2018年4月29日日曜日

良心の声に従う



小学生の時に住んでいた家の隣りに、小さな駐車場がありました。

ある夜のことです、門の外にいたところ、目の前を黒い動物がよぎったので、何を思ったのか、地面にある石を拾って逃げていった方向に向かって投げつけてしまいました。

次の朝、起きてみると近所がちょっとした騒ぎになっていました。

駐車場に留めてあった1台の車のフロントガラスが蜘蛛の巣が張ったように壊れていたのです。

その瞬間、夜投げた石が当たって割れたと思いました。



大変なことになってしまった思いつつ、そのまま学校に登校しました。

授業中も、壊れたフロントガラスのことが頭から離れることはありませんでした。

いたたまれない気持ちになり、家に帰って母親に事情を話し、その日のうちに車の持ち主に謝りに行き、親が弁償しました。



黙っていれば、絶対にばれることはありませんでした。

なのに、なぜ告白したのかと言えば、しらばっくれていることが出来なくなったからです。

告白すれば、親に怒られるのが判っていますが、それよりも黙っていて、心が苦しい状態が続くのに耐えられなかったのです。

何で告白したのか、その時は考えもしませんでしたが、今は、自分の中に「良心」が存在し、苦しみを生み出していたと思っています。



ところで、良心とは何なのでしょう?

誰かに教えてもらったのでしょうか?

生まれた後に身に付けたものではなく、初めから人に備わっているもののようです。



人の悪口を言って何とも思わない人もいれば、良心が咎めて言えない人もいます。

ハンティングをしても何とも思わない人もいれば、動物を殺すのに良心が咎める人もいます。

このことから、良心は絶対的なもののではなく、人によって違うようです。

性別、文化、風習によって影響は受けますが、個々に備わっている資質に関係しているようです。



良心が生まれるのは一瞬であり、直感として感じています。

ところで、直感とはどこで生まれるのでしょうか。

頭脳の働きによって作り出されるものであれば、知識や経験を基にして、思考する時間が必要になります。

直感とは一瞬のひらめきであり、思考を超越したもであるのは明らかです。

芸術的なひらめきが、思考の産物であるはずがないのは、誰でも判ります。

直感は、時間を超越した次元の存在である「魂」から生まれていると考えています。



良心は、言動に移すかどうかを決める重要な基準になっていると思います。

私たちは自由に意思決定していますが、良心により一定の縛りが設けられているようです。

その良心をシルバーバーチは、魂に内在する神の監視装置(モニター)と表現しています。



なぜ、神は魂に良心を内在させたのでしょう?



この世界は、神の創った自然法則によって支配されています。

自然法則に背いた行いをすれば苦通が、適った行いをすれば悦びが与えられるようになってます。

神が自然法則を創り出したのは、その働きによって宇宙に秩序を与え、万物を進化させるためと考えられます。

生命(魂)に限って言えば、自らの心(愛)を表現させる方向に導くためです。



人は自由に意思決定することが許されているのですが、未熟な上に、肉体を纏っているために、自然法則の働きが見えなくなっています。

そのために、往々にして法則に背く過ちを犯してしまいます。

そんな過ちを私たちが犯さないために、神は良心と言う人を監視するモニターを魂に内在させたと考えられます。



自然法則(摂理)に背く行いをしようとする時に、内なる良心が言葉にならない声でささやきかけてきます。

「本当にそれで良いのか?」

「やめておけ」

人は弱いもので、その声に対して「だって~だからしょうがない」と正当化しようとします。

それは虚しい言い訳であり、どちらに進むべきなのかは、すでに決まっているのです。

どちらか迷った時には、自分を偽らずに、良心の声に従わなければいけません。



もし、内なる良心の声に逆らって、摂理に背いた行動をすると、どうなるのでしょうか?

