守っているしかないようです。

はっきりと判らない様に導いているのは、この世の人の(魂の)成長を第一に考えているからであり、自分で決断させるためと思われます。

それは、子供の行く末を心配しながらも、影からそっと見守っている親の心境に近いのかもしれません。



ヒーリングや亡くなった人からのメッセージを伝えるのも、霊界からの導きがあって、成立していると思います。

あの世にいる人が、この世に残してきた人に、メッセージを伝えたかったとします。

本来は、この世とあの世の間で、想いを伝え合うことはできると思いますが、条件が整わない限り、霊媒を介さなければ、願いは叶いません。

霊界の人たちは、さまざまな手段を講じて、この世の人と霊媒と出会わせるように、導いていると考えられます。



守り導いている存在は、この世の人の性格や行動、人間関係などを熟知しています。

また霊界は、この世と比べ物にならないくらい、精緻なネットワークが張り巡らされていて、地上の人の情報を共有していると考えられます。

どのようにすれば、メッセージを伝えられるか、あらゆる可能性を探りながら、模索していると思います。

接点のない人同士を結び付けるために、両者の間に入る人を見つけ出して、その人にインスピレーションを送って、コンタクトを取らせるような言動をさせている時もあると考えられます。

インターネットは、人と人を結ぶためにとても重要な役割を果たしていて、適宜、インスピレーションを送りながら誘導し、接点を持たせるように仕向けていると思います。

思いつきや気まぐれではなく、インスピレーションを受け取って行動していることは、意外に多いと考えています。



このブログにもコメントを書いてくれる人がいます。

そんな人たちの中に、ブログの感想と、今の自分の状況を説明してくれる人がいます。

文面を見て、特に伝えたいことがあるわけでもなく、ご自身でもどうして書いたのか判らないように感じる時は、背後にメッセージを伝えたい人(魂)が控えている場合があります。

偶然たどり着いたのではなく、導かれていたのであり、コメントを書くように仕向けられていた考えられます。

コメントを受け取った前後に、霊的なあたたかさや、エネルギー(魂)のようなものを感じる時があります。

そんな時は、「私でよろしかったら伝えて下さい」と、心の中でささやきます。

しばらくして、心の中に湧き上がって来くる言葉(文章)があれば、それを書き留めて、コメントとして返します。



それとは逆に、私が他の人のブログを見て、特別な理由もなしに、コメントを書き込んでいる時があります。

そんな時は、コンタクトを取るように、私が導かれていると思います。

あの世からこの世の人に、どうしても伝えたい大切なことがあり、霊界が私を利用したと思います。



ブログの写真が目に止まり、この世で1度も会っていないのに、友情のようなものを感じ、何とかしてやりたいという衝動が生まれた時もありました。

すでに、その人(魂)とリンクが出来ているので、心の中に浮かんでくる言葉を、書き並べていくのですが、その時に感じたのは、目の前から消えてしまって悲嘆している、この世に残された人に寄り添おうとする想いであり、生前と変わらないであろう、誠実で、一途な想いでした。

