2017年5月14日日曜日

子育ては知識ではなく愛情



私の家には、「しろ」という名の7歳の雑種の犬がいます。

しろは生まれてすぐに、5匹の兄弟犬と一緒に捨てられ、保健所に収容されていました。

このままでは、死んでしまうかもしれなかったので、家族で5匹を引き出して、育てることにしました。

母犬はいなくても、生まれたての子犬たちは、人間が与えるミルクで順調に育ちました。

しばらくして、里親が見つかり、全匹もらわれて行きました。



しばらくして、しろの様子を伺おうと、飼い主になった人に連絡を取ったのですが、つながりませんでした。

義父が亡くなった直後で、妻は大変な時でしたが、そのことがとても気になっていました。

何気なく、保健所に収容されている犬を掲載しているホームページを見たら、そこに大きくなったしろらしき写真を見つけたそうです。

実家から戻った妻は、早速、その犬を確かめに行きましたが、やはりしろでした。

穏やかでやさしい犬なのに、ウーっと唸り声を上げていたそうです。

会えたうれしさと、何でもっと早く迎えに来なかったのかとの想いが、入り混じっていたような気がします。

偶然ではなく、霊界から働きかけがあって、見つけられたと考えています。

飼い主になった人は、その後、精神を病んで動物を飼える状態ではなくなってしまい、しろが逃げ出してしまったようです。



飼い主の家を出て、しばらく放浪していたため、やせ細っていました。

そして、生後8ヶ月しか経っていませんでしたが、妊娠していました。

1才にもなっていない犬が、子犬を産んで育てられるのか、少し心配でしたが、しろのお腹はどんどん大きくなって行きました。

そして、動物の出産を初めて見る時が来ました。

犬は安産の象徴と言われますが、産まれる瞬間は「キャイーン」と痛そうに啼いていました。

2匹の子犬を産んだ直後に、羊膜をきれいになめて取り除いていました。

誰に教えてもらうのでもなく、子犬にフンやおしっこを促したり、お乳を飲ませたりして、1歳にも満たないしろの子育てが始まりました。

母犬から引き離され、子育ての仕方を全く知らないしろでしたが、無事に子犬を育てることが出来ました。

その様子を毎日見ていて、子育ては知識ではないと思いました。

動物の持つ本能と言ってしまえばそれまでですが、子育ては愛情表現そのものと思いました。



生命(魂)は、神の一部であり、常に神とつながっています。

 もちろん、神とつながっているのは、体感的に認識されていません。

目に見える肉体は、口から取り入れる栄養によって活動していますが、目に見えない霊的次元の魂(霊)は、大始源である神から生命力を受け取り活動しています。

魂が受け取った生命力は、出来事を経験することにより思念(想い)となり、精神的次元で思考や感情に変換され、最終的に肉体的次元で表現されて、完結していると考えられます。