魂は負債(カルマ)を抱えてしまいます。

負債は大きいものから小さいものまでさまざまですが、必ず返済しなければいけません。

正確無比な因果律の働きにより、負債を返済するための償いの出来事が生じるようになっています。

死ぬまでに生じなかったら、次にこの世に生まれた時に生じるようになっています。

償いのために、貴重な人生の時間を費やさなければなりませんので、そんな遠回りをさせないために、神は良心を内在させていると考えられます。



嘘を付いても、誰も傷つくことはないかもしれませんが、それは罪なことであり、魂にしっかりと刻み込まれています。

嘘を付かないように、良心の声はしていたはずです。

しかし、その声を無視して嘘を付き、それに慣れてしまうと、終いには嘘を付いても、何とも思わなくなってしまいます。

このように、良心を無視した行動が常態化してしまうと、その声は次第に聞こえなくなってしまいます。

神の声が届かなくなり、摂理に背いた行動を繰り返し、魂の様相が変わってしまうほどになれば、因果律の働きにより、浄化するために多大な苦痛を味わなければいけなくなります。

ちりも積もれば山となると言うことわざがありますが、良心の声に従い、最初のちりを積もらせないことが何よりも大切です。



良心に逆らおうとしているのが、「この世で作り上げてきた自分」と考えられます。

この世で作り上げてきた自分とは、本当の自分(魂)とは別に、肉体で自己表現するために精神上に作られた個性を有した存在です。

この世で作り上げてきた自分は、頭脳により思考をしていて、霊的に物事を見極められないために、時に打算的で利己的になってしまいます。

それが俗に言うエゴと呼ばれているものと考えられます

神の声である良心と、この世で作り上げてきたもう1つの自分(エゴ)の間で、せめぎ合いを繰り返しながら、人生は営まれています。



良心の声に従うと、物的に損をしたり、困難が立ちはだかったり、遠回りをすることになったり、窮地に追い込まれてしまうこともありますが、霊的な成長のために、最善の選択をしていると考えられます。

死んだ後に、この世の全人生を振り返る時が必ず来ます。

その時に、良心の声に従って行動をしたために後悔せずに済んだことを知り、ホッと胸を撫で下ろすでしょう。



魂や神の存在を信じない人がいます。

そんな人は、良心の存在をどのように考えているのでしょうか。

もし良心が頭脳が作り出した道徳的な概念であるとするならば、呵責が生じるのはどうしてなのでしょうか?

そんな自分を苦しめる不合理な感情が存在する必要が、どこにあるのでしょうか?