その人の想いを、私が代筆しているようでした。

亡くなった人を感じられない悲しみは、残してきた人に感じてもらえない悲しみの裏返しのような気がしました。

この世の人が想いを知りたい時に、あの世の人は想いを伝えたいのだと思いました。

生きている次元は違っても、想いは同じです。

生命は失われていません。

どうにかして、そのことを判ってもらいたいのです。



霊界の尽力により、想いは伝えられていますが、この世の人には知る由もありません。

伝えようする原動力は愛であり、伝えたいことも愛です。

その力により、多くの魂が突き動かされ間に入り、つながって行きます。

想いが伝わった瞬間、次元を乗り超えて、魂と魂は再び結ばれます。



言葉を超えたものが伝えられて、何らかの衝動が生み出される瞬間を、導きと言うのかもしれません。

その通りに行動すると、必要としている人に巡り合ったり、自分を成長させる事象に遭遇するのかもしれません。

解決しない問題があり、はっと策がひらめくのは、あの世から言語を超えた「ささやき」が、魂に伝わったからなのかもしれません。

その場所に、将来を大きく左右する人がいたのは、霊界の計らいがあったのかもしれません。

今、経験している苦難は、魂を大きく成長させるために、導きによるものだったのかもしれません。

思いつきとして無視してしまったり、偶然として片付けてしまったりしないで、自分は守り導かれている存在であり、一人で生きているのではないことを自覚して下さい。

もし、導きとして感じたのなら、共に生きている見えない存在に、心の中で感謝して下さい。



私たちの人生は、想像をはるかに超えた導きを受けているのに違いありません。

ひっそりと、しっかりと想いが伝えられ、導かれて、今があると思います。



あの世からの愛の表現は、この世の人を守り導くことです。

あの世から想いを伝えて、魂を守り、人生を導いています。

知らずに、愛されています。


















2017年1月8日日曜日

許しとは怒りや憎しみを手放すこと



私たちは、1日中、頭を使った生活をしています。

精神的な活動は、全て脳の働きによってなされているものと考えられています。

事務的な会話や計算は、大脳により処理されているのは確かであり、数時間、作業を続けていると、身体と同じ様に脳も疲弊して、ミスが多くなってきます。

同じ精神活動でも、怒りや悲しみ、うれしさや悔しさなどの「感情」は、どうなのでしょうか?

怒りが治まらなかったり、うれしさが続いたとしても、脳が疲れてしまうことはないと思います。

感情は、脳の働きにより作り出されているものではなく、どこからか湧き上がっているように感じられます。



ところで、人間にとって、感情は必要なのでしょうか?