神は無限の愛です。

生命力は神から受け取っているために、愛を帯びています。

従って、本来人間は、愛を表現するために生きていると思います。

しかし、肉体や(この世の)自我を持っているので、それを満足させることを優先してしまい、愛を表現することを、つい忘れてしまいます。

誰かのために何かをしようとすると、自分の持っている力以上のものが発揮される時があります。

それは、誰かのためにという愛の想いにより、神と同調し、つながりが強くなり、より多くの生命力が魂に流れ込んでいるためと考えられます。

生命力と共に、愛を表現するための叡智が与えられていると考えています。



愛情表現を通して、動物の魂は、神と強く結ばれていると思います。

動物を見ていて、子育てに必要なことは、神から全て伝わって来て、ただそれを行動に移しているだけのように思えてなりません。

そう考えると、同じ動物である人間を育てるのも、知識ではなく、愛情があれば心配ないのかもしれません。

知識は、あくまでも補助的なものであり、詰め込むほどかえって混乱し、不安になってしまうような気がしてなりません。

肝心の愛情がなければ、いくら持っている知識を実行に移しても、上手く行かないのかもしれません。

赤ちゃんが泣いていたら、何故泣いているのかを考えるのではなく、抱き上げて、心を鎮め、その瞳を見つめていれば、何かしらの理由が浮かび上がって来るのかもしれません。

一人で生きているように見えますが、私たちは常に神とつながっています。

頭で考えて行動するのではなく、愛情を持って行動していれば、霊界から直感として答えをもらい、それに従って行動すれば、良い結果が生まれるような気がします。



世の中には、子供に対する愛情を持てないと、悩んでいる人がいます。

そんな人は愛情がないのではなくて、何らかの原因があって、表現できなくなってしまっていると思われます。

原因の多くは、トラウマと呼ばれるものですが、それは過去の出来事の記憶ではなく、生じていた想いによって引き起こされると考えられます。

過去に生じていた想いが障害となって、素直な愛情表現が出来なくなっていると考えられます。

最も信頼するべき存在、愛情を注いでもらえる存在から、ひどい仕打ちをされて、表現できないような強い想いが生じていたと思います。

安心や満足が生まれるところが、恐怖や不安や不満が生まれてしまったと考えらます。

時を経て、自分が親になった時に、記憶として残っていない過去の恐怖や不安が呼び覚まされ、心が縛られて、身動きできなくなってしまっている可能性があります。

あなたが悪いのではなく、物心も付いてない時に受けた行為により、愛情表現が出来なくなっているだけです。

従って、自分を責めたり、愛情がないと嘆く必要は全くありません。



心の奥でうごめいている何者かは、表現が出来なかった想いです。

生きづらくしている、自分の想いを表現しにくくさせている、内にある過去の想いを解放させてやりましょう。

簡単に、誰でも出来るやり方を試してみましょう。

幼かった時のあなたを心の中に思い描いて下さい。

当時の写真があれば、もっと良いです。

その時の自分を、やさしく、包み込むような気持ちで、「もう大丈夫だよ」と、微笑みながら声をかけ、目を閉じて心の中で抱きしめてやりましょう。

その時、注いでもらえなかった愛情を、今のあなたが代わって注いでやりましょう。

少しずつで良いですから、毎日続けてみましょう。



この宇宙を創ったのは神です。

神は無限の愛であり、愛に勝る力は、この宇宙に存在しません。

恐怖、不安、怒り、他のあらゆる想いは、愛の力により解放させることができます。

屈折してしまっている愛の表現は、想いが取り除かれることにより、本来の表現を取り戻します。



ところで、人は何故、愛を表現しなければいけないのでしょうか?

愛を表現することで、自分(魂)が成長するという自然法則があるからです。

そして、魂は成長して、神に近づくように、定められているからです。

愛を表現するように、自然法則により導かれているのですが、何らかの原因で表現できなくなってしまうと、成長が出来なくなってしまいます。

そして、成長が出来なくなると、自然法則の働きにより、苦痛が生じるようになっています。

人は、生まれる前に決めていた試練として(霊的な)病気になることがありますが、それ以外は、今生で生じていた原因で病気になると考えられます。

今生で生じた原因の多くは、肉体で表現できなかった、内に溜まっている想いと考えられます。

病気に伴う苦痛は、魂を目覚めさせ、内に溜まっている想いに気付かせると言う意味があります。

そして、苦痛によって魂は成長し、成長した魂から生まれる愛によって、内に溜まっている想いは解放されます。

原因があって病気になりますが、その原因を取り除いて行くのも病気です。

多くの病気は、自分の成長を妨げている想い(原因)に気付き、それを排除するためにある、神の摂理の1つと考えられます。



与えられた試練以外の苦痛は、愛に反する行為により作り出されたものです。

愛に反する行為を受けたことにより、恐怖や不安が生じていて、愛が表現できにくくなっていて、成長が妨げられています。

自分は悪くないのですから、苦痛から解放されて、自分(魂)から生じている愛を、自然に表現できるようになれるはずです。



子供を育てるのは、成長するために与えられた試練であり、悦びです。

自己を犠牲にすることで魂は成長し、愛情を表現することで悦びとなります。

もし、子育てが悦びにならないとしたら、親としての義務感が優先されて、愛情が表現されていないのかもしれません。

頭で考えるのではなく、湧き上がってくる直観に従えば良いのかもしれません。

神の摂理によって子供を授かったのであれば、神の摂理に守られて子供は育つはずです。

そこに愛情があれば十分なはずです。



しろ











2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

イクミ様

ぴこちと申します。ブログ拝見しております。

シルバーバーチで検索して、イクミさんのブログにたどり着きました。
昨年、父を胆管がんで亡くして以来、人は死んだらどうなるのか頭から離れなくなり、そのときにシルバーバーチとの出会いがありました。

私には20歳と16歳の息子、娘がいます。
息子は高2で不登校になり引きこもり、娘は今現在高1で様々な不定愁訴のため学校に行けなくなっています。
流石に2人とも…となると、私の育て方が悪かったのかと落ち込みます。
これも私の人生、子ども達の人生における試練であり、魂の向上に不可欠なものなのでしょうか?
子ども達の内なる想いが病気となって現れているのでしょうか?

イクミ さんのコメント...