頭で考えれば考えるほど、良心を説明するのは困難になります。



人は成長するために、この世に生まれて来ます。

神の摂理に適った生き方をすることで成長して行きますが神の摂理は目に見えず実感を伴わないため、その存在に気付かずに、つい背いた行いをしてしまいます。

そんな、盲目的なこの世の人のために、神は良心を埋め込みました。

良心を通して、自らの存在を示し、声を聞かせています。



人に良心があるのは、神の摂理に背いた行動をさせないためであり、この世にいる私たちを健全に成長させるためです。

良心の存在は、人(魂)に神の心が宿っていることの証左となります。

良心の声に従えば、神の心に従っていることになります。





2018年4月15日日曜日

生まれて来たのは偶然ではない



私の仕事は歯医者なので、毎日に様に虫歯の治療をしています。

ご存知でしょうが、虫歯はプラークという細菌の塊が原因で起こります。

従って、歯ブラシを丁寧にしてプラークを取り除けば、虫歯になるのを防げるはずです。



しかし、歯ブラシを丁寧にかけていても、虫歯が出来てしまう人もいます。

そんな人は、砂糖の入った甘い食べ物や飲み物を好んで口にしていることが少なくありません。

元々、甘いものが好きな人もいますが、ストレスによりイライラしてしまい、甘いものを食べて発散している人も多くいると感じています。

そのことから、虫歯は精神的な原因も少なからず影響していると考えられます。

イライラしてしまうのは、魂の属性である寛容さが足りないと捉えるのであれば、霊的な原因も内在していると言えます。



肉体(物質)的、精神的、霊的な原因が存在して、それらが複雑に絡み合って、結果として虫歯になっていると考えられます。

よって、歯ブラシの指導よりも、(甘い物を食べる以外に)ストレスを発散する手段を見つけるようにアドバイスをした方が有効な患者さんもいると思います。

霊性の高まりと共に、腹を立てたり、欲求不満などが少なくなれば、同時に虫歯になる可能性も少なくなると考えられます。



この世に起きている事象は結果です。

結果には必ず原因があります。

原因があって結果が生じることを「因果律」と言います。

起きることに偶然はないと言われるのは、因果律という自然法則の働きによって、全ての事象は生じているからです。



虫歯は細菌が原因で起こるのを、疑う人はいません。

細菌は物質的次元の原因であり、科学的に証明されているからです。

しかし、精神的、霊的次元の原因は、客観的に証明する手段がありません。

そんなものは存在しないと言われれば、それでお終いです。

全ての事象は、さまざまな次元の原因が絡み合って起きていますが、物質的以外の原因は判りにくいので、偶然として片付けられてしまうことが多いようです。



この世に生まれて来るのはどうでしょうか?