怒りは正常な判断を狂わせ、悲しみは活動を停滞させてしまい、効率よく、快適に生きるために、必要ないように思えます。

憎しみや恨みの感情がなければ、世の中はもっと平穏になり、全くもって、無駄なものに思えます。

長年に渡って、科学的に感情の研究がされていますが、どこから生まれるのか、何のためにあるのか、ほとんど判っていません。



人には、個性があります。

怒る、笑う、涙を流すなど、いろいろな感情表現によって、個性が発揮されていると思います。

もし、感情が失われたならば、ロボットのようになり、個性はなくなってしまうと考えられます。



この世の人は五感を頼りに生きているので、目に見える肉体が自分と思ってしまうのは、無理ありません。

しかし、人は魂(霊)、精神、肉体の複合体です。

それぞれは密接不可分な関係にあります。

そのうちのどれが本当の自分かと言えば、最上位にある魂です。



肉体は、魂から生じた想い(思念)を表現する媒体に過ぎません。

死とは肉体と魂が完全に分離する現象であり、魂との連絡が絶たれた脳は活動を停止し、肉体は存在意義を失い崩壊します。

しかし、生命そのものである魂は、肉体に代わる新しい媒体を得て、変わりなく存続しています。



魂からは想い(思念)が生まれています。

それが、感情(意思)となって表出し、脳により指令となって、肉体が動いて外に表現されています。

その連鎖が繰り返されながら、人生は紡がれて行きます。

科学で感情を解明できないのは、魂の存在を否定し、全て脳の働きで説明しようとしているからです。

頑なに否定している限り、科学では生命も感情も説明することはできません。



感情とは、この世の出来事により生み出される、魂の回答と言えるのかもしれません。

同じ出来事に遭遇しても、どのような反応を示すのか人によって違いますが、それは人には個性があるからです。

肉体(大脳)を超えた魂によって、個性が形作られて、そこで感情が生まれていると考えられます。



肉体は、食物から摂るエネルギーによって活動しています。

目に見えない魂(霊)は、目に見えない生命力によって活動しています。

生命力とは神(霊)的なエネルギーであり、それを受け取っている器が、魂と言っても良いのかもしれません。

その力により、魂で想いが生まれ、精神で感情に変換され、脳で指令となり、肉体で表現され外に出される形で、完結しています。

その一連の流れがスムーズに行かなくなると、内部にエネルギーが滞って、精神や肉体に顕著な変化が現れる時があります。



生命力は神的なエネルギーであるため、人(生命)は本来、愛を表現するために存在しています。

しかし、魂には限りない発達段階があり、向上した魂は愛の想いが、未発達な魂は愛に反する想いが生じやすくなります。

怒りや憎しみの感情が生まれるのは、魂が未発達であることの証左であり、生命力が誤って表現されています。

シルバーバーチの霊訓には、光(神的な力)は完全であるけれども、鏡(魂)が不完全であれば、反射される光も不完全なものになってしまうと表現されています。

そんな不完全な魂から生じた、不完全な想いを外に向かって表現してしまうと、周囲との調和が失われ、争いが生じることがあります。

内に溜めてしまうと、内部の調和が失われて、病気になってしまうことがあります。

生命力が自然法則に適った想いとなって表現されないと、因果律の働きにより、苦痛となって自らに返って来ます。

誰しも苦痛を味わいたくないので、適った表現をするように、変わって行かざるを得ません。



もし、他人の過ちにより大きな苦痛を味わったならば、怒ったり、憎んだり、恨んだりしてしまうのは、当然のようにも思えます。

しかし、自分に非がなくても、怒りや憎しみの想いを返してしまうと、自然法則の働きにより、また苦痛を味わなければなりません。

苦痛を与えた人が、この世で裁かれることなく、平然としていても、その罪は魂(オーラ)に印記され、後で過不足のない償いをすることになります。

自然法則の働きによって、完全な公正が保たれているので、憎んだり、恨んだりする必要は全くありません。

佳きに計られていますが、多くの人はその事実を知りません。

そのために、怒りや憎しみの想いに支配され、長い間、自らが苦しんでしまうことになります。



怒りや憎しみは、言葉や行為そのものよりも、そこに込められた想いによって生まれます。

電車で足を踏まれても、故意でなければ、ちょっと腹立たしく思っても長続きはしません。

しかし、怒りを込めて足を踏まれたなら、相手に対して強い怒りが生まれ、いつまでも残ってしまうかもしれません。



相手の言葉や行為に込められた想いに、自らが同調してしまうと、同じ想いが生じてしまいます。

人を傷つけるような摂理に反した想いに、同調しないのが肝心なのですが、影響を受けずにこの世を生きるのは、きわめて困難です。

同調が成立して想いが生じると、今度はそれを外に向かって表現しようとします。

世の中から戦争がなくならないのは、受け取った怒りや憎しみの想いを相手に返そうとする、因果律が働いて、それが繰り返されているからです。

もし、相手に返そうとする衝動を抑えたのなら、想いは内に滞ってしまいます。

内に滞った怒りや憎しみの想いは、常に表現を求めているので、訳もなくイライラしたり、怒りやすくなり、その後の人生に悪い影響を与えてしまいます。



滞った想いがあるといけないのは、あるがままの自分から生じている想いを、素直に表現するのを妨げてしまうからです。

生命力という神的なエネルギーは、人や動物や社会に奉仕するためにありますが、内に滞った想いは、その想いを屈折させてしまいます。

成長の機会を逃し、生まれて来た意味を、少なからず失ってしまうことになります。



この世界は、さまざまな発達段階の人間(魂)が、地上という同一平面に生きています。

それゆえに、許すことが困難な出来事が、そこかしこで生じています。

怒りや憎しみが生まれると、精神の自由を奪い、魂に内在する良心とぶつかり合って、苦痛となります。

この苦痛は対象のせいだと思い込んでしまうと、怒りや憎しみが強くなり、それに伴い苦痛が増してしまい、悪循環に陥ります。

苦痛は、内に怒りや憎しみがあるためなのですが、そのことに気付くのは難しいと考えられます。



許しとは、内に滞っている想いを手放すことです。

許さなければ、怒りや憎しみの想いは解放されずに、苦しみ続けます。

許しには、対象へ向けた無条件の愛が必要となります。

謝ったら許す、改心したら許す、対象に求めるものが何かあれば、無条件ではありません。

無条件の愛は、一朝一夕に手に入るものではなく、魂の成長が伴わなければいけません。



怒りや憎しみによって生じる苦痛は、一体、何のためにあるのでしょうか?

苦痛には、魂を目覚めさせるという、霊的に大切な意味があります。

魂が目覚めるとは、本当の自分が目覚めることです。

本当の自分が目覚めると、怒りや憎しみに縛られ、人生を損失していた自分に気付くことになるかもしれません。

魂が目覚めると、自分の中にある神性(愛)が目覚め、より高く、強い愛が表現されるようになります。

対象への、自己犠牲という愛により、内にある想いが解放された瞬間、許しとなります。



神の摂理は、以下のプロセスで、私たちを許す方向に導いています。

許せないと、神の摂理に反した想いが生じ、内に滞ります。

その想いは、因果律の働きで苦痛となります。

苦痛は、魂に響き、目覚めさせて行きます。

魂が目覚めると、自分の中の神性が目覚めます。

神性が目覚めると、より高い愛が発揮されるようになります。

自己犠牲により、内にある想いが解放され、対象は許されます。

対象を許すと、苦痛から解放されます。



許せるか許せないかは、魂の成長度合いにより決まります。

たとえ今、許せなかったとしても、結局は許せるようになります。

絶対に許せないことはないのは、常に魂は成長しているからです。



この世界にちりばめられた1つ1つの魂が、認め合い、許し合いながら、1つになって行きます。

愛という、魂を引き付け合う力で、1つになって行きます。



神の摂理は完全であり、無駄なものは何1つありません。

精神と肉体の苦痛を通して、愛を表現させる方向に、私たちを導いています。