ぴこち様

初めまして、イクミです。
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
お父様がなくなったのをきっかけに、シルバーバーチの霊訓に出会ったのですね。

お二人の大事なお子さんが、家から出られなくなり、ご心配でしょう。
親の育て方が悪かったのかと、悩んでしまうのは、当然かもしれません。

30数年前になりますが、高校生の時に、私と仲の良かった友人が、突然学校に来なくなりました。
その頃は、ひきこもりという言葉は存在しませんでしたが、今考えると典型的な引きこもりだったと思います。
何度も自宅に泊って、次の朝、学校に連れ出そうとしましたが、どうしても無理でした。
本人にどうして行かないのか聞いてみましたが、明確な答えは返って来ません。
親戚にもニートと言われる40代の女性がいますが、人も羨むような高学歴にもかかわらず、定職に就かずに家で過ごしています。
顔に皮膚炎があり、見た目を気にしているようですが、それだけの理由ではないと思います。
両者に共通しているのは、両親の保護下にあり、食べて行くのに困らないことであり、甘えているように見えました。
しかし、どうしてこんな行動を取ってしまうのか本人にも判らないようであり、もがき苦しんでいるように感じました。

今、日本でひきこもりと言われる人の数は、70万人と言う報告があります。
その1つ1つに、それぞれ違った原因があると思われます。
これから書くことは、あくまでも私見であり、お子さんたちに当てはまるかどうか判りませんので、ご了承下さい。

私の知っている限りでは、どちらかと言うと物わかりの良い、優等生タイプの人がひきこもりになり易いように感じます。
親の望むことに、必死に応えようとしている子供に多いように思います。
自分の想いを抑え込んで生きてきて、言葉にならないような想いをたくさん溜め込んできたように思います。
裏を返せば、親が子供に対する要求度が高く、子供の気持ちに耳を傾けることが少ないように感じます。
いじめなど原因がはっきりしていれば対応しやすいのですが、人の想いを知ることは出来ないので、解決が難しくなっていると思います。
内に溜め込んできた、自分でも判らない想いが一杯になって、これ以上は無理になってしまい、周りとの関係を絶ってしまった気がします。
その想いとは、諦めの想いだと思います。
周囲(特に親)に対する、諦めの想いが溜まってきて、その諦めの想いが限界に達し、自分の人生を諦めてしまう形として表現されていると思います。
ひきこもりの原因は、内にある諦めの想いであり、人生を諦めてしまうような行動となって、外に表現されていると思います。
何に対して諦めているかと言えば、自分の想いを判って欲しいと、ずっと思い続けているのにもかかわらず、それが叶えられなかったので、周囲に対してだと思います。
周囲に対して諦めてしまっているので、外に出て行く必要がなくなっていると思います。

もしそうであれば、その溜まっている想いを解放してやれば、外に出て行くようになるかもしれません。
そのためには、お子さんと正面から向かい合って、本当の想いを言い合えるような関係を構築していかなければいけません。
ただ、向かい合っても、心を開いてくれない限り、本当の想いを語ってくれません。
心を開いてもらうには、お子さんのことを、心から信じなければいけません。
口先だけで「信じている」と言っても、見抜かれてしまいます。
あなたのことを心から信じているという想いが、お子さんの魂に届かなければいけません。
自分の子供としてではなく、一人の人間として対等で、一つの独立した魂として尊重し、真剣に耳を傾けて下さい。
その言葉に対して、お子さんの意見を尊重する気持ちを込めて、あなたの想いを自分の言葉で語って下さい。
それを毎日ひたすら続けて、信じてもらえるようになるしかありません。
お子さんをどんなに愛していても、信じてもらわなければ、その想いは伝わりません。
今は、信じ合えていない、判り合えていないと思います。

もちろん周囲だけではなく、引きこもっている本人にも責任があります。
多くの子供たちは、伝えたくても、十分に伝えられないまま生きています。
自我が大きく、判ってもらいたいと言う思いが強すぎたのも、今の苦しみにつながっていると思います。

シルバーバーチの霊訓に何回も書いてあったと思いますが、今起きていることには、必ず原因があります。
息子さんが引きこもってしまったのも、娘さんの不定愁訴にも、原因が必ずあるはずです。
その原因は、過去生にある可能性も否定出来ません。
そうなるように、予定されていたと言うことです。
しかし、過去生は知りようがないので、ここでは今生の原因と思われることを書きました。

お子さんたちも苦しんでいると思います。
これではいけないと思っているでしょう。
でも、原因が自分でも判らなければ、どうすることも出来ません。
私は、内にある諦めの想いが原因と思います。
諦めの想いから、お子さんたちが解放されたならば、人生に希望を持って、前に進んで行けると考えています。