かなり多くの人が、偶然生まれて来ると考えています。

しかし、生まれて来るのも自然法則(因果律)の働きによるものであり、誰一人として偶然はありません。

何か原因があって、その結果として生まれて来ます。

原因は必ず結果の前にあるので、誕生以前にあったことになります。



一般的に、生命の誕生とは、精子と卵子が結合した瞬間を言います。

正式には、魂が受精卵に宿った(霊が受肉した)瞬間を指します。

ちなみに、死とは肉体から魂が完全に離れた瞬間です。

生命の本質であるが肉体(受精卵)に宿ると、細胞分裂が始まり、人間の身体が形造られて行きます。



目に見えない魂が、地上で自己表現するためには、目に見える肉体と言う媒体が必要です。

そのために、地上のどこかの母体に宿らなければなりません

どの母体に宿るのかは、無作為に決められるのではありません。

その魂が、何を学び、どの様にして成長して行きたいのかによって決められ、それに最も適した環境(母体)が選ばれます。

親にとっても、生まれて来る子供を通じて、何を学び、どの様に成長したいのかによって、授かる子供が決まります。

大いなる叡智の働きにより、子と親の双方の目的が一致した時に、1つの家族になると考えられます。



生まれる前にも自意識は存在し、自分には何が足りないのか、何を学ばなければいけのか判っています。

効率良く足りない部分を学び、魂を成長させるために、およそのシナリオが用意されます。

それに沿って人生は展開されて行きます



人生では、不幸や凶事と言われるような事象が往々にして起こります。

もし、外に原因を見つけられなければ、それは予定されたシナリオである可能性があります。

原因は、事象を通して自分を成長させたい、内なる欲求なのかもしれません。

そして、人は未熟なために過ちを犯します。

神の摂理により、過ちを償わないと、成長することは許されません。

過去の人生(過去生)で、自然法則に反した行いがあり、一刻も早く償うことを自らが望んでいた可能性もあります。

いずれにしても、原因は自分にあり、不運を嘆いたり、不公平だと憤りを覚えるのは間違っていることになります。



時に、自分に全く原因がなく、苦痛を伴う事象が起きることがあります。

例えば、自分に過失がない事故により、身体の自由を失ってしまう人がいます。

当然のことながら、日常生活には大きな障害が生じますが、その苦難の経験によって、相応の霊的な成長が得られています。

物的に失ったものは霊的な成長によって補われ、公正、公平は完全に保たれています。



つらく苦しい日々の最中では、何で自分がこんな思いをしなければならないんだと、強い憤りを覚えるかもしれません。

しかし、次の世界に行くと、その考えは一変します。

死んでしばらくすると、この世の全人生を振り返る時が来ます。

あれほど苦しんで、痛めつけられた出来事が、実は自分を大きく成長させていたことを、明確に自覚します。

挫折しそうになりながらも、どうにか乗り越えられたのなら、生まれる前に自分が承知していた取り決めを果たせたことになります。

苦難の真の意味を知ると共に、この世で成長できたことを大いに悦ぶと思います。



通常、学びは頭脳により行われますが、霊的な学び(叡智)は経験と引き換えに、神から授けられると考えられます。

の世に生まれ、様々な経験をするのは、自分に足りないもの(叡智)を学びながら、成長するためと考えれらます。

によって足りないものは、それぞれ違います。

学ぶべきものが違えば、人生も違って来るのは当然です。

このようなことを学ぶために、このような人生になると、承知した上で生まれて来ていますが、いざ生まれてしまうと、神の配慮によりその記憶は消されてしまいます。

人生が不平等、不公正に思えてしまうのは、原因が判らずに、起きた結果だけしか見えないからです。



魂の成長という視点から、人生を見つめなければいけません。

幸せな人生とは、つらい出来事が起こらない人生ではありません。

つらいながらも、それを乗り越えた人生です。

何故なら、今生で魂を大きく成長をさせ、生まれて来た意味を成就できたからです。

この世のつらい出来事は、今生で大きく成長しようとする自らの欲求が聞き届けられ、その結果として生じているのかもしれません。



魂は、神が創造した、神の心を表現する一部です。

神は完全ですが、個々の魂は不完全であるため、その表現はどうしても不完全なものになってしまいます。

完全なものが、完全に近づこうとする過程が成長であり、その一過程としてこの世があります。

この世の経験を通して、目に見えない、言葉にならない叡智を手に入れながら、魂は完全へと少しずつ近づいていると考えられます。



魂(生命)とは、常に活動するものであり、同じ場所に留れず、完全へと向かって、成長して行くように定められているようです。



の世に生まれて来るのは結果であり、完全(神)に近づきたい魂の欲求が原因と考えられます。








2018年4月1日日曜日

今の苦しみは報われる



人生は楽しいものなのか? それとも苦しいものなのか? ふと考える時があります。

楽しい思いをしている時は、楽しいものだと思うだろうし、苦しい思いをしている時は、苦しいものだと思ってしまうのは当然かもしれません



人生は楽しいことばかりが起これば良いと、ほとんどの人は思っているでしょう。

しかし、それはあり得ません。

何故なら、私たちはこの世で成長するために生まれて来たのであり、苦しい思いをせずに成長は望めないからです。

苦しい思いをせずに、成長したいと望むのは、物事を上達したいけれども、鍛錬するのは嫌だと言っているようなものです。

一生懸命に鍛錬した人が物事が上達するように、苦しみを乗り越えようとする過程で成長が得られるように、この世界はなっています。

それによって、公正が保たれています。



しかし、苦しい思いをするのは誰でも嫌なものです。

楽しいことばかりの人生では、成長できないのでしょうか?

小学生の時、遠足の日が楽しみでした。

授業から解放されて、クラスメイトとおしゃべりしながら行けるのですから、当然です。

ところで、毎日が遠足だったらどうでしょう。

最初は、楽しいでしょうが、次第に飽きてしまうような気がします。

毎日、授業を受けているからこそ、年に1度の遠足が楽しく感じられます。

遠足に行けば、思い出は作れるでしょうが、そこから学ぶことはあまりなかったような気がします。

たとえ面白くなくても、普段、教室で受けている授業から、新しい知識を身に付けています。



私たちは、苦労して漢字を覚えたり、計算が出来るようになるのは、その先の生活で不自由な思いをしないためです。

大人になってから、学生の時にもっと勉強しておけば良かったと思う時があります。

それは、勉強したことが後で活かされ、知識を身に付けるのに適した時期があるのを知ったからです。

楽しいとは思えない、むしろ苦しい経験の中で、私たちは何かを学び、そして成長しているようです。

そして、人生を振り返った時に、苦しい時こそ自分が成長していたことに、はっきりと気付くようです。



当然のことですが、小学校で学んだことは、中学校で活かされ、中学校で学んだことは高校で活かされます。

小学校の時に足し算や掛け算を習得しなければ、中学生の時に方程式を解くことは出来ません。

段階を踏みながら、次のステップに進むために必要な知識を習得しています。

この世の卒業式に当たるのが死です。

人は死ぬと、それまで自分を表現するために使っていた肉体を失いますが、生命の本質である魂は変わりなく存続しています。

小学校で身に付けた知識が、中学校で活かされる様に、この世で身に付けた知識や経験は、次に行く世界で活かされます。

見方を変えれば、次の世界でやりたいことが出来る資質を身に付けるために、この世に生まれ、苦しみながら自分にりないものを身に付けていると言えます。



人は、あの世に行くとこの世の全人生を振り返る時が必ず来ます。

この世での言動や自分の想いがオーラに刻まれていて、そのつ1つが思い出されます。

この世でやり残したことが判り、今度こそは目的を遂げようと決意して、生まれて来る人もいるでしょう。

自分が犯した過ちを大いに反省し、それを償うために、この世に生まれて来る人もいるでしょう。

何れにせよ、明確な目的があってこの世に生まれ、その目的を果たすために生きているのは間違いありません。

生きる目的は、の世においても、あの世においても一貫して自分を成長させるためです。

しかし、あの世ではこの世のような苦しみや痛みは存在しません。

とても快適な世界でしょうが、比較対象となるものがないため自分の足りないところに気付きにくく、この世のように苦しみや痛みを通して教訓を学んだり、成長することは出来ないと考えられます。

誰もが避けたい、苦痛が伴う病気は、この世だけのものです。

その苦痛には、本当の自分(魂)を目覚めさせ、大切なものに気付かせると言う意味があります。

病気になり床に臥せれば、それまでの生き方や考え方の不自然さに気付いたりに(肉体的)表現ができる有難さを痛感するもしれません。

死ぬかもしれない大病を患えば、それまで追い求めていたものに大して価値がないことが判り、人の優しさや思いやりに、大きな価値を見出すかもしれません。



肉体を動かし、頭を働かせて、人間関係に揉まれながらする仕事や、無報酬でしている家事も、苦に当たるものなのかもしれません。

私たちは、生活して行くためのに仕事や家事をしています。

同時に、それを通して人や社会に奉仕をする悦びを感じるためと考えられます。

あの世では養う肉体がありませんので、この世のように仕事をする必要がありません

何もしなくても生きて行けるのですが、それでは成長は得られず、生きている目的を果たしているとは言えません。

あの世で成長して行くことができるのは、奉仕をする資質が身に付いている者と考えられます

この世の人生は、人や社会のために役に立つ悦びを学ぶためにあり、奉仕の世界であるあの世で成長して行くためと考えられます。



物質しか見えないこの世において、さまざまな経験を通して、目に見えない大切な教訓を手に入れています。

魂に刻み込まれた教訓は失われることはなく、霊的な資質となります。

次に行く世界で、より高い自己表現をするために必要な資質を、この世の苦に当たるものを通して、身に付けていると考えられます。



意味のない苦しみは存在しません。

出来事の因果関係が判らないと、大きな苦しみとなってしまいますが、神の摂理の働きで生じているので不公平、不公正は一切ありません。

苦しみと魂の成長は表裏一体の関係です。

その最中において判るはずもありませんが、苦しみには成長の悦びが隠されています。

今生の苦しみは、次に行く世界で全て報われます。

成長という報いがあるのを知った時に、摂理を考案した大いなる存在に、感謝の想いを抱くようです